対局拒否
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
最後まで責任者として升田の説得に当たったのは、連盟理事の丸田八段と毎日新聞学芸部の村松喬記者だった。筆者はこの両氏から“升田事件”の話を直接聞いたことはないが、村松の著書『将棋戦国史』の記述を元にその場の状況を再現してみる。
丸田と村松が光鶴園の升田の部屋へ行くと、升田は一人で酒を飲んでいた。
「どうか思い返して明日の将棋を指してもらいたい」
丸田は我慢強い男だ。短い言葉で、頼み込む姿勢でこう言った。が、升田は絶対に指せないと言うだけだった。
勝負の世界だから、強者の横暴な言動は仕方のないことだ。しかし、世間が注目している大新聞社主催の対局において、対局場に来ている棋士が「不愉快だから指さない」と言った前例はなかった。丸田と村松は一たん陣屋へ引き返した。一晩寝て、明日の朝になれば、いかな升田王将でも気が変わるだろう。初めから指す気がないのならここまで足を運ぶ必要がない。
木村名人は、何か事が起きていることに当然気付いていたはずだが発言しなかった。観戦記担当の倉島竹二郎と雑談するなど、いつものように時を過ごしてから就寝した。
翌朝、8時少し前に丸田と村松は升田の所へ行き、昨夜と同じことを繰り返した。「私は懇願した」と、当時若手記者だった村松は表現している。
升田から条件が出た。
「対局場を変えてくれれば指す。それがだめなら、一日延ばしてもらいたい」
平成の今とは事情が違うけれど、これは無理難題であった。すでに起床して、対局の準備を整えている名人の木村義雄に対し、相談を持ちかけられる条件ではない。
丸田と村松は、それぞれの立場から「その申し入れは呑めない」と断った。その上で、さらに頭を下げる村松に、升田は言った。
「無理に指せというのなら、指さんことはないが、3手で投げてしまう」
この発言は“升田のポカ”だった。
9時まで説得を続けた二人は陣屋に戻り、盤に向かっていた木村名人に、初めて事の次第を話した。名人は沈痛な表情で黙って聞いていたが、升田が「3手で投げる」と言ったと聞くや「何ということを言うのだ」と初めて怒りをあらわにした。
一言多かった、とはこれだろう。
光鶴園を引き揚げる間際に(村松著には記されていないが)丸田八段は、
「それでは、連盟としての処置をとる」
と升田に言った。升田は答えた。
「おお。どんな処置でも受けよう」
毎日新聞が、対局放棄でなく「拒否」というきつい表現を使ったことも、事件を大きくした一因かもしれない。
一人で鶴巻温泉を後にした升田は、東京・牛込の中島富治(元連盟最高顧問)の家へ行った。ある人が「升田はノイローゼ状態だった」と中傷しているが、升田も、何を言ったかよく覚えていないそうだ。
19日の深夜、中島の忠告に従ったと思われるのだが、升田は中島邸に村松を招き、第6局が不戦敗になっても致し方ないが、第7局は指すという、和解を持ちかける会話をしている。だが、朝刊はもう印刷されていた。
(続く)