大山少年の入門
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
“倉敷の天才少年”大山康晴が父親に連れられて、大阪の木見金治郎八段宅へやって来たのは昭和10年(1935)の3月だった。
升田少年は家出をし、広島から流浪の末に大阪へたどり着いたのだが、大山少年の場合は大違いで、家族や、故郷西阿知町の人々に祝福され、盛大な(200人という)見送りを受けて出発している。
「細い縁のメガネをかけて、小柄でひ弱そうな子供だった」
と升田は述懐しているが、5歳下のこの子が、後年自分の最強の敵になろうとは、思いもしなかったろう。
物書きにとって現行の「満年齢」は厄介で、升田は大正7年3月21日生まれ、大山は12年3月13日生まれ。入門は3月14日なので、大山が12歳、升田は16歳である。
「兄弟子のうち大野さん(源一五段)と角田さん(三男四段)は年が離れていたので、兄弟弟子の感じを持てた強い人は升田さんだけだった」と大山はいう。
升田は「これで雑用が減って助かる」と喜んだ。女中代わりにやらされていた使い走りや掃除などを、明日から新弟子にやらせればいい。
大山少年は「プロ5級くらい」と思われていたので、入門の翌日、二段の升田が角落ちで試験将棋を指したが、手合い違いだった。
「角で3番棒に負かした。形はいいが力がない。習った将棋だな、とすぐわかった」
升田が強過ぎたともいえるが、実力差は二枚落ちに近かった。
「棋力に格段の差があったから、よく教えてくれたし、叱りとばされるときも多かった。田舎へ帰れ、とよくいわれた」と大山。
升田が大野に鍛えられたように、大山は升田の特訓を受けてぐんぐん強くなる。
あるとき大山少年は、将棋好きの床屋の主人に「強うなったか」と聞かれ、「升田さんに飛車落ちならもう負けない」と答えた。
後日床屋でこの話を聞いた升田は、帰宅するなり「大山」と声をかけ、
「稽古つけてやる。今日は指しおろしでいこう」
と宣言した。一番手直りのことである。升田は飛車落ち、飛香落ちと負かし、半泣きの大山を二枚落ちでも負かしてからこういった。
「今の棋譜、覚えとるだろう。大阪の升田とかいう弱い二段に飛車角落ちで負けました、いうて棋譜持って田舎へ帰りなさい」
「弱い二段」がミソで、升田のものの言い方は若い時からこんなふうだった。威張りの裏返しでユーモアがあるのだが、聞きようによっては、ひどく底意地が悪いようにも受け取れる。
「兄弟子の大野さんに何度も浴びせられた言葉だよ、田舎へ帰れ、いうのは。まあ、木見一門の新弟子が受ける洗礼のようなものです」
この年、大阪にも「新進棋士奨励会」ができた。木見一門を後援する田中房太郎という旦那がスポンサーになり、それまでばらばらだった三段以下の段級を統一したのだが、升田は「強過ぎるから」入れてもらえず、数少ない新聞棋戦の成績だけで昇段した。8月に三段、翌11年4月には異例の早さで四段に昇った。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
ぶり!ぶり!ブリッツ♪♪