「升田幸三物語」 第54話 ② | クオの別世界

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木村名人の裁定


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 3月4日、東京で臨時棋士総会が開かれたが、升田の処分を不当とする意見が大勢を制し、理事会の決定は承認を得られず宙に浮き、役員改選も行われなかった。

 この危機を救ったのは他ならぬ木村名人だ。木村は、理事会にも棋士総会にも出席したし、これは筆者の推定だが、大阪へ出向いて升田と腹を割った話し合いをしたと思う。

 王将戦でこそ屈辱の敗戦を喫したが、何といっても将棋界の第一人者は、通算で名人在位8期(13年)の木村だった。

 すったもんだの末、棋士総会の結論は、

「木村名人に一任」と出たのである。

「陣屋事件」発生からほぼ一か月、3月15日に東京・東中野の将棋連盟本部で再び臨時棋士総会が開かれた。この日は出席者も少なく、3月4日のような殺気立った雰囲気はなかった。

「名人の権威」は絶大だった。

木村は、静かに裁定文を読み上げた。

一、対局拒否に関し、升田八段は遺憾の意を表する。

一、連盟理事会は行き過ぎの点について、遺憾の意を表する。

一、升田八段は従来通り、連盟会員として即日復帰する。

一、理事の辞表は受理しない。





この名人裁定に異議を申し立てる者はいなかったそうで、見事な大岡裁きだ。

次いで坂口八段が、広島から送られて来た升田の手紙を読み上げた。内容は「名人をはじめ連盟、新聞社などの関係者、及び全国の将棋ファンに陳謝する」というものだった。

 升田は自伝『勝負の虫』の中で「除名された」と記している。木村名人裁定文の中にも「連盟会員として即日復帰する」とあって、出場停止処分を解く、とはなっていない。

 どちらでも同じようなものかも知れないが、以上の経過を見ても、当時の日本将棋連盟は規定なんかあってないような同業集合体で、社団法人とは名ばかりの「友情と信義によって結ばれた美しい組織」(北楯)だったのである。

 升田は自伝に記す。

「泰山鳴動してネズミ一匹。わたしの寝首をかこうとした理事たちは、反対に自分たちの首を締めることになった。この件を契機として、全棋士が目覚め、棋士の総意でガラス張りの中で連盟を運営しようと立ち上がった。わたしは誤って被告席に立たされたわけであったが、この事件をきっかけに将棋連盟の体質改善が行なわれたことで十分な代償を得たと思っている」

 王将戦第7局の平手番は、3月30、31の両日、東京・赤坂の「比良野」で行われ、後手の升田が角換わり棒銀を用いて完勝した。この対局は「八段」で指している。木村裁定をうけて「王将位は、第7局の終了後にあらためて贈ること」になっていたわけだ。

 前日の夕方、升田がハイヤーで比良野に到着すると玄関には10人ほどの女中さんが並び、三つ指をついて出迎えた。「ふっ、ふっ」と升田は苦笑した。皮肉を込めた、毎日新聞設営者の演出には違いなかったろうけれど、棋士の社会的地位を高めてやった、という満足感に浸っていたのかも知れない。

 強い棋士だった。それと同時に、升田は史上最高の人気棋士になっていた。

 晴れて第1期王将になった升田は、友人を誘い、一升びんをぶらさげて陣屋を訪れた。

「いや、よく来てくれたなあ。碁を打とうよ、升田君」

 宮崎オーナーは喜んだ。記念の色紙をもとめられた升田は、こう書いた。

「強がりが雪に轉んで廻り見る」 ※轉(ころ)んで

 即興のこの句が、陣屋事件のすべてを要約している。「廻り」は「ぐるり」と読むのではないかと思う。色紙をポンと置いてすぐ帰った、とも聞く。


(続く)