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フォノン通信

2019年にヤフーブログから移行してきました。
制作した絵画、詩、読んだ本のことなど投稿していきます。

 

☆サルトルの小説『嘔吐』をなんとか読み終えた。『嘔吐』は、私たちがイメージする小説とは異質なものであった。どうにかこうにか読み終えたが、しんどかった。

 

『嘔吐』は、死ぬまでに再読したい本の一冊だったのですが、読了までにはかなり時間がかかりました。

 

☆『嘔吐』は、20世紀文学の金字塔と言われているようです。『嘔吐』は、世界の文学に大きな影響を与えた小説として最高の評価が与えられている。

 

☆『嘔吐』はどんな小説なのかと人工知能様にお伺いをしたところ

 

「『嘔吐』は、哲学的な問いを文学的な形で深く掘り下げた作品」だとか

「『嘔吐』は哲学的な思索と文学的表現が融合した作品」であるという回答があった。

大体、こんな具合にまとめてくると予想していた。

 

ChatGPTに感想文を書いてもらったところいきなり間違いを見つけた。主人公の名前が正確ではなかったのである。一体、どこから引用してきたのだろうか。

 

僕の感想だが、ChatGPTは文学の質問で間違いをすることが多いような気がする。以前、村上春樹の代表的な作品を尋ねたところ違う作家の作品名を回答してきた。

 

『嘔吐』に出てくる有名な場面に登場するのは「マロニエの根」であるが、Perplexityが書いた『嘔吐』の感想文では「栗の根」と書いていた。どこに「栗の根」と書いてあったのか出典を知りたいところですが、たぶんAIはそれには答えられないだろう。

 

☆学生のなかには読書感想文の課題が出たときに、実際は読まずにAIに感想文を作らせて済ましている者がいるだろうが、読んでいないのだからAIが間違ってもその間違いに気づかない。今後そのような学生が多くなるだろう。自分で考えないから当然、思考力は衰えるだろう。

 

☆これからはAIというフィルターを通して情報を得ることが普通になるだろう。AIに支配される未来が待っているのだろうか?

すでにスマホが、情報のフィルターになっている。

 

☆僕は、高校生のときに『嘔吐』を読んだのだけれど、悪い印象はなかったのだろうと思う。それ以来、いつか再読したいと思ってきたのだから、高校生の自分はそれなりの読み方をして良い読書体験をしたのだろう。

 

*僕は、高校時代に読んだときに『嘔吐』に詩情を感じたことがあった。

『嘔吐』を翻訳した白井浩司さんは、「『嘔吐』の詩情を飽くまでも愛する」と1970年版の『嘔吐』のあとがきで書いている。

 

 

☆『嘔吐』は、主人公であるアントワーヌ・ロカンタンの日記の形式で書かれている。

 

*主人公アントワーヌ・ロカンタンは、どんな人物か。

30歳の独身青年。資産がかなりあり、働かずに金利で生活をしている。

学者ではないが歴史の研究をしている。ブーヴィル(架空の町)の安ホテルに住みついている。それなりに裕福であるが、孤独な日々を送っている。

 

*ロカンタン氏の日記には、散歩の様子や見た情景を詳細に描写するなどいわゆる日記風の記述も多いけれど、「存在」に関する哲学的な独白などが随所に記述されている。

 

☆『嘔吐』の中で「吐き気」という語が何度も使用されているが、その箇所からいくつかを引用してみようと思う。2010年に出版されたフランス文学者・鈴木道彦の新訳『嘔吐』から引用します。

 

*p35から引用

そのとき、<吐き気>がわたしを捉えた。私は崩れるように、腰掛に座りこんだ。自分がどこにいるのかも、もう分からない。さまざまな色が私のまわりでゆっくり回っているのが見え、私は吐きたくてたまらなった。というわけで、それ以来<吐き気>は私から離れず、私にとりついている。

(以上、引用)

 

*p37から引用

青い木綿の彼のワイシャツは、チョコレート色の壁を背景にして陽気に浮かび上がる。そいつもまた<吐き気>をもよおさせる。というよりも、むしろそれが<吐き気>である。<吐き気>は、私のなかにはない。私はそれをあそこの壁に、サスペンダーに、私の周囲のいたるところに感じる。<吐き気>は、カフェと一体をなしており、そのなかに私はいるのだ。

(以上、引用)

 

☆<吐き気>は、体の内部の生理的な反応ではないとロカンタンは気づいたわけです。しかし、まだそれ以上の分析はできていないのです。さらに<吐き気>が使われている箇所をしつこく引用します。

 

*p93から引用

何も変わりはしなかったが、にもかかわらずすべては普段と違った形で存在している。私にはそれを描くことができない。まるで<吐き気>のようで、しかもそれとは正反対だ。要するに一つの冒険が私の身に起こっているのであり、自分自身に問いかけてみると、起こっているのは、私がまさに私であって今ここにいる、ということであるのが分かる。夜をかき分けて進んでいるのはこの私だ。私は小説の主人公のように幸福である。

(以上、引用)

 

☆ここでは<吐き気>ではなく、自分の中に<冒険>の感覚が生じていて、私はまさに私であって、ここに「存在している」と自覚したのである。そして、「私」は幸福であると言っている。

 

☆小説『嘔吐』について調べると、必ず引用される箇所がある。その場面とは、公園で「マロニエの根」を眺めながらロカンタンが反芻する場面である。p211に書かれている。

 

*p211から引用

 重荷を下ろしたような感じでもないし、満足したと言うこともできない。逆に私は圧倒されている。ただ、目的は達成された。知りたかったことを知ったのだ。一月以来わが身に起こったすべてのことを私は理解した。<吐き気>は去らなかったし、去って行くとは思われない。しかし私はもう<吐き気>を耐え忍んでいるわけではない。それはもはや病気でもなければ、一時の気まぐれな発作でもない、私自身なのだ。

 

 つまり、私はさっき公園にいたのである。マロニエの根は、ちょうど私のベンチの下で、地面に食いこんでいた。それが根であるということも、私はもう憶えていなかった。言葉は消え失せ、言葉と一緒に物の意味も、使い方も、人間がその表面に記した目印も消えていた。私は少し背を曲げ、頭を下げた。たった独りで、まったく人の手が加わっていない黒い節くれだった塊、私に恐怖を与えるこの塊を前にして腰掛けていた。そのとき私はあのひらめきを得たのである。

 

(以上が、有名なマロニエの根が登場する部分の抜粋である。『嘔吐』の中でも非常に重要な箇所です。)

 

「言葉は消え失せ、言葉と一緒に物の意味も、使い方も、人間がその表面に記した目印も消えていた」と書かれています。そして、ただ「存在」だけがあった。「存在」を発見したということなのでしょう。

 

☆ここからは、「存在」という語が記述されている箇所を引用します。サルトルと言えば、「存在と無」という言葉が思い浮かびます。『嘔吐』の中でどのように使われているのか、その箇所を引用しようと思います。

 

*p164,p165から引用

待ちかまえていた<物>が急を察してざわざわし始めた。それは私に襲いかかり、私のなかに流れこみ、私は<物>で満たされた。―そんなことは何でもない。<物>、それは私だ。存在は解放され、自由になり、私の上に逆流してくる。私は存在する。

私は存在する。それはやわらかい、実にやわらかい、実にゆったりしている。そして、軽い。まるで空中にひとりで浮かんでいるみたいだ。それは動いている。至るところにそっと触れるが、すぐに溶けて消えてしまう。とても、とてもやわらかい。(以下、省略)

 

☆「存在」という言葉は、『嘔吐』のなかで何度も使われるが、抜粋した箇所は印象深い。「<物>、それは私だ」と気づき、「私は存在する」と断定している。このあたりの表現が、『嘔吐』が哲学的であるだと言われる所以であろう。さらに引用を続ける。

 

p166,p167から引用

私の思考、それは私だ。だからこそ私はやめることができないのである。私が存在するのは私が考えるからだ・・・・そして私は考えるのをやめられない。この瞬間でさえ―ぞっとするが―私が存在するのは、存在することに嫌気がさしているからだ。私は無に憧れるが、その無から私を引き出すのは私、この私だ。存在することへの憎しみ、存在することへの嫌悪、これも私を存在させ、存在のなかに私を追いやる仕方である。思考は私の背後から目眩のように生まれる。私は思考が頭の後ろから生まれるのを感じる・・・・私が譲歩すれば、思考は前方に、両目のあいだにやって来るだろう―そして私は必ず譲歩する。思考は大きく、大きくなって、今や巨大なものとなり、私をすっかり満たし、私の存在を更新する。

(以上、引用)

 

☆以上は、主人公のロカンタンが、日記のなかで記述している内容である。この部分は、ロカンタンの思考であって、サルトル自身が思索したことではないかもしれない。

 

さらに引用を続けようと思います。これが最後の引用になります。

 

*p212から引用(前に引用した「マロニエの根」が登場した部分の続きになります)

 

もし存在とは何かと訊かれたら、私は本気でこう答えただろう、それは何でもない、せいぜい、外から物につけ加わった空虚な形式にすぎず、物の性質を変えるものではない、と。それから不意に、存在がそこにあった。それは火を見るよりも明らかだった。存在はとつぜんヴェールを脱いだのである。存在は抽象的な範疇に属する無害な様子を失った。それは物の生地そのもので、この根は存在のなかで捏ねられ形成されたのだった。と言うよりもむしろ、根や、公園の鉄柵や、ベンチや、禿げた芝生などは、ことごとく消えてしまった。物の多様性、物の個別性は、仮象にすぎず、表面を覆うニスにすぎない。そのニスは溶けてしまった。(以下、省略)

 

☆物が存在であるように私たち人間も「存在」である。そして、私たちがこの世界に生きているのも偶然で、何の理由もないとロカンタンは気づいたのである。

 

*サルトルは、ここで「存在は本質に先立つ」ということを言いたかったのではないでしょうか。

 

*『嘔吐』を翻訳した鈴木道彦さんは、『嘔吐』のあとがきの中で次のように書いています。

「戦後には実存主義者というレッテルを貼られたサルトルも、『嘔吐』執筆当時は圧倒的にフッサール現象学の影響を受けており、まだ実存哲学を構築していなかった。」

(注:『嘔吐』が刊行されたのは1938年である)

 

☆僕には感想文にまとめる力はないので<吐き気>と<存在>の二語に絞って、『嘔吐』から引用するという仕方で『嘔吐』のテーマ周辺を探ってみた。

 

今後、『嘔吐』を再読するかは未定である。数年したら読みたくなってくるかもしれない。

 

☆長い文章をここまでお読みいただきありがとうございました。