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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。


棋譜のない香落ち戦


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和27年2月13日付の毎日新聞東京版の朝刊は4段抜きの見出しで「升田、王将位を獲得・名人を半香落に指し込む」と報じた。記事の中に「棋史始まって以来の偉業」の字句もある。両対局者の談話は次の通りだった。

 升田八段談  こんどは闘志を十分に持って臨んだ。やっぱり勝負は絶対に勝たなければならないという気持だった。

 木村名人談  王将戦が計画されて「指し込み戦」という重大手合いが出来たわけだが、いつかは指し込まれると考えていた。結果がこうなってこそ棋界の進歩というものがある。

 同紙のコラム「三角点」には、3行で次のように記されている。「木村名人“私が計画した指込み将棋”に“私が指込まれ”てしまった。きびしい勝負の世界。」

 4勝1敗で升田八段が第1期王将のタイトルを得たのが2月12日。その1週間後(中5日しかない)の18日午前9時から、神奈川県鶴巻温泉の陣屋旅館で行われる第6局は、半香の香落ち番であった。

 同日付の毎日新聞朝刊は、

「升田、香を落とす・名人の面目賭けた一戦」

と予告を載せたのだが、棋史に残るべきこの香落ち戦は、対局されなかった。

 同日付の同紙夕刊は、

「升田、対局を拒否」

と報じた。事件が起きたのである。今では対局場の名を冠した「陣屋事件」にほぼ統一されているが、当時の毎日は“升田事件”と記し、サンデー毎日は“升田騒動”、週刊朝日等は“王将戦騒動”と記している。

 この事件は「藪の中」にたとえるほど奇怪ではないが「升田のポカ」で片付けられるほど簡単なものでもない。筆者が集めた多数の資料の中には「陣屋事件の真相」というタイトルが多く用いられているが、やはり、これが真実だ、という話はあり得ない。


(続く)



 延期されたその第3局は、1月15、16の両日、三重県の「志摩観光ホテル」で行われた。

対局開始前、駒を並べながら木村名人が、窓外の英虞(あご)湾を眺めて

「いい景色だな」

と語りかけると升田はニベもなく答えた。

「景色を見に来たわけじゃない」

 第1、2局を背広で指した升田だが、この日は羽織ハカマ。名人戦の時から引き続き禁煙し、アメをかじりながらの対局である。升田の右脇には水差しが用意されていた。木村が、灰皿をいぶらせる“煙攻め”で来たら、直ちにぶっかけて消火するためである。


先番升田が角換わり腰掛け銀を望めば、木村は第2局の逆で、△6三銀型のまま間合いを計り、長考の繰り返し。第2日の夕刻、千日手模様を打開して木村が仕掛けたところで、持ち時間10時間のうち木村は約8時間、升田も7時間以上を消費していた。

 終盤、木村は1分将棋。形勢も不利。記録係が汗ばむ手で時計を握りしめて叫ぶ。

「50秒。55秒……」

「間違えたかなあ……時間がない。弱った」

「名人、指して下さい! 行(い)って下さい」

 明らかに時間が切れていたと、升田も、立会人の上田三三(さんぞう)六段も後で言っている。(50秒から1、2、3と読むように改められたのはずっと後の昭和29年)

 当時の棋士気質は、相手の時間切れや反則をとがめることを、潔しとしなかった。

 一方の木村も、不戦勝でカド番を逃れたと後世言われるのは業腹だから「延期でいいよ」と応じたのである。勝負は、あくまで盤上の技で決したかったのだ。

 188手で木村の逆転勝ち。升田の3連勝(王将位獲得、指し込み)は成らず。

 第3局直後の20日に、木村と升田はNHK杯戦の決勝を戦った。升田は完敗した。

「僕がポカをやったとたん、木村さんは例の得意のポーズで、タバコの煙をぷーっと吹き上げたんだな。しゃくにさわったわい」

 その上、東京からの風聞では、

「オレが指し込まれるこたあ、もうねえよ。安心しな」

と側近に豪語したという。

 時間切れを見のがしてやったのに、そういう態度なのか、名人は。升田のファイトは、めらめらと燃えた。

 第4局は1月28、29の両日、熱海の「東西(ひろめ)荘」で行われた。升田は、愛蔵の日本刀を持って対局場に乗り込んだ(ヤクザの話とは違う。升田は剣道の有段者で、ちゃんと認可を取った真剣を持っていたのだ)。

 初日の朝、衣服を整えた升田は、自室で日本刀を抜き放ち、白く光る刀身を凝視していた。ふつふつと、闘志が湧き上がる。

「升田先生、時間になりましたので……」

 知らせに来た記録係の藤代三郎少年は、ふすまを開けたとたんに腰を抜かした。白刃が、自分の方に向けられていたのだから怖かったろう。

 少年は、廊下をはうようにして対局場へ逃げ戻ったが、手のふるえが止まらず、観戦記者が記録をとった。立会人が急ぎ東京から交替要員の北村昌男を呼び寄せた。

 先番木村は筋違い角戦法を採用。升田の新手△5六歩から豪快な攻めが決まり、圧勝。

 第5局は2月11、12の両日、大阪府高石町の「羽衣荘」で行われた。

 再び、木村のカド番。しかし不世出の名人とうたわれた木村は余裕を示す。対局前には庭に出て、羽衣荘自慢の海水魚を眺めたり、升田と共に写真撮影に応じた。盤に向かってからも、立会人の上田六段や、解説担当の大山九段、北村秀治郎七段らに向かってにこやかに話しかけた。升田も礼儀正しく振る舞った。

 升田先番で角換わり腰掛け銀模様だったが、木村は30手目、△5四銀と出る一手に112分の長考。升田は、▲4七銀型のまま▲2九飛から▲4九飛と回る作戦を本局でも採った。

 樋口金信の観戦記の結び。

「敵の2六桂打ちに、両手を震わせた木村名人、直ぐ駒を投じて『ああ、これまで』

凛(りん)然たる一言、“名人、半香に指し込まる”歴史的な瞬間だというのに、升田は無表情のまま、おしぼりを取り静かに顔をぬぐった。」

 升田、4勝1敗で王将位を獲得。同時に、宿敵木村名人を半香に指し込んだ。

 升田が“名人に香を引く”第6局は、2月18、19の両日、神奈川県鶴巻温泉の「陣屋」で行われることになっていた。


(続く)



一気にカド番へ


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 升田はまだ大阪市内の後援者(旅館)の所に仮住まい。上京すれば朝日新聞の永井大三を訪ね、局長室にふとんを敷いて宿泊するという気ままな生活。若くして業務局長(重役)に抜擢されていた永井は“棋魔”と呼ばれるほどの将棋好きであり、升田と同じ広島出身であったことなどから親交を結び、時には語り明かすほどであった。アマ五段の永井は序盤の研究家だったので、次々と新手を編み出す升田に惚れ込み、「マッさん(升田)の頭の中には、汲めども尽きぬ“棋脈”があるんじゃないか」と言っていた。

 さきの名人戦主催権獲得も“新聞販売の神様”といわれた永井が決断を下したと言われるが、今度は、当時の二流夕刊紙が「朝日筋は升田に対し『派手に名人を指し込んだりして毎日の人気を高めないように』との秘密指令を出したらしい」と書いた。下司(げす)の勘繰りに違いないけれど、升田自身の気持ちの中に当然、そうしたジレンマは生じていた。

 心優しい母は「お前が幸せになれば相手の人は不幸になる」と言った。

 一方の木村名人は、全く別の意味で重大な決意をしなければならなかった。戦前の駒落ち時代には、ほとんどの八段を半香(4番手直り)に指し込み、“無敵名人”の名をほしいままにした栄光の棋歴がある。今回は3番手直り。相手は若き天才升田。万一の時には……。

「しかし名人戦では彼を叩いてある。王将戦は本場所じゃないと考えればいいか」

 心と心の戦いである将棋では、邪念や恐れを抱いた方の負けだ。両棋士共に「勝つだけ」と心を洗って対局に臨まねばならぬ。

 第1局は26年12月11、12の両日、東京・赤坂の「比良野」で行われた。

 升田先番。急戦矢倉の激しい攻め合い。仕掛けた後、升田は観戦記者の倉島竹二郎に、

「今日中にすむかも分からんな」

と言った。即座に木村が、

「そんなこたあ、ねえよ」

と切り返した。2日目の終盤、勝勢にしていた木村だが、重大な手順前後のミスで逆転、52分考えて次の手を指さずに投了という劇的な幕切れだった。95手で升田1勝。

 第2局は21、22の両日、静岡県修善寺温泉の「菊屋旅館」。

「第1局は辛勝だったが、指し終えてみて木村さんに、半年前の名人戦で見せた冴えが失われていると感じた。これは、私の予想していた通りになるぞと思った」

 先番木村は角換わり腰掛け銀に誘導。升田は銀を6三に置いたまま△8一飛から△6一飛と回り、△8四角と打つ“高柳流”を採用。木村も自陣に▲4六角と打つが、升田の先制攻撃が鮮やかに決まり、98手の快勝。

 さあ大変だ。升田の“危惧”は現実となってしまった。王将戦特別規定により、3連勝すれば半香に指し込むと同時に、第1期王将のタイトルは升田のものとなる。

「升田、やれ! 一気に決めろ」

 周辺から、ファンから、激励の言葉の嵐が吹き寄せてきた。

 木村名人カド番。なお、カド番とは古来「手合いの直る一番」のこと。

 第3局がカド番というのは厳しい。5番勝負ならば3―0でお開きだが、“7番将棋”は全く意味合いが異なる、平平平と3連敗すると、次に香平香と指し、6連敗すれば最終局は「定香」の二段差の手合いで、八段にもう一番香を落とされて指す。名人(九段)が六段の格になってしまうわけである。

 中原誠王将(名人・王座)が昭和61年春の第35期王将戦で中村修六段にいきなり3連敗した時、こう言っていた。

「昔なら、名人が六段に香を引かれるところでした」

 木村―升田の第3局は翌27年正月の7、8両日、大阪の「羽衣荘」で行われることになっていた。木村名人は、前々日に対局場に入るため汽車で(むろん新幹線などまだない)東京を出発した。その直後、大阪の将棋連盟から東京の本部あてに「升田が急病のため対局を延期願う」との申し入れがあった。

「私はどうしても気が乗らなかった。2局目の終わりごろから風邪をひいたので、対局を延期してもらった。私は、この時病気とはいえ名人が関西まで来ているのに予定通り対局できないのはいけないから不戦敗とされたいと申し入れたが、全国のファンのためにとこれは蹴られ、そのうち身体の調子もよくなり第3局となった。私は全力を尽くした。そして負けた。くやしい気持ちの半面、ホッと自分が救われたような気持ちになった。これは事実である」  (週刊朝日・升田手記)



再び木村に挑戦


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 翌26年7月、毎日の王将戦は「朝日の名人戦」「読売の九段戦」と並ぶ3大タイトル戦としてあらためてスタートした。第1期王将戦である。

 この年の3月から5月にかけて、前に記したように升田は第10期名人戦で木村名人に挑み、2勝4敗で涙をのんだ。朝日新聞社講堂で行われた「名人就位式」の席上、升田は大要次のような挨拶をした。

「自分の敗因は、人生の修練の差、年輪の差だと悟った。指していて、焦りを感じた。盤に向かえば必ず勝つと思っていたが、そのおごり心を木村さんに衝かれたのだ。『口あけてハラワタ見せたアサリかな』である。悲しくもあり残念でもあったが、今は心身ともに爽快、人生修業の第一歩を踏み出した心持がする」

 愛棋家で大の木村びいきだった村松梢風が、木村名人を称える一文を朝日新聞に寄せているが、その中で升田の心境の変化をほめている。先輩の木村に対する謙虚な言動に、人間的な成長を認めたというのだ。

 こんなエピソードもある。

 対局姿を描いていた満画家の清水崑(こん)が、升田に「あんたは行儀が悪いぞ」と言った。升田は即座にこう答えた。

「そりゃ、性分もあるが、ひとつには将棋盤という物が低い。木村名人や大山の背丈にはあれで合うが、僕とか塚田前名人には低すぎて、どうしても対局姿勢が悪くなるわけだ」

「うそつけ。塚田前名人は行儀がいいぜ」

 当時の升田は、朝日新聞社の幹部に愛され、彼らの引き立てで吉川英治、志賀直哉、梅原龍三郎、藤沢桓夫、尾崎士郎ほか多数の文人墨客の知遇を得ていた。中でも、吉川英治を「人生の師」と仰ぎ、貴重な教えを受けている。

 さて第1期王将戦だが、システムは第1回とほぼ同様だ。出場棋士は丸田八段、升田八段、大山九段、塚田前名人、坂口八段(高柳八段の病気による繰り上げ出場)の5人。各2局総当たり。升田は丸田と指し分け、大山、塚田、坂口には連勝の7勝1敗でリーグ優勝し、木村名人との王将位決定7番将棋(7番まで指すので正確には7番勝負と呼ばない)を指すことになった。

 指し込み制に反対した自分に、とうとう木村名人を指し込むチャンスが来てしまった。

「いやだと言うても、わざと負けるわけにいかんだろう。はたが弱すぎて勝手に負けてしまいよるんだ、皮肉なもんだね」

 この時のリーグで、大山は塚田に前回から数えて3連敗し、“記録上”半香に指し込まれているが、指し込みを八段同士の予選リーグにまで適用するのは土台無理なシステムで、うやむやのうちに廃止されてしまった。黒白をはっきりつけなければ気が済まぬ升田が、王将戦を嫌ったのは至極当然のことだろう。

 この年の7月にはNHKが、ラジオ将棋「NHK杯争奪戦」を創設した。上位8名のトーナメントで、升田八段は坂口八段、塚田前名人に勝ち、木村名人は高柳八段(不戦)、丸田八段に勝ち、決勝戦で相まみえるが、この勝負が王将戦に甚大な影響を及ぼすことになる。

 ほかに産経新聞棋戦の開始。学生将棋連盟の結成。近代将棋社主催の「将棋祭」が開かれ小学生の部で大内延介(10歳)優勝など、「将棋年表」の記事事項が大幅に増えた年である。

 木村義雄―升田幸三の、名人戦に次ぐ2度目のタイトル争いは、全国の将棋愛好家の耳目を集めた。


(続く)



もつれた糸


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和25年10月3日付、毎日新聞社告。

「本社は昨年将棋名人戦の一応の使命を果して中止以来、真に将棋の醍醐味を発揮すると共に時代に即した新企画によって愛読者諸氏の要望に応えるべく研究中でしたが、今回『王将決定戦』を新たにとりあげ、近く紙上に掲載する運びとなりました」

 見出しに「指込み将棋復活」とある。以下要点を記せば、①大山九段、升田八段、丸田八段、塚田前名人、高島(一岐代)八段の5人が総当たり2局のリーグ戦で優勝者を決める。②優勝者が木村名人と決勝7番勝負を行う。③リーグ戦、決戦ともに3番手直りとする。

 社告には「挑戦者が名人に対して3番勝越せば香車を落して対局することも実現」と明記されている。

 これは「名人に香車を引く」ことを目標として棋界に入った升田幸三に“天が与えた”新企画と言えるのではないか。戦後のプロ棋界公式戦は四段以上総平手制が完全に実施されており、升田少年の夢は、すでに消えうせていたはずであったのだから。

 升田ファンは「事実は小説よりも奇なり」と喜び、声援を送った。確かに面白い企画だ。

 ところが、真っ向から新企画「王将決定戦」に反対したのは升田だったのである。このナゾを解くことは、難しいと言えば難しいが、実に簡単明瞭な理由があるので、表現はともあれ升田の主張は正論だったと思う。

「名人は将棋界の最高位である。毎日の狙いは、その名人の権威を失墜させることにある。だれがこんなバカなことを考えたのか」

 しかし、派閥のボスだけが恵まれ、下位棋士は貧乏だった日本将棋連盟の役員会は、全員の生活を考えなければならなかったし、名人戦創設以前から長年世話になって来た大新聞・毎日との復縁話を断り切れるものではない。むろん升田も役員の一人として賛成論を理解せぬわけはなかった。まず自分が名人になってから、王将戦で次々と他の棋士に「香を引く」快感を思えばたぶん「100パーセントの反対」ではなかったはずである。

 が、升田の口から出る言葉は短く、「バカな」と一刀両断。

 当時の役員会は賛否両論の調整のため会議を重ねたが、木村名人が、

「時の第一人者(自分)が指し込まれるなんてこたあ起きねえよ」

と江戸っ子弁で言い切った強力なバックアップにより、多数決で王将戦は成立した。

親読売、毎日の木村が朝日棋戦の名人。毎日の大山が、読売棋戦の九段。読売の塚田と、朝日の升田と、もう一人の立役者、毎日の解説役丸田が無冠。将棋連盟を支える現役5人のスター、5本の糸は厄介なもつれ方をしていた。

 昭和25年開始の「第1回王将戦」は、丸田祐三八段が優勝したが、木村義雄名人との7番将棋は●○●●○●●の成績で、“記録上”半香に指し込まれて終了した。

 その第1局開始前に木村は、丸田に、

「いよいよ、命取りの将棋が始まるのか」

と笑顔で話しかけたそうだが、さすがに「第一人者が指し込まれるなんてこたあ」起きなかった。


(続く)



禁酒、禁煙で戦う


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 対大山戦(2月20日)の時の升田は、ひどく体調を崩していた。「大山は兄弟子の病気に同情心を起こしたため、ミスをやらかしたんじゃないか」と取り沙汰された。

 当時は食糧をはじめとして今の若い人には想像もつかぬような物不足で、娯楽も少ない。むろん、テレビ放送などまだ始まっていない。戦争中から男も女もタバコを吸い、酒を飲むのが大きな楽しみだった。大山もかなりのタバコのみだった。が、升田は、喫いたくても飲みたくても体が受けつけないほどの病体であり、禁酒、禁煙を強いられていた。

「病体」は升田得意の表現。後年の観戦記に「病気」と書いて、思いもよらぬ笑顔のお叱りをこうむったことがある。

「僕は気は確かだよ。悪いのは体だろう。だから、病体と正しく書いてもらいたい」

 そのあとで「頭以外は全部悪い状態」と書いたところ、またすぐ文句を言われた。

「良いのは頭だけじゃない。心も優しい」

 升田が挑戦権を獲得すると直ちに、NHKが木村とのラジオ対談(東西二元)を企画、放送した。

「大山君には悪いが、今度はあんたに勝ってもらいたかったんだよ。気迫が分かっていたからね、あんたが勝つと思っていたが」

「大山みたいな女房の味じゃ飽きたんで、たまにはキャンキャン芸妓の味もなめたいところですか(笑い)。ともかく、枯淡の味が出てきた名人に挑戦できるのは嬉しいですよ」

「あんたはそう言うが、枯淡の味が出てきたら(勝負師は)おしまいじゃないか」

「ゴマ塩頭に、いつまでも名人になっておられては困るというのが私の本心です」

「ゴマ塩頭でも負けたくないからな。まあ、風邪を早く治しなさい」

 7番勝負第1局は、3月19、20の両日、東京・高輪の「泉岳」で行われた。朝日新聞の力の入れ方は大変なものだったが、いかんせん本紙の報道も観戦記も、用紙がない(!)のだから今見ると非常に小さい。しかし、ニュース映画、週刊朝日ほかあらゆるメディアでファンを楽しませた。この時ほど多くの写真が公表された名人戦は、米長、羽生にもまだないだろう。

 また、東京では有楽町の本社前、大阪では中之島の本社前及び高島屋ホールで、花形棋士が開始から終了までの大盤解説をやった。警官多数と朝日の社員が出て交通整理に当たる大盛況で、熱心な人は終電車のなくなるのも忘れて路上で駒の動きに一喜一憂した。

 さらに、全局終了後『第十期名人戦記』=木村・升田激闘の全棋譜=と題する単行本が発行され、加藤治郎八段が、一人二役で解説と観戦記を執筆した。立会人、及び本紙観戦記者と合わせれば、一人四役となる。

 前年、升田が珍妙な“報道規制”をした観戦取材の問題は、現在の公開対局とほぼ同様の形式だが、時間制限なしで開放した。招待客の中には志賀直哉、村松梢風、梅原龍三郎、坂口安吾、徳川夢声、島田正吾、浜崎真二(プロ野球)など多数の有名人がいた。

 だが、升田は●○●●○●の、2勝4敗で“老雄”木村にねじ伏せられたのである。

 戦型を特に記しておきたい。第1局と第3局は、先番木村の筋違い角、相居飛車。第4局は升田先番の筋違い角から、向かい飛車に振る新戦法。このため「筋違い角名人戦」とも呼ばれて大きな話題になったし、アマチュア間でこの戦法が大流行した。

 第5局と第6局は角換わり腰掛け銀。第6局、参考図は因縁付きのもので、先後は逆だが、前年度のA級順位戦で升田が丸田に対して用いた新戦法で、今に残る「升田定跡」の一つになっている形。木村が△7四金と上がった時に、升田が、

「自分が創案した手を……チェッ」

と舌打ちして吐き捨てると、木村が、

「指したことあんの? ほう」

とトボケて横を向いた。升田は「升田定跡」でトドメを刺されたのである。むろん対策は用意していたのだが、終盤でミスが出た。

 全局を通じて升田は大好きなタバコを断ち、アメと塩水で木村の“煙攻め”に対抗した。アメは普通、なめると言うが、升田はガリガリと音を立てて噛んでいた。

 多くを語らぬ点から推察して、この10期名人戦は升田の生涯における、最も残念なシリーズだったと思われる。高野山の敗戦の比ではないだろう。升田は心中、歯噛みをして運の悪さを思っていたのではなかったか。さらに言えば、木村義雄という人物を見る目が、大きく変化した年だったように感じられる。



クオの別世界

(続く)