「升田幸三物語」 第55話 ② | クオの別世界

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陣屋事件余聞


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 升田八段は、時の名人木村義雄を半香に指し込み、「名人に香を引いて勝つ」少年のころからの夢を、なかば現実のものとした。香落ち番は指せなかったけれども、第7局まで行われ、結局は升田が勝ち、一度剥奪されていた「第1期王将」のタイトルがあらためて贈られた。

 そのころもまだ家庭向きテレビ放送がなく、映画館で本編の前に上映される「ニュース映画」に非常な人気があった。読売新聞の「今週のニュース映画評」という欄に、次のような皮肉たっぷりの文章が見られる。

「面白い王将戦 【毎日】 旅館の待遇を理由にした升田八段の対局拒否問題が解決した直後の木村名人との『王将戦』(注・第7局)が面白おかしく撮られている。旅館の玄関に平グモのように頭を下げてうち並ぶ女中たちの前を升田八段がひどく満足気にゆうゆうと罷(まか)り通る有様は主催社側の演出の御苦労を買う」

 また、当時「鎌倉カーニバル」などの明るい行事を主催して人気の高かった「漫画集団」という漫画家たちのグループが、さっそく陣屋事件をネタにし、都内の劇場を借り切って素人芝居を上演した。外題は「王将戦陣屋の段」である。舞台中央の陣屋の玄関に、タライほどもある特大のベルがついている。升田八段役の漫画家が、力いっぱい何度も押すが、鳴らない。そのオーバーな演技に観客は爆笑する。

 本物の升田王将も招待を受けてこの芝居を見た。感想を求められてこう言った。

「僕はなにも、旅館のベルとケンカしたわけではないよ」

 陣屋旅館では事件のあと、玄関のベルを押す必要がないように、客の姿が石段に見えると係が陣太鼓をドーン、ドーンと打ち鳴らすことにした。

 事件のとき升田八段に対して最も厳しかったのは、毒舌と、また“恐妻家”としても名高い評論家の阿部真之助だ。この人は名人戦創設当時の毎日(東京日日)の学芸部長で、のち同社主幹、NHK会長も務めた。サンデー毎日にのった、かなりの長文であるが、阿部は「勝負と日常の修練」と題して、棋士のありかたを論じている。

「昔は将棋さしといえば、徳川幕府から特別の保護を受けているものを除けば、半バクチ打ちのような生活をしていて、立派な正業とはいい兼ねる節があったようである。私は棋(き)が芸術というか、スポーツというかを知らない。何(いず)れにせよ、立派な芸能とみられ、これを職業とするものが、立派な芸能者として、世間から尊敬されるようになったのは、最近のことであって、そのよって来たりしものは、棋道が正しくルールの上に乗っているという事実に基づくものといわなければならない。世間の尊敬に報ゆる棋士の態度は、あくまでルールに忠誠であり、礼儀的であり、いやしくも世間の指弾をうくる如き行為は、厳に慎まなければならないのである。世間がすこしチヤホヤするからといって、いい気になって、忠誠、礼儀を忘れ、傲(ごう)岸にして、人をバカにするような真似をなすならば、やがて世間は将棋を見はなし、将棋さしなどを相手にしなくなるであろう。この道の隆盛は、一にかかってかれらの態度にある。世間のファンから見離されて、職業としての棋士の生活が成り立つものではないのである」

 阿部は、このように升田の“ファン無視”を厳しく批判した。さらに語を継いで、将棋は芸術ではないだろう、相手があって、相手と争う勝負である、と規定し、だから棋士は、相手の立場を尊重し、社会に対する立場を忘れてはならぬと指摘している。

 そして最後に、升田はまだ反省が足りない、彼のような「不鍛錬な心的状態」の者が、名人位を争うのはどうか。「なお一年くらいはゆっくりと修養の機会を与えるべきであろう。彼の天才をもってすれば、一両年の後に名人たり得るのは易々たるものだ。一両年を待つも遅しとしないのである」と結んでいる。

 一方、升田に対する同情論も多かった。主として関西のファンで東京方(理事)の専横を批判する論調であるが、それとはまた別に、升田の魅力を絶賛する人もいた。

 囲碁評論家として有名な安永一もその一人だ。

「もし名人という言葉が、世俗的な絶対者への観念仮託とならず、純粋な芸の孤立の世界に置けるなら私は彼升田こそ名人中の名人と思う。常に勝負のある世界で、オールマイティな名人などは人間としてナンセンスだ」と書いている。


(続く)