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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。



クオの別世界



そして、A図の局面になった。

 升田は、いつもの癖で桂を駒台からつまみ上げて盤上でカラ叩きをしていたが、「こんな王手に▲5七桂と打つ必要はないぞ」という悪魔のささやきを聞いてしまい、桂を駒台に戻して▲4六玉と立ったのである。

 もし▲5七桂と合いを打たれたら、大山は必至を掛けて形を作り、詰まされて投了する覚悟だった。

 それなのに▲4六玉。しばし考えて△6四角と打った。▲5五桂合。「詰んでるぞ」と大山は身ぶるいした。△4七金と打った。

 升田が叫んだ。

「錯覚いけない、桂打ちよく見るよろし」

 悲惨なうめき。大道の中国人手品師のセリフを借りておどけたが、悔しさはいかばかりか、察するに余りある。(大山が言ったという異説もある)

 △4七金以下は▲5六玉△5七竜で、上下どちらへ逃げてもグルグル回しの詰みだ。△4七金までで升田が投了すると、大山は深々と頭を下げた。

 大山、挑戦者に。

 4月1日付で八段に昇った大山は、塚田正夫名人との第7期名人戦7番勝負に臨んだが、最盛期、33歳の塚田に2勝4敗で敗れた。

 この期も各8時間、1日指し切りだった。

 高野山の3番勝負には大阪棋界の後援者、中村良太郎秘蔵のカヤ盤が使われたのだが、世話人の藤内金吾六段が大阪へ持ち帰って点検すると、まるで素人が使った時のように、盤面がキズ跡だらけなので驚いたそうである。

 また、サッカクイケナイ、とうめいて投了した升田八段だったが、局後の検討は熱心で、朝の5時まで続いたと、観戦記者の樋口金信は伝えている。


(続く)



錯覚いけない


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 第1局は2月26日に「金剛峯寺」で行われ、先番大山の▲2六歩以下、飛車先交換、5筋突き合いの旧相懸かり戦。中盤で升田に△3一桂という失着があり、ぎりぎりの一手争いを大山が勝ち切った。137手。

 第2局は中2日休んで29日に「普門院」で指した。

 高野山の決戦といえばまっさきに「升田のトン死負け」を思い浮かべるほど、第3局があちらこちらに紹介されているわけだが、この第2局も物凄い迫力を感じさせる棋譜であり、角換わり腰掛け銀の草創期の名局と思う。

 升田雪辱して1勝1敗。

 第3局は中2日おいて3月3日に同じく普門院で行われた。

 升田  「1局目は、夜の9時ごろに高野山へ着いて疲れていたし、体が弱り切っていて勝てる気がしなかったが、2日休んでどうにか体力も回復し、あとの2局は勝てると思った」

 升田は「十二指腸虫」に侵されたと言っている。ポナペ島守備隊のころに、全く食糧がなくエヘレトカゲと呼ばれるグロテスクな生き物まで捕えて食ったのがいけなかったらしい。なにしろ腹の中に長い虫が住みついていて、栄養分をみなその虫に奪われてしまうという。

 升田は大山の進境は認めていたが、第2局の完勝で「まだまだ」の感じがした。

 振り駒で先番を得た升田は、続けて角換わり腰掛け銀の形に誘導したが大山はこれを避け、飛車先の歩を交換させたばかりか、横歩取りまで許して乱戦形に持って行った。

「あの時点では、技術的に到底升田さんには及ばなかった。勝負するというよりは、兄弟子に教えてもらうという気持ちだったのです」

 戦局は後手大山の二枚銀、升田の雁木の構えで進行した。各7時間、1日指し切りの勝負を中2日で3局続けたのだ。病身の升田は大阪から医師を呼び、注射をしてもらいながらの戦いだ。大山も元来丈夫ではなく、20代のころは今の谷川浩司か南芳一のような細身だった。凄惨な3連戦である。

 一進一退の中盤戦。升田は「勝った」と思った瞬間に▲6九玉の悪手を指し、逆転。ところが大山も△5七桂成の悪手で勝機を逸する。



高野山の決戦


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 塚田名人への挑戦者を決める、升田八段と大山七段の3番勝負は、昭和23年の2月26日から和歌山県高野山で行われることに決まった。ところがこのころ升田は体調を崩しており、同時に女性問題が起きていて、広島の自宅に帰らないで居所不明の状態だった。

 対局通知は「手紙や電報で10回くらい出した」と連盟側は言っているが、升田は「受け取っていない」と断言している。

 自伝『名人に香車を引いた男』によると、升田は激怒し、「この将棋指すまいと思った」というのだが、升田にも「居所不明」の落ち度があった。

 また、予定では寒がりの升田の注文により南紀白浜温泉で行われるはずが、雪の高野山に変更されたという話もある。

 今さら真相を究明するのは無理だろうが、この頃から「朝日の升田」と毎日新聞及び毎日派の東京の理事(棋士)との仲が、うまく行っていなかったことだけは事実である。

 対局は予定通り行われた。前日、大山七段は毎日新聞の関係者と共に降雪の中を高野山に到着した。一方升田八段は、朝日新聞学芸部の3人の記者に付き添ってもらって夜遅く山上へたどり着き、毎日関係者との間で口論があったのだが、「よろしい。わかった。あしたの朝10時に対局場で会おう」ときっぱり言った。

 相互の誤解が解ければ、升田と大山はもともと兄弟弟子、「打倒東京」を誓った仲である。盤上で男らしく勝負しよう、と割り切った。

 上のいきさつについては諸説あって筆者を悩ませるが、当時、大阪の将棋大成会関西本部が発行していた雑誌『将棋』の第1号巻頭にのった一枚の写真が、ほっとさせてくれる。

 笑顔の升田と大山が肩を並べて、対局場金剛峯(ぶ)寺の山門を出るところだ。撮影は新大阪新聞社のカメラマンで、

 仲のいい兄弟弟子―。

 升田  「まるでお城将棋に来ているようだ」

 大山  「ほんとう、その通りです」

 上のような写真説明がついている。雪といっても画面では木々の梢に綿のようにかぶさっている程度であり、羽織ハカマの両棋士が下駄ばきで、昼食をとるために別棟へ歩いているのだから、百聞は一見に如かずとはこのことだろう。高野山対局は“決戦”であって“事件”にまでは発展しなかったのだ。


(続く)



心に、体力。体に、知力。

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順位戦の発足


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 敗戦国日本は、あらゆる面で改革を余儀なくされていた。マッカーサー元帥をトップとする占領軍総司令部は日本の再軍備を防止すると同時に、学制の改革(現在の6・3・3制)などに代表される、文部行政の改革にまで干渉しているが、将棋も例外ではなく、チェスを流行させようと試みた形跡がある。

 プロ将棋界再興の第1歩は昭和21年の、「順位戦」制度の発足だった。

 まず、「段位」を撤廃し、当時の四段以上を選手として、テニスのようなランキング制に変更したのが順位戦構想である。

 第1期順位戦は、当時の八段14名をA級、七、六段

15名をB級、五、四段29名をC級とし、名人(木村義雄)はチャンピオンに相当し、棋士に総順位を付する方針でスタートしたのだったが、段位の撤廃は柔道、囲碁などと共に国民の反対意見が多いため、1年で元に戻してしまった。A、B、Cのクラス名は今に残っている。また、第1期順位戦にはややこしい付帯条項があって説明しにくいし、財源がなくて大変な苦労がともなった。占領軍ににらまれるのもまずい。

 A級の総当たりリーグ戦では塚田正夫、大野源一、萩原淳が10勝3敗の同点で、3人総当たりのプレーオフは塚田が2勝し、木村名人への挑戦権を獲得した。

 なお、この木村―塚田の名人戦から「1年1期」に変更された。それまでは2年だったので木村名人の在位期間は「8期・13年」と表記するのが正しい。中原誠名人の場合も、トラブルで名人戦の行われなかった1年を加えるべきだろう。

 さて、第1期順位戦だが、大野源一八段の敗退で関西ファン待望の「名人位の箱根越え」は実現せず、木村に対して同じ東京出身の塚田が挑戦した7番勝負(この期は各8時間、1日指し切り制)は、つまらないものだった。

「大野じゃ勝てない。升田でなければ」

「塚田が木村に勝てるわけはない」

 関西のファンにとって、塚田は何の面白味もない挑戦者だったらしい。が、7番勝負は4対2で塚田が勝ち、新名人が誕生した。

 関西びいきの熱い視線は、B級第1位(12勝2敗)の升田新八段に注がれた。

 このとき、大山康晴六段も11勝3敗で第2位になったが、A級から7人を一挙に降級させて定員を8名にしたために、大山は七段に昇っただけで、第2期順位戦の順位は木村前名人がA級第1位、升田八段は第7位、大山七段はB級第3位となっている。降級した八段のうち2人が、点数計算で大山より上位だからである。

 翌22年の第2期には、また規約の手直しがあった。名人挑戦者はA級第1位の者でなく、1、2、3位とB級第1位の4名により、下からの勝ち抜き(パラマス)で決定する、と。

 皮肉なことに、第2期順位戦A級は、1位升田(12勝2敗)、2位大野(9勝5敗)、3位花田長太郎八段(同)だった。木村は7勝7敗の5位。そして、B級第1位は大方の予想通り大山七段、11勝1敗。

 面白くないのは升田である。「毎日新聞は、大山に都合のよい規定を作ったんだろう」と言った。しかし、もし升田が第2位か第3位なら自分も新規定の恩恵にあずかるわけだから、「毎日の策略」ときめつけるのは無理である。

 ともあれこの時、神様は「宿命のライバル・升田と大山」を作り給うた。

 大山七段は病気の花田に不戦勝、兄弟子大野にも勝って、升田との決勝になった。


(続く)



心に、体力。体に、知力。

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大仕事はすんだ


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 12月6日、第3局は奈良、三笠山麓の旅館「武蔵野」で行われた。いくら地元新聞の企画でも、時の名人が「東京で」と頼めば当然そうなったはずだが、木村は旅が好き。いつでも喜んで関西へ出向く人だった。升田は後日こう言う。

「駅に名人を出迎えたとき、目が合うと、ギクリとした様子が見えた。勝ったと思った」

 第3局の記録係は大山六段。倉敷からわざわざ来た。ところが、木村名人は対局前夜大阪から奈良へ遅く着いた。「前に来たことがある」と言うので同行の樋口が安心していたところ、道に迷ってしまった。

「どうもシカ(鹿)と分からんね」とシャレをとばしながら夜道をさまよい、たどり着いたのが午前2時。しかし、江戸っ子名人、弱音は吐かず、翌朝9時半には盤の前に座った。

 来るはずの作家、織田作之助の姿が見えない。理由は不明だが、東京から帰れなかったのだ。翌年1月に急逝したオダサクが以前「共産党嫌いの升田の思想は落第だ」と批判していたので、樋口が目をつけて観戦記と対談を依頼してあったのだが―。

 この第3局は、升田が自伝に「怨敵3連破の譜」と書いたように、鬼気迫る終盤、升田のミスで逆転、木村のミスで再逆転し、111手で升田が勝った。

「七段時代の大仕事だった」と升田は述懐するが、第4局を指さず「ストレートの3連勝」として終結したのはなぜか。樋口によれば、升田は対局前に病気をして「勝っても第4局は指せないと思う」と語っていたそうだが、41歳の“怨敵”木村先輩の体の衰弱を知り、同情の念が起きたのではなかったか。


(続く)



心に、体力。体に、知力。

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木村名人に連勝


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


「半香で勝ち、平手でも2勝したら第5局は僕が香を引く」

升田は樋口と黒崎にそう言って、ニッと笑った。

 9月17日、第1局。木村名人は対局場、宝塚の旅館「さくら」(女将は升田の実妹)に泊り、升田七段は別の宿からやって来た。その前夜、木村と、関西びいきの樋口記者との間で、第3局以降の手合い(駒割り)についてひと悶(もん)着あり、立腹した名人が「そんなこと言うなら僕は指さないで帰るよ」と立ち上がるシーンが見られた。

 後年の“陣屋事件”の萌芽は、この時にチラッと姿を現している。

 驚くことはもう一つある。持ち時間は、対局開始直前の話し合いで決まった。

「名人。2日制だから10時間ですか」

「君しだいだよ。順位戦と同じの7時間で、なんなら徹夜で指し切ってもいいんだよ」

 戦いは前夜から始まっているのだ。中をとって2日制、9時間と決まった。記録係は灘照雄三段(本名照一、のちの蓮照九段)。観戦担当記者は、囲碁の橋本宇太郎八段(当時)

 香を引いた名人は、初手合わせと同じ形の四間飛車。升田はなんと棒銀。「棒銀を受けるのには振り飛車が安全」とされていた当時の定説に挑戦した升田は、90手で完勝した。

 対局中に当然、舌戦も激しかった。武庫川の川音がうるさいので升田が言った。

「部屋を変えますか」

「君しだいだよ」と木村。

「僕は平気だ。大砲の音で耳にタコ」

2日目の午後5時に終局。仮住まいの福井からやって来た木見金治郎八段に木村は言った。

「升田君は強くなりましたよ。うまく負かされました。八段に遜色ありません」

 八段ね、と升田は内心、木村の強気にあらためて感心した。

 第2局の平手番は、近くの「宝楽」へ移動して中1日休み、20日の朝から行われた。

 写真のほか、中村治之画伯がスケッチを描き升田の自戦記も添えるという趣向で2ページの夕刊紙『新大阪』は飛ぶように売れた。

 戦型は相懸かりで升田の早繰り銀。木村は中央から反撃し、成功……と見えた時にポカ。

「いけねえ」と名人が叫んだ。アマ初段にも分かるような手を身落とした。粘りに転じたが効なく、79手で升田連勝。木村は8時間余を使い、升田は5時間以上余した。

 升田自戦記の一節を引用する。

「落人(おちうど)にとっぷり日は暮れ果てて鳥の羽ばたきにも捕手と見まちがう、戦慄にさも似たり。名人がうち震う手で玉を握りかけたが、しばし思い止(とど)まって」

 大名人の狼狽(ろうばい)ぶりを、新鋭七段は冷ややかに見下(くだ)していた。

 終局の翌日、岸田幸雄兵庫県知事らを招いて木村名人との懇談会。続いて夜、大阪で木村名人の講演会が開かれた。升田は復員服姿で聴衆の中に混じっていたが、司会の樋口が、

「この席に名人候補升田七段がいます」

と紹介するや、「升田君万歳」の声が湧き起こった。木村にサインを求める人もなく、大名人も置き去りの姿。

 宿に戻った木村は、日本奇術協会会員の腕前でトランプ奇術を披露して機嫌を直す。

「升田君は強いや。今の八段に平手なら、この木村がじっと腰を沈めますと、ふっ飛んでしまうんですがね、1尺も2尺も」

 黒崎編集局長は、升田の新大阪新聞入社を打診した。5000円の月給を提示。いかにインフレ進行中といえども昭和21年の5000円は破格である。この人物は毎日の屋台骨を支えた事業家で、のちにプロ野球パシフィックリーグ創設に関与し、役員にもなった。

 升田はすでに朝日新聞再入社(月給500円)が決まっていたので黒崎の申し出を感謝しつつ断った。木見師匠の後がま、毎日新聞の嘱託にはすでに大山康晴六段がすわっていた。

 第3局は、延期された。大成会幹部は中止を求めていたのだ。

 升田は大人になっていた。講演も実は苦手で、1分間スピーチでお茶をにごしていた六段時代と打って変わり、新聞社の講堂で1時間半の「木村名人を語る」をやってのけた。


(続く)



心に、体力。体に、知力。

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