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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。


陣屋事件余聞


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 升田八段は、時の名人木村義雄を半香に指し込み、「名人に香を引いて勝つ」少年のころからの夢を、なかば現実のものとした。香落ち番は指せなかったけれども、第7局まで行われ、結局は升田が勝ち、一度剥奪されていた「第1期王将」のタイトルがあらためて贈られた。

 そのころもまだ家庭向きテレビ放送がなく、映画館で本編の前に上映される「ニュース映画」に非常な人気があった。読売新聞の「今週のニュース映画評」という欄に、次のような皮肉たっぷりの文章が見られる。

「面白い王将戦 【毎日】 旅館の待遇を理由にした升田八段の対局拒否問題が解決した直後の木村名人との『王将戦』(注・第7局)が面白おかしく撮られている。旅館の玄関に平グモのように頭を下げてうち並ぶ女中たちの前を升田八段がひどく満足気にゆうゆうと罷(まか)り通る有様は主催社側の演出の御苦労を買う」

 また、当時「鎌倉カーニバル」などの明るい行事を主催して人気の高かった「漫画集団」という漫画家たちのグループが、さっそく陣屋事件をネタにし、都内の劇場を借り切って素人芝居を上演した。外題は「王将戦陣屋の段」である。舞台中央の陣屋の玄関に、タライほどもある特大のベルがついている。升田八段役の漫画家が、力いっぱい何度も押すが、鳴らない。そのオーバーな演技に観客は爆笑する。

 本物の升田王将も招待を受けてこの芝居を見た。感想を求められてこう言った。

「僕はなにも、旅館のベルとケンカしたわけではないよ」

 陣屋旅館では事件のあと、玄関のベルを押す必要がないように、客の姿が石段に見えると係が陣太鼓をドーン、ドーンと打ち鳴らすことにした。

 事件のとき升田八段に対して最も厳しかったのは、毒舌と、また“恐妻家”としても名高い評論家の阿部真之助だ。この人は名人戦創設当時の毎日(東京日日)の学芸部長で、のち同社主幹、NHK会長も務めた。サンデー毎日にのった、かなりの長文であるが、阿部は「勝負と日常の修練」と題して、棋士のありかたを論じている。

「昔は将棋さしといえば、徳川幕府から特別の保護を受けているものを除けば、半バクチ打ちのような生活をしていて、立派な正業とはいい兼ねる節があったようである。私は棋(き)が芸術というか、スポーツというかを知らない。何(いず)れにせよ、立派な芸能とみられ、これを職業とするものが、立派な芸能者として、世間から尊敬されるようになったのは、最近のことであって、そのよって来たりしものは、棋道が正しくルールの上に乗っているという事実に基づくものといわなければならない。世間の尊敬に報ゆる棋士の態度は、あくまでルールに忠誠であり、礼儀的であり、いやしくも世間の指弾をうくる如き行為は、厳に慎まなければならないのである。世間がすこしチヤホヤするからといって、いい気になって、忠誠、礼儀を忘れ、傲(ごう)岸にして、人をバカにするような真似をなすならば、やがて世間は将棋を見はなし、将棋さしなどを相手にしなくなるであろう。この道の隆盛は、一にかかってかれらの態度にある。世間のファンから見離されて、職業としての棋士の生活が成り立つものではないのである」

 阿部は、このように升田の“ファン無視”を厳しく批判した。さらに語を継いで、将棋は芸術ではないだろう、相手があって、相手と争う勝負である、と規定し、だから棋士は、相手の立場を尊重し、社会に対する立場を忘れてはならぬと指摘している。

 そして最後に、升田はまだ反省が足りない、彼のような「不鍛錬な心的状態」の者が、名人位を争うのはどうか。「なお一年くらいはゆっくりと修養の機会を与えるべきであろう。彼の天才をもってすれば、一両年の後に名人たり得るのは易々たるものだ。一両年を待つも遅しとしないのである」と結んでいる。

 一方、升田に対する同情論も多かった。主として関西のファンで東京方(理事)の専横を批判する論調であるが、それとはまた別に、升田の魅力を絶賛する人もいた。

 囲碁評論家として有名な安永一もその一人だ。

「もし名人という言葉が、世俗的な絶対者への観念仮託とならず、純粋な芸の孤立の世界に置けるなら私は彼升田こそ名人中の名人と思う。常に勝負のある世界で、オールマイティな名人などは人間としてナンセンスだ」と書いている。


(続く)



木村名人の裁定


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 3月4日、東京で臨時棋士総会が開かれたが、升田の処分を不当とする意見が大勢を制し、理事会の決定は承認を得られず宙に浮き、役員改選も行われなかった。

 この危機を救ったのは他ならぬ木村名人だ。木村は、理事会にも棋士総会にも出席したし、これは筆者の推定だが、大阪へ出向いて升田と腹を割った話し合いをしたと思う。

 王将戦でこそ屈辱の敗戦を喫したが、何といっても将棋界の第一人者は、通算で名人在位8期(13年)の木村だった。

 すったもんだの末、棋士総会の結論は、

「木村名人に一任」と出たのである。

「陣屋事件」発生からほぼ一か月、3月15日に東京・東中野の将棋連盟本部で再び臨時棋士総会が開かれた。この日は出席者も少なく、3月4日のような殺気立った雰囲気はなかった。

「名人の権威」は絶大だった。

木村は、静かに裁定文を読み上げた。

一、対局拒否に関し、升田八段は遺憾の意を表する。

一、連盟理事会は行き過ぎの点について、遺憾の意を表する。

一、升田八段は従来通り、連盟会員として即日復帰する。

一、理事の辞表は受理しない。





この名人裁定に異議を申し立てる者はいなかったそうで、見事な大岡裁きだ。

次いで坂口八段が、広島から送られて来た升田の手紙を読み上げた。内容は「名人をはじめ連盟、新聞社などの関係者、及び全国の将棋ファンに陳謝する」というものだった。

 升田は自伝『勝負の虫』の中で「除名された」と記している。木村名人裁定文の中にも「連盟会員として即日復帰する」とあって、出場停止処分を解く、とはなっていない。

 どちらでも同じようなものかも知れないが、以上の経過を見ても、当時の日本将棋連盟は規定なんかあってないような同業集合体で、社団法人とは名ばかりの「友情と信義によって結ばれた美しい組織」(北楯)だったのである。

 升田は自伝に記す。

「泰山鳴動してネズミ一匹。わたしの寝首をかこうとした理事たちは、反対に自分たちの首を締めることになった。この件を契機として、全棋士が目覚め、棋士の総意でガラス張りの中で連盟を運営しようと立ち上がった。わたしは誤って被告席に立たされたわけであったが、この事件をきっかけに将棋連盟の体質改善が行なわれたことで十分な代償を得たと思っている」

 王将戦第7局の平手番は、3月30、31の両日、東京・赤坂の「比良野」で行われ、後手の升田が角換わり棒銀を用いて完勝した。この対局は「八段」で指している。木村裁定をうけて「王将位は、第7局の終了後にあらためて贈ること」になっていたわけだ。

 前日の夕方、升田がハイヤーで比良野に到着すると玄関には10人ほどの女中さんが並び、三つ指をついて出迎えた。「ふっ、ふっ」と升田は苦笑した。皮肉を込めた、毎日新聞設営者の演出には違いなかったろうけれど、棋士の社会的地位を高めてやった、という満足感に浸っていたのかも知れない。

 強い棋士だった。それと同時に、升田は史上最高の人気棋士になっていた。

 晴れて第1期王将になった升田は、友人を誘い、一升びんをぶらさげて陣屋を訪れた。

「いや、よく来てくれたなあ。碁を打とうよ、升田君」

 宮崎オーナーは喜んだ。記念の色紙をもとめられた升田は、こう書いた。

「強がりが雪に轉んで廻り見る」 ※轉(ころ)んで

 即興のこの句が、陣屋事件のすべてを要約している。「廻り」は「ぐるり」と読むのではないかと思う。色紙をポンと置いてすぐ帰った、とも聞く。


(続く)



出場停止一年間


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


「陣屋事件」は、言ってしまえば、日本将棋連盟の“内部紛争”であって、一般大衆に迷惑はかけていない。結果として毎日新聞は部数を増やし、王将戦という企画は将棋に無関心な人々にまで知れ渡り、ひなびた温泉宿「陣屋」は、一躍、有名旅館になった。漫画家には格好のネタを提供した。むろんマスコミ各社と評論家は盛大に事件を書き立て、論評を加えた。本当の意味での被害者は、かかわりを持つ数人とその家族だけであったろう。

 升田の処分を検討にかかった理事会のメンバーは、渡辺東一(会長)、加藤治郎、丸田祐三、大山康晴、北楯修哉、山本武雄、上田三三の7人である。19日から緊急会議を連日開き、22日に処分を公表した。

「向こう一年間、全対局に升田八段の出場を停止する」

「責任をとって全理事は辞職する」

 棋士が最も得意とする“刺し違え”だった。

 全対局―その中には王将戦の残り対局もふくまれるので、升田八段は規定の7番将棋を完了できず、従って「王将」のタイトルは贈られない。分かりやすく言えばタイトル剥奪であった。もちろん朝日のA級順位戦残り対局も不戦敗となる。

 渡辺会長が同時に発表した声明書は、

「かかる驕慢横暴なる個人言動を黙認すれば、会員の統制、団体の維持はもちろん、対外的信義の保持も不可能なることは言をまたない」

という厳しい文面であった。

この時辞任した北楯理事(木村門下)は『将棋世界』に手記を寄せ、厳しい処分に踏み切った理由を説明しているが、棋界切っての知性派北楯は、綿の中に錐(きり)を包んだような文章で升田の考え方は正しくないと批判した。

「升田さんの将棋技術は棋界の宝」であるが、いかにすぐれた技術でも「相手がなければ発揮できないのが」他の個人芸道との違いである。升田八段は、木村名人の存在を忘れて自分の主張だけを通そうとしたのである、と断じた。

「われわれ棋士は、その生活環境上、どうしても理性より感情に走りやすい。すぐ『好き』とか『嫌い』とか言い、『勝負だ』と黒白決定を急ぎたがる。つまり、純情型が多いとも言えよう。毎日顔を合わせている他の団体と違って話し合う機会も少なく、そこにいろいろな思い違いも出るのかもしれない」

 だが「一年間出場停止」の処分は、升田はけしからんの感情を抑え切れなかった理事たちの“指し過ぎ”だった。処分発表と同時に、升田と親しい塚田、坂口らが会合して「棋士総会を開かぬ理事会の決定は甚だしい越権だ」「升田を救え」の声が高まった。大の升田びいきであった作家の藤沢桓夫ほか、多数の文人が支援の文章を公表した。

 たちまち問題の焦点が変わってしまった。北楯もぼやいているように、“被告席”に立たされたのは升田ではなく、升田の処分を決め、辞職を声明した渡辺執行部だった。

 親升田の棋士たちはこの時、分裂も辞さない構えであった。反理事勢力は飲み屋に集会して談論風発し、丸田八段を呼びつけて、理事会は升田に謝罪しろ、と迫ったりした。丸田は一歩も引かず「ばかなことを言うなよ。謝るのはどちらなのか頭を冷やしてよく考えてみたらどうです」と激しくはねつけた。


(続く)



対局拒否


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 最後まで責任者として升田の説得に当たったのは、連盟理事の丸田八段と毎日新聞学芸部の村松喬記者だった。筆者はこの両氏から“升田事件”の話を直接聞いたことはないが、村松の著書『将棋戦国史』の記述を元にその場の状況を再現してみる。

 丸田と村松が光鶴園の升田の部屋へ行くと、升田は一人で酒を飲んでいた。

「どうか思い返して明日の将棋を指してもらいたい」

 丸田は我慢強い男だ。短い言葉で、頼み込む姿勢でこう言った。が、升田は絶対に指せないと言うだけだった。

 勝負の世界だから、強者の横暴な言動は仕方のないことだ。しかし、世間が注目している大新聞社主催の対局において、対局場に来ている棋士が「不愉快だから指さない」と言った前例はなかった。丸田と村松は一たん陣屋へ引き返した。一晩寝て、明日の朝になれば、いかな升田王将でも気が変わるだろう。初めから指す気がないのならここまで足を運ぶ必要がない。

 木村名人は、何か事が起きていることに当然気付いていたはずだが発言しなかった。観戦記担当の倉島竹二郎と雑談するなど、いつものように時を過ごしてから就寝した。

 翌朝、8時少し前に丸田と村松は升田の所へ行き、昨夜と同じことを繰り返した。「私は懇願した」と、当時若手記者だった村松は表現している。

 升田から条件が出た。

「対局場を変えてくれれば指す。それがだめなら、一日延ばしてもらいたい」

 平成の今とは事情が違うけれど、これは無理難題であった。すでに起床して、対局の準備を整えている名人の木村義雄に対し、相談を持ちかけられる条件ではない。

 丸田と村松は、それぞれの立場から「その申し入れは呑めない」と断った。その上で、さらに頭を下げる村松に、升田は言った。

「無理に指せというのなら、指さんことはないが、3手で投げてしまう」

 この発言は“升田のポカ”だった。

 9時まで説得を続けた二人は陣屋に戻り、盤に向かっていた木村名人に、初めて事の次第を話した。名人は沈痛な表情で黙って聞いていたが、升田が「3手で投げる」と言ったと聞くや「何ということを言うのだ」と初めて怒りをあらわにした。

 一言多かった、とはこれだろう。

 光鶴園を引き揚げる間際に(村松著には記されていないが)丸田八段は、

「それでは、連盟としての処置をとる」

と升田に言った。升田は答えた。

「おお。どんな処置でも受けよう」

 毎日新聞が、対局放棄でなく「拒否」というきつい表現を使ったことも、事件を大きくした一因かもしれない。

 一人で鶴巻温泉を後にした升田は、東京・牛込の中島富治(元連盟最高顧問)の家へ行った。ある人が「升田はノイローゼ状態だった」と中傷しているが、升田も、何を言ったかよく覚えていないそうだ。

 19日の深夜、中島の忠告に従ったと思われるのだが、升田は中島邸に村松を招き、第6局が不戦敗になっても致し方ないが、第7局は指すという、和解を持ちかける会話をしている。だが、朝刊はもう印刷されていた。


(続く)



陣屋旅館のベル


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 当時の升田は、対局が多かったのと、連盟の理事に選ばれたこと(前年辞任)、家庭内の苦労等で広島の自宅には落ち着くひまもなく、大阪市内に仮住まいをしていた。

 前日上京した升田は毎日新聞の担当記者、村松喬に電話をかけ、対局場への道順を訊いた。新宿から小田急で1本、駅から歩いて5、6分の所です、と村松は答えた。

 一人で行けと言うことか、と升田は思った。

「同行しましょう」と言わなかった新聞社側の応対に不満は残ったが、升田は「わかった」と一言、電車で一人で行くことにした。

 会社社長で陣屋のオーナーでもある宮崎富次郎は将棋も碁も好きで、升田は東京で何度か会っていたし、3年前には鶴巻温泉を訪れてもいる。

 夕暮れには間があった。陣屋はすぐにわかった。内玄関まで入ってベルを押した。

 だが、陣屋旅館にとって不幸なことに、ベルはもともと故障していて鳴らなかった。

 何度押しても人が来ない。座敷からは宴会のどんちゃん騒ぎが聞こえる。女中が忙しそうに膳を運んでいるのが見えた。普通、大きな対局の時は前夜から借り切るものだろう。升田は、旅館を間違えたのかと思い、看板を見直しに行ったり、またベルを押したりした。

 そのうち、見おぼえのある番頭が「内玄関にお客さんだよ」と大声を出したが、それでも女中は姿を見せない。だんだん、気持ちがじりじりして来た。こんな騒々しい場所で大事な将棋は指せない、という気もした。(当時の女将は、違うと言うが……)

 升田は「30分ばかり玄関に突っ立っていたように思う」とも自伝に記している。

 陣屋のオーナー宮崎は、「オーイ、升田が来たぞと怒鳴って、ズカズカ上がり込んで下さればよかったのに」と言っている。木村名人や立会人の土居八段ら関係者は、すでに到着して、一室で“主賓”の到着を待っていた。

 ところが、すっかり腹を立ててしまった升田は陣屋を立ち去り、近くの光鶴園という旅館に上がった。すぐに酒を注文した。飲んでいるうちにいくらか心も静まった。

「今夜はここに泊り、明朝対局に行こう」と思った。そこで陣屋に電話をかけた。設営担当の飯田事業部員が出て、

「どうして、こちらへ来ないの」

と問う。升田は、その理由を話しているうちに、急にまた怒りがこみ上げて来て、

「あんな旅館で対局できるか!」

と大声で言ってしまった。

 その後のやりとりは省略するが、腹を立てたらもう誰の言うことも聞かぬ、ヤンチャ小僧のような升田である。飯田部員が連れて来た、大先輩の土居八段の説得も何の効もない。陣屋の宮崎まで光鶴園に来て「あんた、うちで泊って将棋を指せば立派な男になりますよ」と、親身になってなだめようとしたのを升田は記憶していたが、もはや自分自身をコントロールできぬ状態になっていた。


(続く)