升田幸三物語 第22話
「座談も天才的名手」
小学校中退。
でも、
高学歴。
病気との戦い
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
大同病院の医師は「手遅れかも知れない」といった。当時の肺炎は難病だ。故郷広島に電報を打ち、母と長兄が急いで大阪へやってきた。「万一の場合」の打ち合わせがあり、樋口記者は「死亡記事」まで用意していたが、升田は奇跡的に助かった。
ようやく退院した升田は広島に帰って療養したが、今度は黄疸になった。
9月、半年ぶりで升田は木見八段の許へ戻った。このとき師匠は、
「出て来た以上は将棋を指すつもりだろうがまだ顔色が悪い。無理はいかん」という。夫人も「もう少し休みなはれ」といった。
升田が、再度帰郷する気になったある日、木見八段は、
「お別れに一杯やろう」
と酒に誘った。当時流行のビヤホールへ行くと、師匠が意外なことをいった。
「棋士が盤上で倒れるのは、武士が戦場で倒れるのと同じことだ。やってみるか」
升田は、温厚な師匠の激しい言葉にびっくりしたが、打てば響くで、
「指させて下さい」と答えた。
このエピソードは、名伯楽木見八段の真骨頂をよく伝えている。
升田五段はサンデー毎日の棋戦に出場し、松田辰雄五段(のち八段)と、兄弟子大野源一六段を連破した。師匠はニコニコ顔で、
「よくやった。少し休め」とねぎらい、寄付金を集めて、淡路島の愛棋家に升田を預けた。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
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塚田正夫と初手合わせ
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
当時の軍国主義国家日本は、アジア各地で侵略戦争を展開していた。それが将棋界のはやり言葉にもよく反映している。東京棋界の新鋭、塚田正夫、坂口允彦、建部和歌夫は「昭和の三銃士」と呼ばれ、少し先輩の梶一郎は「機関銃小僧」である。「突貫小僧」もいた。小僧とは江戸時代の言葉で天才少年のことだ。
昭和12年の3月、毎日新聞の臨時企画「東西若鷲戦」が行われ、22歳の塚田六段と、19歳になったばかりの升田五段が選ばれ、東京で対戦した。持時間各9時間、2日制。
対局の前日から升田は風邪のような症状で体調が悪く、38度3分の熱があった。そのことを誰にもいわずに対局し、脂汗をかきながらも2日間、残り1分まで粘ったが、塚田の鋭い攻めを浴びて一方的に押し切られた。
「塚田さんに負けたのは病気のせいだけじゃないんだ、ほんとは」
升田作の笑い話らしいが、対局場は東京・赤坂表町の将棋大成会(将棋連盟の当時の名称)本部で、接待に出てきた若い女性が気になって、調子が狂ったというのだ。
「事務をやっていた竹沢主事の娘さんということだったが、お茶を出すのに、塚田さんにばっかりせっせと運んで、僕には3回に1回ぐらいしか出さん。どういう訳かと腹が立って、あとで塚田さんに会ったとき聞いたら、悪かったね、あれが今の女房なんだ、といった」
フィアンセを接待役に使う。塚田流、超高級盤外戦術だったのである。
「二人がかりで攻めてこられては、鬼と呼ばれた升田でも受け切れんわ。フッフッフッ」
初対面の塚田も、升田の身体の異常には気付いていたが、一言も弱音を吐かないので、これは大した奴だと感心し、のちに親交を結ぶきっかけとなったそうである。
惨敗にがっくりした升田は、吉原で遊ぶどころではない。翌朝汽車に乗り、ぐったりした体を座席にあずけ、冷たい窓ガラスに額を押し当てながら大阪へ帰った。
升田の勝ちを信じていた毎日の樋口記者は、敗局の記事をわざと1日遅らせたという。
熱が下がり、少し楽になった升田は、弟弟子の大山初段に棋譜を並べて見せたりしていたが、2日後に、40度の高熱を発して人力車で病院にかつぎ込まれた。急性肺炎だった。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
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全勝して五段に
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
昭和11年に東京の『中外商業新報』=日経新聞の前身=が臨時棋戦を企画した。臨時といっても当時は公式と非公式の区別など事実上ないから、すべての棋士の「対局数」とか「勝率」は絶対に分からないことをお断りしておく。資料不足のせいだけではない。
当時の昇段規定の関係で五段がたった1人(建部和歌夫)しか居らず、四段が多かった。そこに目をつけた新聞が「全四段登龍戦」と銘打ち、東西17人の四段のうち3人を昇段させることになった。
関西の四段は、升田のほか上田三三、神前光三、角田三男、畝美与吉だったが、予選で升田と畝が勝ち、一緒に上京して東京代表の5人と総当たりで対局した。升田は全勝した。大阪で畝に勝っており、東京では樋口義雄、大和久彪(おおわく・たけし)、奥野基芳、島村増喜、松下力を破った。大和久と畝が4勝2敗で、升田と共に昇段した。
「弱い」といわれ続けていた関西棋界にとっては、すばらしい朗報だった。
信じられないような話だが、昭和初期までの対局料は「弱い」大阪方が東京の5分の1だったと聞く。詳しい数字は知らないが、こうした差別待遇が関西の若手を発憤させ、「打倒東京」のスローガンが掲げられていた。
その旗振り役が樋口金信記者で、
「名人位の箱根越え」
という名文句を吐いた。若手を激励する、というようななまやさしいものではなく、絶叫に近かった。今でいえば「阪神タイガースよ、優勝しろ」に相当するだろう。
升田の6連勝のうちで、対松下戦は「ひねり飛車の傑作」としてあちらこちらに発表されている。また、対大和久戦は181手の激戦で、この初手合わせ以後、升田は「ライバルはこの男だ」と思っていたそうだ。
初の東京遠征で全勝した升田は、帰阪して木見師匠に報告したが、
「先生、ついでに吉原という所にも行って参りました」と白状した。師匠は、
「ばか、そんなことは報告せんでよろしい」
と破顔一笑した。
「先生と奥さんが、あんなに喜んで下さったのは生涯ただ一度。その笑顔は今でも忘れませんね」と升田はいう。
『中外商業新報』は、満18歳で五段に昇った升田のイガグリ頭の写真と共に、
「少年名棋士出現!」
と3段見出しで大きく報じているが、本人の談話は風変わりだ。
「今度はあまり自信がなかったが、どうやら勝てた」などと幸運を強調し、
「私は元来大して好きでこの道に入ったのではないので、対局の後などつくづく嫌になることがありますよ」と、少年らしくない感慨を述べたことが記されている。
升田は八段になってから当時をこう振り返る。
「自分ながら将棋が冴えてきたと感じた。従来受け身であったのが、攻撃的に変わり、同時に、長く考えるのがめんどうくさくなって、勘で指して勝っていたのだが、実はそのころすでに身体を痛めていたのである。無茶ばっかりしていたからだ」
(続く)
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阪田三吉翁の激励
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
「升田幸三―谷川浩司の対局が見たかった」
と惜しむ声があるが、阪田三吉と升田幸三の年齢差がちょうどその逆である。
阪田八段は大正14年に「関西名人」を名乗った事件以来、東京方と絶縁し、公式戦に出なかった。端歩突きで名高い「南禅寺」の対木村八段戦で復活したのは昭和12年の2月、満で66歳だから、ずいぶん強情な、永い“冬眠”状態だった。
木見一派は、東京の将棋連盟に属していたため同じ大阪に住みながら、阪田派とは表向き対局が許されなかった。しかし、升田は初段のころに、升田を可愛がっていた藤内金吾六段の昇段披露会に呼ばれ、阪田門下の星田啓三二段と平手の席上手合いを指している。
「阪田さんの噂は、広島におるころから聞いておりました。鬼をもひしぐ名人以上の名人といわれる阪田三吉。さぞかし筋骨たくましい大男だろうと思うとったら、そうじゃなかった。背は5尺そこそこ、目はショボショボしとって……」
その阪田関西名人が、升田少年の棋才と性格に惚れ込んでしまった。
升田が木見師匠の代理で行く稽古先の社交クラブに、阪田翁がよく姿を現した。お稽古が終るのを待って升田に、「最近指した将棋を並べて見せてくれ」という。見終わると「おおきに」と礼をいって立ち去る。そんな交流が何度か続いたある日、
「東京の木村を負かすのはあんたや。あんたの他にはおれへん」
といった。「お前さんの将棋は、大きな将棋や」という。「神田も強いが木村には敵わん。木村はんを倒すのはあんさんや」
特に、星田二段との対局で、自陣に▲1八角と打った手をほめた。
「あの角は初段の角やない。八段の打つ角や」
しかし阪田翁は、講評めいたことは一切いわなかった。本当は“講評魔”のような人で、対局中に相手の指した悪手を講評してしまったという珍談を持つくらいなのだけど、「木見さんの弟子」の将棋にあまり口出ししてはいかんと、ケジメをつけていたらしい。
一度だけ、木見師匠に内緒で阪田翁の稽古先へ同道した。京都の毛皮商、家村喜三郎というアマ五段なのだが、升田の香落ちで、中盤で家村氏にミスが出た。そこで阪田翁が「うーん」とうなった。家村氏はすぐ気付いて、「阪田先生ならどう指しはりますか。ここから代わって指してみとくんなはれ」ということになり、なんと阪田翁が下手方を持って指し継いだ。
生涯一局も指す機会はなかったが、研究というか座興というか、とにかく「半局」だけ(年月不明)京都で指している。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
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実力名人戦始まる
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
昭和10年に、関根金次郎13世名人の英断により、それまでの終生名人の制を廃し、画期的な「実力名人戦」が創設された。
ただし、さらに革命的な「順位戦」や「四段以上総平手」の制度が生まれたのは、戦後の昭和21年である。
第1期の名人戦は、当時の八段の中から誰を次の名人にするかという争覇戦で、参加者は7人だった。
升田の恩師木見金治郎は、とっくに指し盛りを過ぎた
57歳だったが、阪田三吉が参加しないので関西ただ
一人の八段として“髪を染めて”参加した。
結果は、東京生まれで関根門下の木村義雄が優勝し、第1期名人が決定した。
関西ファンの期待は、まだ参加資格のない神田辰之助七段に集まっており、彼の八段昇格問題から、第1期名人戦進行中に将棋連盟が分裂する騒ぎも起きたが、升田幸三には直接かかわりのない話なので割愛する。
昭和10年には、これまた史上初の「第1回素人将棋選手権大会」が行われた。今のアマチュア名人戦の前身で、千葉県の長谷川清二郎初段(のちプロ入りして七段)が優勝した。
この第1回の全国大会は大阪の毎日新聞社で行われたのだが、関根名人をはじめ、そうそうたる高段者(五段以上をこう呼ぶ)の居並ぶ講堂で、観客を前に、地元代表の熱戦譜の大盤解説をやったのが他ならぬ升田だった。
どういう理由で17歳、三段の若者が選ばれたのかは知らないが、升田三段の解説は、
「早見えのすること、正確なことは、多数の高段者を驚かせた」
と毎日新聞の名人戦観戦記者、樋口金信が記している。
もし―昭和初期の将棋界が今と同じ制度であったと仮定すれば、升田は、十代でタイトルを取っていただろう。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
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