升田幸三物語 第17話
「実力名人戦始まる」
恐るべき17歳、
ここにあり。
兄弟子を怒らす
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
升田の“毒舌”が事件を起こした。
ある日、木見道場で角田四段と升田三段が盤を並べてお客さんに稽古をつけていた。角田が長考して一手指すと、横で升田が、
「カロラ(角田の愛称)はんは考えるほど悪い手を指す」
とつぶやいた。
今では少し違うが、将棋界では上位者の指した手を批判するのは法度である。升田も「あれは絶対に僕が悪かった」と失言を認めているが、カッとなった角田は、じろっと升田をにらみつけ、階下へ行って木見夫人に升田の非礼を訴えた。
“淀君”と呼ばれていた気丈な夫人は、
「それぐらい、かまへんやないか」と答えた。「それやったら、なにも言われんような手え指したらええやないの」とつけ加えた。
角田は階段を駆け上がり、升田の顔面にポカッと一撃を食わせ、それっきり家を出て帰って来なかった。棋士をやめようとまで思ったそうだ。角田は当時としては珍しい、五年制鳥取中学出の“インテリ棋士”だったし、いろいろと悩みの多い時期だった。
すでに升田三段の実力は角田を抜き、筆頭弟子大野五段に接近していた。大山は「升田さんが盤に向かって研究している姿は、ほとんど見なかった」という。升田は、棋譜でも詰将棋でも、本を片手に、頭の中の盤で考えたのだ。
序盤の指し方に新工夫が加わってきたのは四段あたりからだろう。好きな棋士は、伊藤宗看名人(三世)、大橋柳雪、天野宗歩。明治の棋士の中では阪田三吉の影響を受けたと升田はいっている。上記4人の名棋士は、いずれも、その時代における「型破り」すなわち新手の開拓者と評価されている。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
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大山少年の入門
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
“倉敷の天才少年”大山康晴が父親に連れられて、大阪の木見金治郎八段宅へやって来たのは昭和10年(1935)の3月だった。
升田少年は家出をし、広島から流浪の末に大阪へたどり着いたのだが、大山少年の場合は大違いで、家族や、故郷西阿知町の人々に祝福され、盛大な(200人という)見送りを受けて出発している。
「細い縁のメガネをかけて、小柄でひ弱そうな子供だった」
と升田は述懐しているが、5歳下のこの子が、後年自分の最強の敵になろうとは、思いもしなかったろう。
物書きにとって現行の「満年齢」は厄介で、升田は大正7年3月21日生まれ、大山は12年3月13日生まれ。入門は3月14日なので、大山が12歳、升田は16歳である。
「兄弟子のうち大野さん(源一五段)と角田さん(三男四段)は年が離れていたので、兄弟弟子の感じを持てた強い人は升田さんだけだった」と大山はいう。
升田は「これで雑用が減って助かる」と喜んだ。女中代わりにやらされていた使い走りや掃除などを、明日から新弟子にやらせればいい。
大山少年は「プロ5級くらい」と思われていたので、入門の翌日、二段の升田が角落ちで試験将棋を指したが、手合い違いだった。
「角で3番棒に負かした。形はいいが力がない。習った将棋だな、とすぐわかった」
升田が強過ぎたともいえるが、実力差は二枚落ちに近かった。
「棋力に格段の差があったから、よく教えてくれたし、叱りとばされるときも多かった。田舎へ帰れ、とよくいわれた」と大山。
升田が大野に鍛えられたように、大山は升田の特訓を受けてぐんぐん強くなる。
あるとき大山少年は、将棋好きの床屋の主人に「強うなったか」と聞かれ、「升田さんに飛車落ちならもう負けない」と答えた。
後日床屋でこの話を聞いた升田は、帰宅するなり「大山」と声をかけ、
「稽古つけてやる。今日は指しおろしでいこう」
と宣言した。一番手直りのことである。升田は飛車落ち、飛香落ちと負かし、半泣きの大山を二枚落ちでも負かしてからこういった。
「今の棋譜、覚えとるだろう。大阪の升田とかいう弱い二段に飛車角落ちで負けました、いうて棋譜持って田舎へ帰りなさい」
「弱い二段」がミソで、升田のものの言い方は若い時からこんなふうだった。威張りの裏返しでユーモアがあるのだが、聞きようによっては、ひどく底意地が悪いようにも受け取れる。
「兄弟子の大野さんに何度も浴びせられた言葉だよ、田舎へ帰れ、いうのは。まあ、木見一門の新弟子が受ける洗礼のようなものです」
この年、大阪にも「新進棋士奨励会」ができた。木見一門を後援する田中房太郎という旦那がスポンサーになり、それまでばらばらだった三段以下の段級を統一したのだが、升田は「強過ぎるから」入れてもらえず、数少ない新聞棋戦の成績だけで昇段した。8月に三段、翌11年4月には異例の早さで四段に昇った。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
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お世辞負けはしない
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
晴れて棋士になった升田少年は、師匠の代理で、上流人士の集まる大阪・堂ビルの「清交社」へ稽古に行っていた。ところが若先生は、他の棋士と違って少しも緩めて指さない。びしびしとお客さんを負かした。
中には天狗もいて、「平手で」と挑戦してくる。そうすると升田は「では僕の先手で」と応じ、▲7六歩△3四歩の次、▲2二角成と角を交換し、その角を駒台には置かず、着物のたもとに放り込み、使わないで勝ってしまう。
「そんなこともやったな。相手のおじさんは僕が角を使うかも知れないと思っているから、余計びくびくして、すぐ負けてしまう」
ここにも升田の信念が見られるのだ。
将棋が強いからこそ、先生と呼ばれて招かれている。お上手に負けるのは不徳である。だから、形勢が不利になると升田少年は長考した。駒を落としていても、盤に向かえば升田にとっては「真剣勝負」だった。
負かされっぱなしの紳士たちは、稽古日に升田少年が下駄を鳴らして入ってくると、
「おう、道場破りが来たぞ」
と大声で笑って拍手で歓迎したそうである。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
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大駒落ちは不敗
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
升田が満15歳で入段した昭和9年には、将棋連盟の手合い割の改訂があり、江戸時代から「六段差飛車落ち、四段差角落ち」であったのを、「七段差飛車落ち、五段差角落ち」と改めた。むろんアマ・プロ共通で、アマには30級まであった。
木見八段が関西支部長として阪田派に対抗していた関係上、土居市太郎八段をはじめとする関東在住の棋士が、テコ入れのためしばしば来阪し、新聞将棋を指した。
師匠が満を持していただけあって、升田は強かった。東京から来た「強い六段」でも、関西のヌシみたいなベテランでも、升田との角落ちは「手合い違い」だったらしく、公式記録などないが、初段二段時代の升田は、大駒落ちではほとんど不敗だたと聞いている。
初段時代の棋譜が残っているのは、東京の飯塚六段との角落ち戦1局だけらしい。下手が矢倉で完勝したその棋譜は、升田選集や自伝などのほか、あちこちに紹介されているが、二段に昇っての第1戦(対近藤孝二段戦)と共に巻末に掲載した。
近藤孝二段は在阪棋士。中途で棋界を去っているが、東京生まれで当時20歳くらい。定跡に明るく器用な将棋を指した。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
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初段に昇った喜び
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
兄弟子の大野源一五段に、やっと飛車落ちで勝てるようになり、角落ちに手合いを直してもらった。「初段になれそうだ」と自信がついて来た。
「おう、来たか。ほい、これ」
昼間から長火鉢の前でオミキをちびちびやりながら、温顔の木見八段は一枚の紙を投げてよこした。「なんですか」と受け取って、升田は胸がつぶれそうになった。
〈対局通知〉〈中国民報勝継戦〉〈六段飯塚勘一郎〉〈角落〉〈初段升田幸三〉
顔を上げて師匠を見る。
「升田。お前は今日から初段だ」
ハッ、と幸三は頭を下げた。
こんなにうれしかったことはない、と述懐している。念願の専門棋士になれたのだ。
当時まだ「奨励会」の制度はなく、大阪の棋士志望者は、師匠=派閥のボス=から段級の査定を受けていた。また、今と違って初段から専門棋士として公式戦に出る機会が与えられた。ただし「総平手」などは誰も考えもしない時代で、段差による駒落ち制が続いていた。初段の升田が何局指して二段に昇ったのか不明であるが、「ほとんど、負けた記憶がない」そうだ。
当時の関西棋士には、好きが高じた中年からの転向組が多く、そのため東京方からは「関西は弱い」となめられていた。御大・木見八段自身も神戸の屑鉄商寺岡商店との兼業で、阪田三吉などには「あんな弱い八段、見たことない」と大っぴらに馬鹿にされていたのだ。
「やはり子供の頃から修業させなければ」
と気付いていた木見金治郎は、副業にうどん屋を開くなど、大変な苦労をしながら、大野源一(のち九段)を手始めに多数の内弟子を育てていたのである。ただの「お人好し」ではなかった。実子を亡くしていたので、升田少年を養子に、と考えたこともあったらしい。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
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