高まる将棋人気
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
升田、大山を先頭とする関西勢の抬頭でますます将棋人気は高まり、同年10月24日、阪神甲子園球場で「人間将棋・青空将棋大会」が開かれ、3万数千人の大観衆を集めた。
野球場の内野を盤にし、東宝のダンサーたちが駒になり、三塁側大山康晴八段、一塁側松田辰雄八段の号令に従って動いた。それに先立つ第1部では、若き日の淡谷のり子が歌いまくり、将棋の後の第3部では、漫才師お笑いチームと兵庫県歯科医師会チームの草野球、京阪神三都対抗のど自慢が催された。この様子と棋譜は将棋大成会関西本部発行の雑誌『将棋』に詳しく記されているが、いま有名な天童の人間将棋もはるかに及ばぬスケールであった。
昭和23年度のA級順位戦(この年から10名、総当たり)で、升田八段は大山八段、木村前名人、松田辰雄八段に敗れて6勝3敗。大山八段も北楯修哉八段、松田辰雄八段に敗れ、丸田祐三八段と持将棋(半星)で、共に名人挑戦権を逸している。
挑戦権を握ったのは雌伏二年の木村前名人で、塚田名人との第8期名人戦(この年は5番勝負、8時間、1日指し切り)に3勝2敗で、名人の座に返り咲いた。
昭和24年7月、それまで仮住まいを続けて来た日本将棋連盟は、東京・東中野に本部を構え、社団法人の認可も得て、ようやく本格的な活動を開始した。
同年8月末、連盟と毎日新聞の間で続けられていた、第9期名人戦の契約交渉が成立せず、連盟は新たに朝日新聞と契約し、主催社が変わった。もちろんその過程において、朝日の嘱託である升田が重要な働きをしている。かなり正確に(契約金額等が)記された文献としては、1981年に村松喬氏が書いた『将棋戦国史』=独楽書房=があるが、著者は元毎日新聞の人で(学芸部長、論説委員)升田と正面衝突した当事者だけに、非常に感情的な文章で、筆者には首肯し難い点が多い。
升田の自伝『名人に香車を引いた男』にも、この名人戦問題は簡単にしか書かれていない。
すべて、トラブルというのは互いの意見や認識が食い違うために起こるわけで、「これが真相だ」という一つの話は、もともとあり得ないのではないだろうか。
読売新聞は、昭和22年暮に「第1回全日本選手権戦」を創設していた。上位10棋士のトーナメントであり、木村義雄前名人が優勝している。升田八段は、1回戦で丸田祐三七段に敗れ、大山八段は木村前名人に、大野源一八段も丸田七段に敗れて、関西勢、木見一門の三強はかたなしであった。塚田名人も2回戦で加藤治郎八段に敗れている。
(続く)
