升田幸三物語 第27話
「大山激励の名文」
アッパレな
名文である。
軍隊生活3年の空白
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
無敵名人に、早指しとはいえ完勝である。升田六段の人気はますます高まった。
「ひっきりなしにお座敷がかかり、行く先々でチヤホヤされ、使いきれぬほどにご祝儀をもらいました。なにしろ若いですから歯止めがききません。毎晩のように大酒を飲み、有頂天になっとったんだが、こんなバラ色の生活は、1か月と続かなかった」
同年12月、「赤い色のハガキ」が木見宅に舞い込んだ。軍隊への召集令状である。
「広島第5師団本科歩兵第11連隊に入隊を命ず」
待ったなし。いやも応もない。剛気の升田六段も恐らく、ドキッとしたことだろう。
師匠一家や棋士仲間、近所の人達に日の丸の旗を振って見送られ、升田は12月28日に「出征」した。
升田の自伝にはその時の状況が、面白おかしく記されているので一部を引用する。
「私は2年前に急性肺炎で死に損ない、徴兵検査の結果も第2乙種、補充兵だったから早いとこ帰されるだろうとタカをくくっておった。ところが運の悪いことに、軍医のえらいのに将棋の大好きなのがおって、せっかくこんな男が入営して来たのに早く帰す手はない、しばらく将棋を教わって除隊はそのあと、といい出した。そしてヘボ将棋の相手をさせられとるうちに、軍隊の規則正しい生活のせいで、すっかり元気になってしまった。帰すに帰されんというわけでとうとう丸3年間、広島の部隊に居すわらされちまった。ひどい話ですよ、まったく」
升田六段は対木村戦の前に、昇降段戦8連勝その他の好成績をあげ、七段昇格は内定していた。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
ぶり!ぶり!ブリッツ♪♪
新戦法で木村を破る
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
升田は後年、朝日新聞社の永井大三に、
「将棋の神様がいるとして、八段の君とはどういう手合いだと思うかね」と問われた。
「角落ちはまず負けないですよ。香落ちでも、勝てるんじゃないか」と答えた。
当意即妙、すらっと答えるのが升田の魅力だが、将棋をゲームの一つとして理詰めで考える人だったから、そのころ木村に対抗して序盤重視の「理論将棋」を標榜(ひょうぼう)する花田長太郎、金子金五郎両八段の将棋観を学び、共鳴していた。
20歳、六段にして升田は“人間木村”の実力と、実力以上の勝率をあげる盤外戦術、升田流にいえば「ハッタリ」の正体を的確に見抜いていたように思われる。
「東京の八段が木村名人に香落ちで負けるのは、序盤が下手だからだ。△3四銀型に組ませるのがいけない」
この理論が正しいかどうかは別として、升田六段には胸に秘めた一つの新戦術があった。
「絶対に勝ってみせます」
会う人ごとに広言したので、「升田は敵を知らないで、のぼせ上がっている」と眉をひそめる人も多かった。
その日が来た。
清交社のホールは超満員で、人垣に取り囲まれての対局だった。
升田六段は盤外戦でも勝っていたそうだ。
対局の最中に、たもとからミカンを取り出して衆人環視の中でムシャムシャと、いくつも平らげた。コーヒーが出れば名人より先に飲み、タバコも遠慮なく吸った。
「名人に対し誠に失敬」と非難した観客も多かったそうだが、関西びいきの人々は、
「升田、ミカン対局の勝利」
と快哉を叫んだと、樋口金信の著書にある。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
ぶり!ぶり!ブリッツ♪♪
木村名人と初手合い
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
昭和13年4月、晴れて六段に昇る。満20歳になった升田はそれまでと少しも変わらず、木見将棋教室の“塾頭”として内弟子を続けていた。独立を望まなかったのは、間もなく軍隊にとられるのが明白だったからである。日本は昭和12年から中国と戦っていた。
今の棋士でいえば20歳の羽生善治、森内俊之、郷田真隆あたりが「新兵」として軍隊で朝から晩までしごかれていたわけだ。運が悪けりゃ戦場の露と消えるのみ。
しかしまだ敗戦を知らぬ日本。将棋の昭和黄金時代は続いていた。2年で1期の名人戦は、第2期の八段戦(今のA級戦)が行われていたが、関西のホープ升田六段が名人位をうかがう日は、いつ来るものやら分らなかった。
14年夏のある日、升田が稽古先の清交社に出向くと、幹事の紳士から話があった。
「この秋に東京からまた木村名人が来るんや。どうや升田君、一番指してみるか」
夢のようだ。升田は飛び上がらんばかりに喜んだ。
清交社は東京の交詢社、学士会館などと同じ形式の社交クラブで、政、財界や学界の一流人のサロンである。他のクラブの有志と連携し「関西社交クラブ将棋連合大会」が毎年春秋2回開催され、大阪朝日、大阪毎日両新聞社が優勝カップ等を寄贈し、東京から木村名人一行を迎えて席上手合いを見るのが慣例だった。
同年春の大会で升田は、東京の新鋭、梶一郎六段を迎えて対局し、わざと横歩を取らせる新戦術(升田先手)を試み、83手で圧倒していた。この勝利は升田の自信をさらに深めていた。持ち時間2時間半の早指しではあるが、昇段にも関係し、その注目度は、東西対抗という非常に大きな関心が加わって今のタイトル戦公開以上のものがあった。大山康晴ほか戦前派の棋士の戦績にも、この種の席上手合いは公式戦扱いで記録されている。
当時34歳の木村義雄名人は、相撲の大横綱双葉山と並び称される“無敵のチャンピオン”として棋界に君臨していた。八段に半香で悠々勝ち越し、六段とは三段差の香香角というきつい駒割りながら、絶対不利の角落ち番を勝つことさえしばしばあり、ほとんど“将棋の神様”だった。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
ぶり!ぶり!ブリッツ♪♪
関西棋界の人気を独占
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
昭和11年の「四段登龍戦」で初めて上京した升田の対局(全勝)を見ている木村義雄名人は、師匠の木見金治郎八段にこういった。
「大切な弟子ですよ。可愛がってやってくださいね」
満18歳で五段になった升田は、関西のファンの人気を独占する。正確な記録がないのは残念だが、ほとんど負け知らずで、特に香を落とされては不敗だった。「昇降段戦」では連戦連勝し、12年の12月には六段昇格が「内定」した。というのは、残り5局に全敗しても昇段点に足りていたからである。
升田を二枚落ちから指導した兄弟子の大野源一もまた、18歳で五段という天才肌の名棋士であったが、升田を非常な苦手とし、六段当時、七段昇進をかけた一番まで升田五段に負かされ、局後に沈痛な顔で「ワシより先にお前さんが八段になるよ」といった。後年の芹沢博文、中原誠の関係と似て、うまく教え過ぎた(!)兄弟子の悲哀といえようか。
升田の囲碁好きは有名だが、めきめきと腕を上げたのは、少々遊んでも師匠に叱られなくなった五段時代で、アマ有段者だった樋口金信記者はこう記している。
「囲碁では升田五段に師匠格。しかし定石をひと通り教えぬうちに3目から2目、互先と1、2ヶ月間に追い抜かれて舌を巻いた」
その升田が、大先輩の村上真一六段と碁を打って寄せでポカをやり、負けた。「今度またお願いします」というと村上は「いやだわ。お前みたいないっぺんに強くなる奴とはもう打たん」と断ったそうだ。升田は近くの碁会所に通い、玄人の指導を受け始めた。心配した樋口記者が「やめろとはいわぬが、今は将棋が大切な時」と意見をしても効き目はなかった。
しかし他の一流棋士の例を見ても、十代の頭脳の吸収力は無限だから、酒や女に溺れる愚とは比較にならない。実際に関西には棋才を十分に持ちながら大成しなかった遊び好きが多かった。升田や大山のように囲碁に熱中するのは、木見師匠も見て見ぬ振りをしたそうだが、むしろ同じ競技の将棋にはプラスの作用があるように思われる。さらに考えをすすめれば、いわゆる非行防止には、小学生時代から囲碁将棋を教えるのが最も手近な教育法の一環と思う。
升田はそのころ旅回りの将棋指し(多くは真剣師)の間に妙に人気があり、何でも頼みを聞いてやったという。人情にもろいのである。あまり度が過ぎるので、
「升田は頼もしい旅回りの友達が多いから、落ちぶれても食うに困らんだろう」
と悪口が広まった。樋口金信によれば「キ印になったんじゃないか」とまでいわれたそうだが、その詳細は説明されていない。金銭にからい大阪人には、アホなことやっとる、としか映らなかったのではなかろうか。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
ぶり!ぶり!ブリッツ♪♪
座談も天才的名手
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
「学歴」は正しくは「学校歴」だろう。升田幸三は学校歴こそ持たなかったが学歴は十分に持っていた。物事を鋭い目で観察し、短い言葉で考えを表現する人だった。晩年は話が長く、くどくなって周囲を困惑させる場面も多かったけれど升田という人物を知るには、数多く残された、各界一流人との対談を読むに限る。実に座談の名手というべきで、相手はまず例外なくその博識と鋭い風刺、ユーモアに驚いている。
八段に昇った昭和22年、29歳のころから升田は、注目される社会人だった。
順不同で抄録してみよう。『近代将棋』に載ったもので、相手は名高い宗教家の永野鎮雄師。富士製鉄(現新日鉄)社長の永野重雄の弟である。兄弟共に愛棋家で升田ファン。名人戦で大山に敗れた直後の対談だった。
まず永野師が一喝する。
永野 あなたに対して失礼じゃけれども、勝負に徹するということは仏教の立場からいうと、勝負に対して全部をとり込んでゆく姿勢にある。失礼じゃが、それを会得する年輪を加えてほしい。
升田 きょうは仏教から見た勝負の世界をお尋ねしたいと思って。
永野 むつかしいなあ……(笑)。
升田 仏教の世界にも勝負というものがあると思うんですがね。賭けごと的なサイコロ的なことじゃあなくて……。もっとも、テラ銭というのは寺から(語源が)出たらしいな(笑)。
永野 逆襲してきよった(笑)。
(永野の「剣道はやっているか」の問いに、)
升田 このごろは子供に負けますよ。向こうが打ってくるのはいくら強くっても自由自在なんですが、向こうが逃げるとき私が進むと足がコクッといっちゃう。宮本武蔵は28か9で試合やめたというんですが、野山駆けるのはそのころまでですよ。いくら心眼がひらけておっても、何十人という敵相手じゃあ、武蔵も五十づらになっちゃあだめですよ。
永野 年取ると足が参りますね。
升田 政治家を見ましても足が弱ったらダメですねな。いかによく歩いたかが価値じゃあないかと思う。(中略)足の弱い人はダメですよ、失脚いうてね(笑)。
永野 いろんなことを升田先生はよく知っている。それで小学校中退とはね(笑)。上の学校に行ってたらうるさくてしょうがなかったから、丁度よかったかな(笑)。
同じ対談シリーズで中曽根康弘(のち首相)は「今の政治家には貴方のようなご指南役が必要ですね」と、升田の所論に感心している。
また、徳川夢声は、昭和26年の『週刊朝日』の対談で初対面の升田八段の印象を、次のように述べている。
「かねて、ズケズケものをいう人物とは聞いていたが、なるほど大したズケズケ人。こりゃ、随分、誤解もされるだろう」
「彼は広島県人、私は島根県人で、丁度背中合わせのお隣りだが、一体、この地方の人間は毒舌家が多い。そして所謂(いわゆる)“負けん性”なのだ」
(続く)
心に、体力。体に、知力。
ぶり!ぶり!ブリッツ♪♪