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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。


強運の棋士、升田


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和21年の春になった。

 村の人たちと碁ばかり打って、体の恢復を待っていた升田青年。没後、日本棋院から囲碁八段を贈られたほどの棋力は、山崎という旅館の主人にもまれて身についた。

「山崎さんだけじゃなく、強い打ち手がいると聞けば十里四方、どこへでも自転車でとんで行って打ちました、ええ」

 将棋界が復興されそうだというニュースを聞いた。木村名人も無事だったらしい。

 大阪へ出てみよう。

 升田は二度目の応召直前に、縁あって、病没した神田辰之助八段のあとがまとして大阪朝日新聞の嘱託(社員)になっていたから、頼れる人がいるはずだ。なんとかなろう。

 まず老松町の木見師匠宅を訪ねたが爆撃で家は消え「福井県の奥さんの実家に無事でおられると思う」と聞いた。しかし後で、ふさ子夫人は前年亡くなられたと知った。

 新聞社は活動を続けていたけれど、学芸部に升田を知る人はいなかった。

「みなウサン臭そうに口もきいてくれん。もっとも、無理もない。よれよれの復員服にヒゲぼうぼう、目ばかり光らせておりますから、ゆすり、たかりと間違われても仕方がない」

 こんな目に遭ったのは升田ばかりではない。戦死したり行方不明の棋士は多かった。東京方でも、とても将棋なんかで飯の食える時代には戻るまいと考えて転職した棋士もいたし、帰る家がないため、疎開先の田舎で農業などをやっている棋士もいた。

 同じ戦地帰りの丸田祐三(当時三段)は孤児になり、きっぱり足を洗うつもりでいたが、才能を惜しむ先輩に説得され、四段にしてやるからと言われ、第1期順位銭に参加したところC級で優勝した。規定によりB級の七段。翌年A級八段。実質「四段跳び」及び「三段から八段までに2年間」という空前の丸田の記録は、終戦直後の焼け跡に咲いた花である。

「悲運の棋士」はマスコミが贈った慰めの言葉だ。骨になって「無言の帰国」をした天才棋士たちをそれでは何と呼べばいいのか。升田幸三は命を拾った強運の棋士である。

 しあわせは早くもやって来た。

 昭和21年の夏。大阪で創刊された『新大阪』という毎日系の夕刊紙に、編集局長として出向していた黒崎貞治郎と、観戦記者の樋口金信が「升田が生還した。さっそく木村と戦わせよう」と企画を立てた。

 樋口が交渉に当たった。まず、升田に異存はなかったが、平手を希望した。

 木村は手合いによる、と答えた。名人と七段は本来香落ち。しかしそれでは新興新聞社の企画としては成立しない。将棋大成会(当時の連盟の名称)の提案と樋口、黒崎の知恵で、駒割りの問題を「対戦者面談の上」解決してくれということになり、結局、当初の平手3番勝負のつもりが「半香から始めて2番手直り、5番勝負」というケンカ腰の条件になった。

『新大阪』は大喜びで大阪市電の車内、車外広告や立て看板により、娯楽に飢えている関西の人に宣伝した。当時の木村義雄は「無敵名人、実力十二段」と呼ばれ、69連勝で名高い横綱双葉山と並び称される有名人。

「マスダってのは、そんなに強いか」

 東京のファンには、木村に半香で戦える七段がいるとは信じられなかったらしい。


(続く)



心に、体力。体に、知力。

ぶりぶりブリッツ



ポナペ島守備隊


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和18年11月。除隊されて1年とたたない升田六段に再び召集令状が来た。このころの升田は木見師匠の内弟子をやめ、知人の家を転々と泊まり歩く「居候」暮らし。20歳で六段に昇りながら、ほとんど将棋が指せずに25歳を迎えた升田の、気持ちがすさんでしまっても当然だろう。

 しかも、今度は内地入営ではない。アメリカを主とする連合軍との、勝ち目のない戦争だ。

 日本は、すでに降伏すべき打撃を受けていた。しかし軍部は、ラジオの大本営発表でウソの情報を流し続け、国民をだまし続けていた。

 升田上等兵に、はなむけの七段位が贈られた。日附けは分からない。

 配属されたのは陸軍の「菊水部隊」だった。早く言えば特攻隊と同じで、最前線へ出る軍である。升田は、生きて日本に帰る日は来ないと観念した。広島の山の中の平五郎原という演習場へ集められた部隊は、実戦用の特訓を受けたあと、広島の宇品港から輸送船(実は仮装巡洋艦)に乗り、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を奇跡的にかわして南太平洋へ出た。目的地のウエーキ島までは行けず、ポナペ島に上陸し、そのまま守備隊になった。

 木の根や草の実、トカゲなどを食って爆撃されないとみたキリスト教の教会の中で生き延びる升田七段は、ひたすら「打倒名人」を思い続けた。空襲のない夜は紙の盤に駒を並べ、過去1勝1敗の棋譜を月明かりで再現した。手を読んだ。負ける気がしない。

 死ぬ前にもう一度、木村名人と指したい。

 月が連絡してくれるなら、通信将棋でいま、戦ってみたい。だめか。

 仮に生きて帰れても、木村さんが死んでいたらどうする。

「木村名人よ、死なずにいてくれ」

 昭和20年8月のある日から、アメリカ軍が爆撃に来なくなった。日本が降伏したのだ。

 生きて、しかしやせ衰えて幽鬼のようになった升田は同年12月末にようやく船で帰国した。神奈川県の横須賀に入港し、窓ガラスのない列車に詰め込まれて広島へたどり着く。噂に聞いた広島市の、原爆(ピカドン)にやられた惨状を見た。しかし山の中の小田村は爆撃も受けず、原爆の直接被害もなかった。なつかしい家の戸口に、ボロボロの軍服姿で立っていた。

「幸三か。ほんまに幸三か」

母がさけんだ。

「幸三、ただいま帰還しました。ユキコはどうしとりますか」

これが升田の第一声であった。

幸子。彼女14歳からのいいなずけで、兵役を終わったら結婚するはずだったが、「升田幸三戦死」の知らせを聞いて、泣く泣く親の決めた男に嫁ぎ、下関に住んで子供がいた。軍国日本では数限りなく起きていた悲話。現姓福河幸子である。


(続く)



心に、体力。体に、知力。

ぶりぶりブリッツ

 



八段昇進を逸す


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


「名人戦」について少し記しておく。初の実力名人決定戦は昭和8年ごろ、当時の将棋連盟顧問だった中島富治氏(元イギリス駐在武官)が中心となって立案し、関根金次郎名人が相談に応じて勇退を決意し、中島が主催社を「毎日」単独と決め、昭和10年にスタートした。

「朝日」とせり合った毎日(当時は東京日日新聞)の学芸部に、愛棋家の阿部真之介氏(のち評論家)と黒崎貞治郎氏(後述)がいて熱心に交渉したのが“独占権獲得の勝因”とされる。当初、中島氏は複数社の共同主催を腹案としていたのである。

 後(おく)れをとった朝日新聞は昭和15年から画期的な「昭和番附編成将棋」を主催していた。形式は相撲番附をまねて横綱・名人木村義雄、大関・八段土居市太郎というふうに成績に応じたランキングを作るものだが、何が画期的かというと、前述のように伝統を破る「四段以上総平手」の実行だった。

 この、略称「朝日番附戦」は当時の上位棋士には困った催しだった。他の新聞棋戦で香落ちや角落ちを指している相手と平手である。負ければ名人でも八段でも「三役」から落ちなければならないのだ。

 大喜びしたのは若手だ。大活躍の松田茂行五段(のち茂役、九段)は“八段殺し”の異名をとった。加藤治郎名誉九段は昭和17年に、七段で西の横綱になった。ところが当時の「関西棋士軽視」はこの棋戦の表を見ても明らかで、本社が大阪にある朝日もおかしいが、最初の番附には、関脇・八段神田辰之助を除き関西在住棋士の名前がない。

 升田六段は昭和18年の第4回に初出場し、関西方の優勝者として、東の横綱、木村義雄名人と対戦した。六段と名人は三段差だから本来は香香角の手合いだが、この棋戦に限り平手の先番。初手合わせの香落ち戦に勝っている升田は身震いして喜び、奇抜な序盤作戦を立てた。

 ▲7六歩△8四歩に、▲7五歩と突いたのである。ご存じ「升田式石田流」の第1号局であった。この棋譜は『升田将棋選集』ほか数え切れぬほど多くの本に出ているが、寄せ損じで、木村の二枚腰にうっちゃられた。「悲運の棋士」と呼ばれるきっかけになった痛恨の一局である。

 すでに昇降段戦で七段昇格は決まっており、この一番で名人に勝てば八段への二段跳びの約束があったのだ。

 戦争中とはいえ、今から思うと“不合理”だらけのプロ将棋界であるが、この二段跳びの約束にしても、名人兼会長の木村が「よし」と首をタテに振れば、反対者も表立っては文句が言えなかったのだ。ちなみに戦後、「現名人は会長になれない」という規約ができたのは木村名人・会長の独裁に懲りたためであると聞いている。

 ここまで書けば、関西棋士たちが「打倒木村」を合言葉にしたもう一つの理由がお分かりと思う。もちろん金銭面の不満だ。昭和16年の東京棋士の月給(基本給)は名人は不明で、八段が300円、七段200円、六段135円、五段100円だったが、升田は言う。

「同じ年代に六段の私が大阪でいくらもらっていたと思う? 25円だよ。125円じゃない。ただの25円」


(続く)



心に、体力。体に、知力。

ぶりぶりブリッツ



弱くなっていた升田


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


昭和17年12月、升田は召集を解除されて大阪の木見八段宅へ戻った。

待ち兼ねていた師匠は、さっそく対局の機会を作ってくれたが、升田は連戦連敗した。

升田は厳しい自己批判をした。

弱くなったのは、心がけが悪かったからである。入隊して以来、自分は一日も早く除隊されて将棋が指せるようになりたいと、そればかり考えていた。実際に対局できなくとも、新聞雑誌で棋譜を見ることができた。消灯後であっても頭の中の盤で手を考えることはできた。それを怠ったのでは、弱くなるのが当然だ。不平不満を抱いた年月では、なにひとつとして得る所がなかったわけだ―。

この苦い体験は、間もなく直面する太平洋戦争従軍の際に生かされたのである。升田の立ち直りは早かった。

……勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからにゃ……進軍ラッパ鳴るたびに瞼(まぶた)に浮かぶ母の顔。


(続く)



心に、体力。体に、知力。

ぶりぶりブリッツ



大山激励の名文


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 5時のラッパで起床、教練、夜9時消灯で就寝。厳しい明け暮れの升田二等兵にも、多少の余暇はあった。愛棋家軍医に目をかけられたのが非常な幸運で、うまい物を食わせてもらえたし、新聞その他で将棋界の様子を知ることもできた。

 大阪では、升田に代わって大山康晴少年がぐんぐん頭角をあらわしていた。三段、四段と順調に昇段を重ね、昭和16年には五段の高段者である。

 名人戦も第3期(神田辰之助八段が挑戦)まで無事に終了したが、日中戦争の最中の16年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争―当時は大東亜戦争といった―の勃発(ぼっぱつ)で、いよいよ国中があわただしくなっていた。

 悠長な2年がかりの八段リーグを取りやめて短期戦の「挑戦予備手合」方式に変更、すべて木村義雄名人が勝ったため、第4期も第5期も7番勝負なしでタイトル防衛が決まった。物資の欠乏で新聞のページ数が急激に少なくなり、将棋欄も縮小の一途となり、やがて廃止されたのもやむをえなかった。

 しかしまだプロ棋界が完全に活動を停止したわけではない。昭和17年には五段以上の全棋士(軍隊にとられていない者)による第四期名人戦予選が行われた。

 19歳の大山五段は、五段戦、六段戦、七段戦を勝ち抜き、「八段戦」に突入してベテラン金易二郎八段に勝ち、次いで“徹夜の神様”斎藤銀次郎八段にも勝つ金星を挙げた。

 これは平手である。昭和15年ごろから「四段以上は総平手」という将棋界三百数十年の伝統を破る棋戦(朝日番附戦)の創設があり、それが戦後の順位戦(総順位決定)という、テニスやチェスと同じ西欧式のランキング戦に結びついて行くことになる。

 升田六段は、広島の兵営で「なるようになれ」の心境でいたが、さすがに、自分の手塩にかけた弟弟子大山の成長はうれしかった。

 たった2行のハガキを書いた。

「斎藤八段をねじ伏せた。天晴(あっぱ)れである」


(続く)



心に、体力。体に、知力。

ぶりぶりブリッツ