クオの別世界 -20ページ目

クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。


高まる将棋人気


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 升田、大山を先頭とする関西勢の抬頭でますます将棋人気は高まり、同年10月24日、阪神甲子園球場で「人間将棋・青空将棋大会」が開かれ、3万数千人の大観衆を集めた。

 野球場の内野を盤にし、東宝のダンサーたちが駒になり、三塁側大山康晴八段、一塁側松田辰雄八段の号令に従って動いた。それに先立つ第1部では、若き日の淡谷のり子が歌いまくり、将棋の後の第3部では、漫才師お笑いチームと兵庫県歯科医師会チームの草野球、京阪神三都対抗のど自慢が催された。この様子と棋譜は将棋大成会関西本部発行の雑誌『将棋』に詳しく記されているが、いま有名な天童の人間将棋もはるかに及ばぬスケールであった。

 昭和23年度のA級順位戦(この年から10名、総当たり)で、升田八段は大山八段、木村前名人、松田辰雄八段に敗れて6勝3敗。大山八段も北楯修哉八段、松田辰雄八段に敗れ、丸田祐三八段と持将棋(半星)で、共に名人挑戦権を逸している。

 挑戦権を握ったのは雌伏二年の木村前名人で、塚田名人との第8期名人戦(この年は5番勝負、8時間、1日指し切り)に3勝2敗で、名人の座に返り咲いた。

 昭和24年7月、それまで仮住まいを続けて来た日本将棋連盟は、東京・東中野に本部を構え、社団法人の認可も得て、ようやく本格的な活動を開始した。

 同年8月末、連盟と毎日新聞の間で続けられていた、第9期名人戦の契約交渉が成立せず、連盟は新たに朝日新聞と契約し、主催社が変わった。もちろんその過程において、朝日の嘱託である升田が重要な働きをしている。かなり正確に(契約金額等が)記された文献としては、1981年に村松喬氏が書いた『将棋戦国史』=独楽書房=があるが、著者は元毎日新聞の人で(学芸部長、論説委員)升田と正面衝突した当事者だけに、非常に感情的な文章で、筆者には首肯し難い点が多い。

 升田の自伝『名人に香車を引いた男』にも、この名人戦問題は簡単にしか書かれていない。

 すべて、トラブルというのは互いの意見や認識が食い違うために起こるわけで、「これが真相だ」という一つの話は、もともとあり得ないのではないだろうか。

 読売新聞は、昭和22年暮に「第1回全日本選手権戦」を創設していた。上位10棋士のトーナメントであり、木村義雄前名人が優勝している。升田八段は、1回戦で丸田祐三七段に敗れ、大山八段は木村前名人に、大野源一八段も丸田七段に敗れて、関西勢、木見一門の三強はかたなしであった。塚田名人も2回戦で加藤治郎八段に敗れている。


(続く)



塚田名人に敗れる


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 朝日新聞社の企画「塚田名人・升田八段5番勝負」は、昭和23年の秋に行われた。

 当時、名人戦と順位戦以外には全棋士参加の棋戦がなかった。塚田は前年木村義雄から名人位を奪取し、この年大山八段の挑戦を受けるまでの間に、たった5局しか対局していない。

 そんな時代だから、この5番勝負は全国の将棋ファンの熱い視線を浴びるビッグイベントだったし、対局者の生活も楽になった。

 脂の乗りきった塚田名人は34歳。挑戦する升田八段は30歳。東西対決である。

 第1局は9月5日に東京で行われ、当時流行し始めていた角換わり腰掛け銀。先番升田の作戦が見事で、97手の快勝だった。

 作家の長与善郎は、観戦記で次のように升田を描写している。初対面である。

「骨組太くたくましくカン骨の秀(ひい)で、浅黒い鉄のような顔の眉宇には満身闘志、怖れる者を知らぬといった不敵な面魂と、どこか人を人とも思わぬ濶達縦横の才気と自信があふれて見える。(中略)歳は四つ下だが世古(せこ)馴れて、どんな相手と場所とにも臆せず滔(とう)々と所信を述べ気焔を挙げる心臓だけでも大抵の相手を圧服しそうに見える」

 第2局は中4日おいて9月10日に同じ場所で行われ、後手番升田の△3三角(阪田流指向)に塚田は角を交換せず、相居飛車の急戦。塚田の見事な寄せで97手、第1局と同手数で1勝1敗になった。

 第3局は9月17日、京都・南禅寺近くの個人の邸宅で行われ、画家の梅原龍三郎が観戦記を執筆した。

「升田八段は初対面である。その風貌は、ぼけた写真のよく伝え得る所ではなかった。眉秀(ひい)で目は切れ長で鳳眼(ほうがん)と言うべく、鬼くらいは一とかぶりにかみ殺しそうな口元である。殊(こと)に特徴のあるのは高いカン骨で頬に深い隈取りが出来ている。肩幅広く手足がのびのびしている。一寸黒いつり鬚(ひげ)をつければ忽ち立派な楚王項羽が出来上がる。金小山扮する覇王よりも立派である。魁偉の美丈夫である。また盛んなる談論家である。真に、リーパーシャンチィハイシーの感じである、漢字で書くとすぐわかる、力抜山、気蓋世」

 梅原は、いっぺんに升田ファンになってしまった。交際は終生続いた。

 また梅原は塚田のファンでもあり「名人位が身について来て、劉邦は大分(だいぶ)漢の高祖に成って来た」と記している。

 この第3局も角換わり腰掛け銀。終盤、塚田の放った勝負手を受け損じて升田は敗れた、106手だが、持ち時間各8時間(1日指し切り)のうち升田は残り1分まで、塚田も7時間半を使った熱戦だった。

 第4局は同じ場所で9月22日に行われ、飛先交換の腰掛け銀。立会人の加藤治郎八段が「駅馬車の譜」と命名した名局で、升田の会心譜である。112手で升田の勝ち。観戦担当記者は陶芸家の富本憲吉。

 この5番勝負は塚田の3勝2敗だが、升田は当時の新型腰掛け銀で次々と新手、新戦術を編み出して「序盤の天才」の声価を高め、全国のファンを感動させた。

 升田の敗局ではあるが、10月7日の最終第5局の観戦記は、新東海新聞編集局長の小倉(おぐら)敬二。この人は大阪朝日新聞学芸部長のころに阪田三吉の面倒を見、また、「銀が泣いている」の名文句で名高い「阪田三吉将棋哲学」の筆者である。

 各8時間で1日指し切りというすごい規定は、恐らく今後現れないだろう。小倉は本局の結びを次のように記している。

「息つくひまもない。1秒1秒が最後への督促だ。どっちも眼が血走ってる。肩が揺れる。棋力、体力、精神力、感性、悟性、あらゆるものを挙げての人間対決、全人的の闘争だ」

「1分間早指し40何手、『負けました』と升田八段が、いんぎんに頭をさげた。名人は無言、にこっともしない。あまりの緊張に、顔面筋肉が硬(こわ)ばって、笑うにも笑えなかったのかも知れない。お互い力の限りを戦い尽くして悔ゆるなし。終戦午前5時30分」

 第5局の翌日、名古屋で5番勝負回顧の対談があり、塚田と升田は、将棋に対する姿勢などを存分に語り合い、意気投合して親交を結ぶようになった。

 升田  「塚田名人の芸風に接したいと思っていたその念願がかなってうれしい。端的にいえば名人には精進している心構えがある。塚田さんが木村名人に挑戦しているときは、大したものじゃないと思っていた。ところが名人になってから違ってきた。落ち着きが出て来た。あの落ち着きに自分が負けるか、自分の考えている理論的なものが破壊されるか、ますますやってみたくなった。これが実現して教えてもらった。名人は確かに強い」

 塚田  「私はもっと升田君とやりたいと思っている。升田君にはもっと健康がほしい」

 全局に立会った加藤治郎八段の話では、この時の升田は、塚田先輩に対して非常に気を遣い、見ていて気の毒なくらいだったという。塚田の方がそれを察し、

「第5局は対局室に誰も入れないようにしてほしい。観戦に来る人はみな、升田君に勝たせたいと思っている。僕としては少しも構わないのだが、升田君の方がかえって僕にすまないと思い、気にしているから」

と加藤に言ったそうである。


(続く)



将棋とチェス論争


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和22年の夏、升田八段は東京都心の日比谷にあったGHQ(連合軍総司令部)に呼び出され、アメリカ軍の係官による将棋に関する事情聴取を受けている。

 その時の升田は、師匠の木見金治郎八段の代理という形で関西本部長を引き受け、東京とのパイプ役を兼ねて将棋界再建に奔走していたのだったが、なぜ東京の幹部でなく升田が選ばれたのだろうか。たぶんその「クソ度胸」を買われたわけだろう。

 将棋大成会(のち日本将棋連盟)はそのころまだ任意団体で、とりあえず株式会社としての法人化を申請中だったが、決定権を握るGHQ(ゼネラルヘッドクオーター)では「チェスと違って日本将棋では、取った駒を自軍の兵隊として使用する。これは捕虜の虐待で国際条約違反だ。日本軍の捕虜虐殺に通じる思想ではないか」と、難くせをつけてきたのだった。日本にチェスを普及させようという意図もあったのだろう。戦勝国の考えそうなことである。

 通訳をはさんで、GHQのホイットニー准将からこの質問を受けた升田は、「ははあ、やっぱりおいでなすったな」と思った。言葉じりを取られぬためにゆっくり話そうと「酒を少し飲ませろ」と要求した。アメリカ人は意外に物わかりがよい。ビールを出してきた。“缶詰めビール”というものを初めて飲んだが、うまいとは思えなかった。升田は、日本一強いというレベルではないがチェスや中国の象棋(シャンチー)もルールを知っている。

「冗談を言われては困る。チェスで取った駒を使わんのこそ捕虜の虐殺だろう。日本の将棋は敵の駒を殺さない。常に全部の駒が生きておる。これは人の能力を尊重し、それぞれに働き場所を与えようという正しい思想である」

「アメリカ人はしきりに民主主義を振り回すが、チェスでは王様が危なくなると、女(クイーン)まで盾にして逃げようとするじゃないか。あれはどういうわけだ」

 升田は、いろんな出まかせをしゃべりまくって通訳まで英訳に困るほど煙に巻いた。どこまで実話か知るよしもないが、しまいには、

「お前らは日本をどうするつもりなんだ。生かすのか殺すのか、はっきりしてくれ。生かすなら日本将棋にならって人材を登用しろ。殺すというなら俺は一人になっても抵抗する」

 当時の日本人はアメリカ軍を恐れて口数少なく小さくなっていたものだが、こういう男もいるのかと係官は呆れたらしい。

「貴君は実によくしゃべる。珍しい日本人である」

みやげにウイスキーを持って行けなどと言ったそうだ。

 これが機縁となって2年後の昭和24年には『アサヒグラフ』の企画で「日米将棋とチェス大手合」が行われ、写真と棋譜が載った。升田と対戦したのは、ニューヨークタイムズ東京支局長のリンゼイ・パロット。将棋は四枚落ち、チェスは平手で、いずれも升田が勝った。

 あまり知られていないことだが、後年升田は来日したロバート・ケネディ司法長官(大統領の弟)とパーティーで会って話をしている。(後述)

 また、ブリタニカの1992年の年鑑に「1991年に死去した世界の100人」の1人として升田の略歴が載っている。将棋、囲碁を通じて初めて選ばれた棋士。

 “文化人・升田”の評価は、将棋界の中よりも外で高いようだ。


(続く)



升田の信念


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 塚田との5番勝負の時に升田が書いた将棋論の一部を引用する。

 タイトルは「将棋の本質」

「将棋は元来攻めるように出来ている」

と筆を起こし、駒の性能、成りのルール、取った駒を使うルールなどから、中将棋(日本の古将棋)やチェスとは本質が違うと説く。

 次に、千日手問題に言及する。

「どちらも同じことを繰り返すのは、他の手では絶対に悪くなるという対局者の主張から起こるのである。この形(駒組)であれば千日手であるという規則はまだない。もし将棋が究め尽くされていて、最初からこれが最善の手と決まっており、その指し手を進めて行ってどうしても千日手になるのであれば、もはや将棋に発展の道はなく、将棋は亡ぶであろう。もちろんまだまだそんなところまで研究が進んでいるわけでもないし、またいままでの千日手が果たしてその時、他に手がなかったかどうかも疑問である。もし私が、千日手にする以外、他の手では絶対に悪いとしか考えられぬ場合にぶつかれば、私もわざわざ悪いと考えられる手を指すつもりはない」

「やはり千日手は対局者が双方とも消極的な場合に多いのが事実である。『勝ちたい』気持ちより『負けたくない』気持ちの方が強く、『良い手を指す』より『悪い手を指さない』主義から起こる。これはどうしても将棋の本質に徹していないからだと思う」

「将棋に限らずすべて勝負事は消極的に流れては面白味がなくなり、その発展をはばみ衰退の第一歩となる。相撲が水入りの大相撲を、野球が0対0の接戦を繰り返しても、それが皆引き分けに終わるようでは興味が薄くなる。この意味からも、将棋を職業とし、棋道発展を願っている専門棋士は千日手を恥として心得てしかるべきだと思う」

「将棋の本質に徹して、少しのゆるみもない将棋が指したい。そして真理への道をひたすらまっすぐに歩きたいと、私はいつも考えている」

 升田の千日手論は、当時最も研究熱心でチェスにも情熱を注いでいた坂口允彦八段への反論とも思われる。坂口は、平手の将棋に必勝法はない、将棋の究極は千日手無勝負だろうと主張していた。これに対して升田は、そんなことが人間にわかるもんかと言った。しかし、「先手有利説」も採らなかった。ひょっとしたら将棋は後手必勝なのかも知れんぞと言う。その根拠に「歩だけ9枚並べて指したら後手必勝なんだから」と例を示している。

 升田は全盛時代「毒薬を盤の下に置いて、負けた方がそれを飲むという将棋を指してみたい。真剣勝負とはそういうもんだろう」とよく言っていたが、昭和23年にすでに下のような発言をしているのだ。

「もし、命を賭けての将棋を指したら世にいう勝負師よりも、真理を求めている者の方が強いと思う。次のない将棋にハッタリやただの勝負手は指せないからである。そうなれば高段者でも二、三段ぐらいにしか指せない人があるかも知れない。私もまだまだ弱いがそういう真理を求めて対局する場が欲しいと思っている」


(続く)



塚田名人と戦う


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 升田の心境は複雑だった。生家とのトラブルもあった。

 あらゆることが、自分を陥れるように作られていたような気がする。生活は乱れに乱れた。昼間から大酒を飲んだ。

 木見師匠と親しい、東京の土居市太郎八段がわざわざ升田を訪ね、

「君のは、飲むんじゃない、浴びるというもんじゃ。体をこわしちゃ元も子もないよ」

と忠告したが升田は聞き流した。仲間も弟弟子たちも恐れて近寄らない。

 そんな升田を救おうと、朝日新聞が企画したのが「塚田・升田5番勝負」である。

 昭和23年ごろの新聞は、今の人には信じられないと思うが、たったの2ページである。物資不足で紙も配給制だった。そこで朝日は、いくらか紙数の多い『週刊朝日』の企画にしたわけである。

 升田が荒れていたもう一つの理由は、生涯の目標として精進してきた大名人・木村義雄の衰えだ。命からがら復員して来て、将棋界がどうにか復興し「いざ、名人戦の檜舞台で」怨敵木村に相まみえようとした矢先に、塚田が名人になってしまった。標的が、マジックのように目の前からふっと消えた。だからもはや升田にとっては、塚田と大山の名人戦なんか何の関心も持てない、対岸の火事だった。

「将棋をやめて、母や妻が言うように広島で百姓をしようか」

 幾度こう考えたか知れなかった。

「将棋みたいな非生産的なものは日本の国の役に立たんのじゃないか……」

 けれども升田は、根っからの棋士だった。朝日新聞の好意に感激した。木村、大山を破って名人の座にある塚田なら相手にとって不足はない。新たな闘志が湧いて来た。酒もほどほどにおさえられるようになった。30歳の秋である。

 5番勝負の第1局は昭和23年9月5日、東京・牛込の「某邸」で行われた。事情があって空家になっていた豪邸を借りた。

 このころから升田には、有力な後援者がつきはじめている。がさつな将棋指しかと思っていたら全然違う。よく本を読み、人の話も聞いていて学はあるし、話術も天才的。何より、純粋な心を持っている。「面白い男だ」と評判が立った。

 大の将棋好き、作家で文芸春秋社長の菊池寛は自ら望んで対談をした。“黒子”として活躍したのは観戦記者で三田の文士でもある倉島竹二郎だった。もちろん、嘉治隆一、永井大三ら朝日新聞の幹部も升田に惚れ込んでいた。

 5番勝負の観戦記を書いたのは長与善郎、中島富治、梅原龍三郎、富本憲吉、小倉敬二といった各界の名士だったし、金子金五郎八段が手の解説にあたり、全局終了後に両対局者の感想、加藤治郎八段の司会による回顧座談会という構成。写真のほかに梅原画伯と岡本一平画伯が対局姿を描いた。翌年、単行本化されている。


(続く)