【3】より続く。
華麗かつ無残な、第二隧道の宇治田原側を確認。洞内は抜けずに反対側へ回りこんだ。
位置関係を再度確認しておこう。
このように、現道から回り込んで第二隧道の反対側(奥山田側)へ至るには、まず第三隧道と出会うことになる。
実はこの第三隧道だけは、この探索日からさかのぼること7ヶ月半の2009年10月3日に予定外の対面を果たしていた。
この日ここを通りかかった時点で、奥山田の旧隧道群のことは知っていたのだが、当時のわたくし的には「自分にはまだ早い」と考えていて(冷静なのかヘタレなのか…笑)、あえて探すこともなく通過しつつあったのだが…
見えちゃったんだもの…(笑)。
振り返り気味に現道から望んだ第三隧道。コレが左のサイドミラー越しに見えちゃったからには、停まるしかないでしょう。
そのため、第三隧道だけは再訪問となる。以降しばらく、2回分の写真が混在するのでご用心(謎)。
とか言いつつ、マジで今気づいたんだけど、
第三隧道の奥山田側って、実はハイライトなのよ。なんだけども、
まともな写真が無いぃ(血涙)
よぅ確認もせんと記事にしようと思ったな自分。根幹に関わるとこやでコレ(笑)。ここも再々訪必須やなあマジで。
仕方ない(ヲイ。
我が師匠・よとと隊長の写真をパクr 拝借してその姿を。
どうだ!奥山田第三隧道・奥山田側坑口。
よととさん、すいません、お借りシマス…
わたくしの時には全く隠れて存在も不明だった扁額は、「幽谷窃然」。当然、写真なし。それ以外の極めて装飾性の高いポータル意匠は、ほぼ第二隧道と共通している。…ということは、あの残念改修された第一隧道も、ほぼこのような姿だったに違いない。
第二隧道で気づいた、あの
五角錐の要石。ここでも確認。
そして、重要な情報を含む銘板が、左右のスパンドレルに。
まず、向かって左。
遠く横浜から招かれてこの奥山田の三隧道建設に尽力したという、青木市太郎の名前が。
なぜそんな遠いところから招かれることになったのか。誰かの推薦があったのか、あるいは、この奥山田にゆかりがあったのか?永冨氏の調査でもそれは判明しなかったようだ。
とりあえず、浪漫だなぁ…。
そして、むかって右。
「明治四十五年三月竣工」。
これは第一隧道の宇治田原側に掲げられていたのと全く同じ(複製って意味じゃない)。この年号は、奥山田新道の開通の年、ってことか。
入洞して振り返り。思えば三本目にして初入洞(笑)。
色々なものが置かれている。ここは車道としては役目を終えているものの、資材置き場として現役なようだった。
煉瓦による巻き立てはすぐに終了、洞内の大半は…。
抜ける手前から振り返り。
ほぼ、オール素掘り!
なんとなく崩れやすそうに見えるものの、使用されている故か洞床は非常にきれい。落石など見当たらない。素晴らしい!
さて…
第三隧道、宇治田原側へ抜ける。
どんなんかな~?
【5】に続く。