升田幸三物語 第46話
「禁酒、禁煙で戦う」
「ゴマ塩頭」に
ねじ伏せられた。
念願の名人位挑戦
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
「ある医学者が、最新の装置を使って升田先生の脳ミソを見たそうだ。そうしたら不思議なことに字が見えた。右半分には『朝日』、左半分には『大山』と書いてあったんだって」
奇抜で鋭いこの笑い話の作者は、升田先輩を敬愛し、没後ただちに「追善囲碁会」を提案、実行した米長邦雄であるが、昭和26年ごろの升田八段の脳ミソには、まだ大山ではなく『木村』の二文字が書いてあったはずだ。
この年の正月七日、関西の大御所、木見金治郎八段が74歳で没した。大野、升田、大山ほか一門の多数の棋士を中心に「日本将棋連盟葬」が大阪で執り行われた。
「先生の目の玉の黒いうちに、名人位を関西に持って来たかった。残念だ……」
「ほんとに――」
升田と大山は、式場であらためて“打倒木村”を誓い合った。
しかし木村名人はもう46歳で、A級最年長の坂口八段より3つ、大野源一八段より6つ上。金子八段は「木村さんは、本当はもう2つか3つ上のはずなんだが。おかしい」と言っていた。関東大震災により生じた戸籍上のミスかもしれない。
いずれにせよ升田、大山より、はるかに年長者であり、一度だけ塚田正夫に取られた名人位を2年後に奪還して、ますます声価を高めた大名人である。引退の潮時を計っていたと思う。
升田より1歳下で「第1回王将位決定戦」では升田、塚田、大山を負かしていた浅草生まれの丸田祐三八段は、
「東京にも強い若手は多い。仮に名人位が関西へ行ったとしても、すぐ取り戻します」
と語っている。昭和25年度のA級順位戦は、そのような“東西対抗”の色濃い激闘が展開された。この年にもまた規約の大幅な変更があり、その一つとして「A級第1位を名人挑戦者とする。同率者のある場合に限り、決定戦(プレーオフ)を行う」という、今と同じ規定になった。ただし、持将棋は半星。
A級の成績は次の通り。
① 升田幸三 ②大山康晴 ③丸田祐三 ④坂口允彦
⑤高柳敏夫 ⑥塚田正夫 ⑦板谷四郎 ⑧高島一岐代 ⑨大野源一 ⑩南口繁一 ⑪五十嵐豊一。
この年度の最終ラウンドが奇しくも升田対大山で、事実上の挑戦者決定戦となった。
升田は、丸田に負け、五十嵐と半星の7勝1敗1持将棋。
大山は、板谷に負けた8勝1敗。
参考図がその大一番の途中図である。
大山の△6二角(4四から引いた)に対し、升田が、8分の考慮で▲6五歩と突っかけたところだ。
観戦記者の三象子(加藤治郎八段)は、この妙手を讃えて、
「升田の強烈無比な水爆パンチが6筋に炸裂した」と記す。大山は長考して△4四歩と応じたけれど、73手目までで詰まされる完敗に終った。「升田の名局」の一つである。
“悲運の棋士”が、初めてつかんだ、念願の名人位挑戦権。相手は、木村義雄。
(続く)
大山に先を越される
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
昭和24年度のA級順位戦は25年の2月に終了し、前年度と同じ規定で4者の挑戦者決定戦。
まずB級第1位の高柳敏夫七段(八段確定)とA級第3位の丸田祐三八段(5勝3敗)は丸田勝ち。丸田と第2位の升田(6勝2敗)は升田勝ち。最後の3番勝負で第1位の大山八段(同星の6勝2敗)と相まみえた升田は、無残な連敗を喫して、またもや名人挑戦のチャンスを取り逃がした。
その木村―大山の名人戦には奇抜なエピソードがある。
朝日の社員である升田は「学芸部取材記者」に変身して対局場へ行き、メモと鉛筆を片手に盤側に座り込んだのである。さすがに立会人がびっくりして「ご遠慮」を願ったのは当然。
控室へ下がった升田は、今度は“報道規制”を始めた。国民的関心を集めた昔の名人戦には各新聞、雑誌の記者がやって来て、かなり自由に対局の様子を見ることができた。
対局室は2階。升田は1階の階段の脇に机を置いて記事を書くふりをしながら、2階へ行こうとする記者に「ちょっと待て」と言う。
「なんでしょうか」
「君は将棋が分かるのか」
「少しは分かりますが……」
「少しとはどのくらいだ。ようし、強ければ対局室へ入ってもいい。僕と二枚落ちで指してみよう。勝ったら合格だ。二枚で負けるようなら、名人の将棋なんか見ても無駄だから入室まかりならん。さあ、来い」
当時の升田はヒゲこそ生やしていなかったけれど、あの大きな鋭い目でマトモに顔を見られて「では先生、対局を」と応じられる記者はいなかった。皆、ふくれっ面をしながら観戦を諦めたそうである。
話が前後するが、七段で名人挑戦権争いに加わった高柳八段は、ある人に、
「あの怪力升田君を負かすには、まともに立ち向かってはだめさ。私の作戦は、中盤で死んだふり(諦めたふり)をしてですね、升田君が喜んでゆるんだところを、バッサリ背後から斬りつける。それしかないよ」
と話した。
他の棋士の評価も「恐ろしく中、終盤に粘りのある将棋」とほぼ一致しており、序盤のうまさをほめる人は少なかった。坂口八段のいう「田舎将棋」も、当時の東京育ちの棋士との「感覚の相違」をはしなくも表現しているのではないだろうか。
第9期名人戦は、関西のホープ大山の善戦及ばず、4勝2敗で木村名人の勝ちに終わった。大山としては、塚田に敗れた第7期に次ぐ2度目の名人戦敗退だった。
しかし大山は、1か月後の(昭和25年)7月に「九段戦」決勝3番勝負で板谷四郎八段を破り、棋界初のタイトルとしての「九段位」と秩父宮杯を獲得する栄誉に輝いた。
「まだまだ大山には……」と自負する升田だったが、ここで完全に一歩、先んじられてしまった。
(続く)
升田は田舎将棋だ
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
昭和25年(1950)は、戦後の将棋界を考えるとき、最も大きな節目となった年と言えると思う。
升田幸三は満32歳で、指し盛り、働き盛りのはずだったが、一面、生涯で最も健康に不安を抱き、人生に無常感を持った時期であったように思われる。生涯の伴侶静尾夫人と共に住む前のことで、すさみ切った独身生活が、仕事にも健康にも極度の悪影響を及ぼしていた。
1日に酒2升、タバコ200本といったような“伝説的”悪習がひどくなったのもこのころだ。
昭和24年に「名人戦」の主催社が毎日新聞から朝日新聞に移っていたので、毎日はしばらく将棋を無視する形でいたが、読者の希望にこたえる必要は当然あったし、読売新聞が大棋戦を創設していたこともあり、木村義雄名人らの懸命の働きかけに応じる形で、臨時企画を紙面に載せていた。
チェスのプロに転向して、占領軍に厚遇されケタ違いの高収入を得ていた坂口允彦八段が将棋に復帰することになり、元のA級にすんなり戻すかどうかの腕試しという趣向で時の4強、木村名人、塚田前名人、升田八段、大山八段と戦った棋譜が毎日に載り、将棋を覚えたばかりの筆者にはベラボーに面白かった。
升田と坂口のエピソードを記せば、もともと大言壮語を好む強気の男坂口は、升田と初めて対戦する前に「あいつは力ばかりの田舎将棋だ。軽くひねってやる」と言ったそうだ。激突の腕試し対局では、相懸かりから双方居玉のまま升田が強引に仕掛けた。「チェス仕込みの水車の桂」と面白く観戦記に書かれたように坂口が左右の桂を使って反攻したが、終局まで居玉の升田に短手数で完敗してしまった。
「思ったよりも強いな、お前さんは」
と坂口が局後に言ったそうだ。
升田より10歳年長の坂口は若々しい人で、将棋論に及べばたちまち大声で持論を展開、一歩も引かずに升田と張り合う“ケンカ友達”になった。
塚田といい坂口といい、升田は年長で気の強い男と親しくなるのだ。
気が強いと言えば木村名人がその最たるものだったろうが、木村と升田の人間関係は、正直のところ理解できない。将棋を指す時はハナからケンカ腰だが、終われば妙にしんみりした会話を交わすのだ。
大好きな碁を打つにも、升田はおとなしい人間は好まなかった。熱くなって「もう一番!」と蒸して来る相手が大好きだ。気が強ければ、どんなに碁が弱くても構わない。
(続く)
先手番木村から打開して猛攻。参考図は、木村の▲3五歩に升田が△4四歩と打ち、▲3六銀の局面である。
矢倉の序盤に詳しい方ならお気付きと思うがこの時代にすでに、先手桂損の攻めが成立することを木村名人は見抜いていた。
升田は懸命のしのぎに回り、苦戦に耐えて入玉模様を作る。そうはさせぬと木村が押し返し、互いに7時間の持ち時間を使い果たして1分将棋。落手なく、入玉もせずに210手という大将棋を、升田が勝ち切った。
終局は夜の白々と明ける4時26分。「日ごろ沈着悠然たる木村名人の駒を持つ手がブルブルふるえ出すし、剛腹をもって鳴る升田八段も最後の1分になると、足がふるえていた」というすさまじい戦いだった。
升田自身も「名局といえるだろう」と回顧している。
ただしこの対局の「ゴミ・ハエ問答」については誤伝がある。激しい口論が、対局終了後の打ち上げの席で行われたというのは誤りで、前夜の話だ。翌日は両者仲よく連れだって金沢の兼六園を見物している。
また、「名人位」を目指す升田八段が、いきなり「名人なんてゴミだ」と言い出すわけはない。それは、ことごとに教養や知識をひけらかして他の棋士を見下す、木村個人を攻撃した言葉だったのである。
「棋士に余計な学問はいらない。将棋の勉強に専念すべし」という、純粋な升田の主張は、どんな時代になっても通用するだろう。
この「第2回全日本選手権戦」は、2度にわたる三つ巴戦の結果、萩原淳八段が優勝した。
そして読売新聞は、昭和24年8月に、この棋戦の優勝者に「タイトルとしての九段」を名乗らせることとし、名人戦に次ぐ第2のタイトル戦、通称「九段戦」が発足する。
第3のタイトル戦を、毎日新聞が創設するのは翌昭和25年である。
また、廃止していた永世名人の称号を復活し、「名人位に5期以上在った者を永世名人とする」新規定ができたのは昭和24年で、もちろんこれは木村名人のために作られた。まさか、旧規定通り元の八段に戻すわけにいかなかったからであろうが、こうした“ご都合主義”に升田は批判的だった。しかし升田の論法がいつでも非常に極端で激しかったため、仲間の理解を得られぬことが多かった。
(続く)
ゴミ・ハエ問答
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
昭和24年の「第2回全日本選手権戦」は上位12棋士の選抜戦で、升田八段は土居市太郎八段と大山八段を破り、決勝リーグ、木村名人、萩原淳八段との三つ巴戦に進んだ。
6月16日、木村の名人復位後に金沢市で行われた木村―升田戦は、盤上盤外、猛烈な激闘であった。
なにしろ因縁つきの顔合わせである。対局地も読売の都合だけでなく「東京と広島の中間」という意味で金沢が選ばれたというほど。
対局場「つば甚」で前夜の会食をしているときに、食通、今ふうにいうとグルメの木村名人がウンチクを傾けだし、
「やっぱり豆腐は木綿ごしに限るよ。この歯ごたえがなくっちゃあ、江戸っ子は」
とやっていた。少し離れた席の升田は、初めは不愉快そうに黙って名人を見ていたが、
「豆腐は絹ごしが上等と決まっとる」
「君はまだ若い。物の味が分かるまい。そんなこたあ、田舎者の言うことだよ」
これで両者のファイトに火がつき、口論が繰り返されるうち、升田が、
「えらそうなことばかり言うとるが、将棋は名人でも、その道の専門家から見りゃ、木村名人の知識なんかゴミみたいなもんだ」
と言ったのである。
「なにい? ゴミだって? 名人がゴミなら君はなんだ」と木村。
わざとソッポを向いた升田は、
「さあね。ゴミにたかる蝿(はえ)ですか」
とやった。これで一同の笑いを誘い、勝負あったかと思えたが、木村名人が鋭く一言、升田の肺腑をえぐる言葉を投げつけた。
「君も、えらそうなことばかり言ってないで一度ぐらい、名人挑戦者になったらどうだね」
と言って席を立ったのである。」
果たせるかな、翌日の対局は朝からケンカ腰の気合。相掛かり模様から曲折を経てがっぷり四つの相矢倉。千日手模様の手待ち。