升田幸三物語 第12話
「初段に昇った喜び」
ついに来た。
夢にまで見た「対局通知」。
酒は6歳から呑んだ
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
後年の升田は、酒と囲碁を専ら楽しんだ。酒は、将棋よりも早く味を覚えた筋金入りの呑ん兵衛だし、飲んでも顔に出ない。対局中にちょっとひっかけても、相手が気付かないほどだったが、「やっぱり、そんな心掛けじゃ負けるわ」と聞いたことがある。
「両親ともに酒好きだったね。私の6歳の田植時分に、手伝いに来ていた親戚の者が、湯飲みに酒を入れて、ほい、水、といって渡したのをガブッと飲んでしまった。うつらうつらと夕方まで寝てしまったんだが、血統なんですな、それからというものは親父の晩酌の匂いをかぐとたまらなくなり、ひそかに台所の棚から一升徳利を引き下ろして飲んだ。しょっちゅうやっていたんだ」
この素質は「木見道場」でも発揮された。師匠や来客に酒を出す時、運ぶ係の幸三少年は階段の上あたりで用意のコップに注いでたくみにちょろまかし、一気に飲んだ。酒好きで温厚な木見師匠は見て見ぬふりをしていたようである。
木見金治郎八段の俳句が残っている。
指かけにして夜桜に浮かればや 木金
升田の青年時代の酒量は相当なもので、飲み始めれば軽く2升、3升をあけた。飲むほどに舌がなめらかになるけれど、晩年のように毒舌をほしいままにするわけでもなく、決して乱れなかったそうだ。
「対局の前の日は、ぐっと控えて5合。というのは表向きでね、やっぱり、飲み始めたら1升じゃ物足りんのだわ」
バクチにはのめり込まなかった。花札、サイコロなど、一通りは心得ていたが、
「運に左右されるものは勝負じゃない」
と少年時代から主張していた。ゆえに麻雀、競馬、競輪、パチンコなどの遊びは試してはみたが、終生好きになれなかったのだ。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
ぶり!ぶり!ブリッツ♪♪
道で転んで悟る
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
初段に昇れぬまま、昭和9年を迎えた。
正月のある日、幸三少年はトウフを買いに行った。道路は凍っている。素足に下駄ばきの幸三は、鍋にトウフを2丁入れての帰り道、足を滑らせて転倒した。買い直しに行く金もないからそのまま帰宅し、口やかましいふさ子夫人に厳しく叱られた。
「使い走りも満足にできんもんが、何が将棋や、アホ」
幸三はハッと気付いた。そうか。おれは、トウフを買いに行きながら別のことを考えておった。なぜあんな将棋を負けたんだとか、頭は雑念で一杯。そのために足許がお留守になってコケた。そうだ、トウフを買いに出かけたら、その目的だけに心を集中せにゃいかん。
この「悟り」の話は決して後年の講演用ではなく、昔のエピソード集にも出ている。
その時以来、幸三の持ち前の集中力が発揮され始め、不平不満も消えて行った。将棋にも没頭できた。
「面白いもんで、心を集中する習慣が身につくと、いっぺんに二つの仕事ができるようになるんだな。2階で先輩が対局しておる。僕は庭で洗濯しておる。頃合いを見計らってお茶をいれに行くんだが、その時、神経を集中して盤面をにらむ。局面を頭に焼き付けるわけだ。そして洗濯を続けながら将棋の変化を読む。これを繰り返しても、決して洗濯の手がおろそかにはならんのです」
升田は、学校にこそ行かなかったが相当な読書家であり、物事の核心をつかむのが早かった。たとえば他人の将棋を見ていても、古典詰将棋を解いても、丸暗記ではなく、急所をしっかりと捉える能力が発達していた。恐らく読書のスピードも抜群の早さだったろう。
(続く)
心に体力、体に知力。
ぶり!ぶり!ブリッツ♪♪
内弟子生活の哀歓
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
幸三少年は、憧れの「木見八段将棋所」に住み込み、女中代わりの使い走りや食器洗い、掃除、洗濯をやらされながら、たまに兄弟子たちに稽古をつけてもらった。クリーニング屋に勤めた経験が役立ち、重宝がられた。
兄弟子の大野源一が入門したころは、まだ将棋だけでは生計が立たず、伏見町で「大音(だいおん)」といううどん屋を兼業、大野が出前持ちをしたこともあったが、この老松町では稽古先もふえ、東京生まれでひょうきん者で、しかも将棋の強い大野五段がよく働いて「将棋所」を支えていた。升田は、小柄で色の黒い大野を、自伝で「チビクロ」と呼んだりしているが、事実上の師匠である。大野の晩年まで最大の敬意を表し、親しくしていた。
大阪での暮らしは楽しかったが、田舎将棋の幸三は筋金入りの大野(7歳年長)には飛車落ちでも容易に勝てず、よく「田舎へ帰って百姓した方がよさそうだな」とからかわれた。入門当時の升田は粗雑な攻め将棋で、後から入門した丹後利一郎(堺市の人)にも勝てず、「先に入段されて悔しかった」といっている。
当時、大阪の将棋界は分裂していた。日本将棋連盟に属して大阪支部長となっていた木見八段よりも、大阪朝日新聞の後援を受けて“関西名人”にまつり上げられていた阪田三吉の方がずっと羽振りがよく、木見門下から神田辰之助七段、村上真一六段、中井捨吉、小林慶之祐両五段といった精鋭が阪田派に走り、大阪毎日新聞を後盾とする木見派は、子飼いの大野五段のほかは、セミプロ級の年輩棋士ばかりの頼りない陣容だった。
それだけに、角田三男や、新入りの升田に対する後援者の期待は大きかったのである。ところが、御大・木見八段は無類のお人好しで楽天家。アマチュアの指導はするが、夜になると悪友を集めて、酒を飲みながら花札遊びを始めたり、大好きな中将棋(駒数が92枚もある)を指したり、チェスや中国象棋で遊んでいる。何を考えているのかわからない人だった。
雑用ばかりで、思うように将棋も指させてもらえぬ幸三少年は、師匠をうらめしく思ったり、大野に負かされて「田舎に帰って百姓せい」と毒づかれたりすると、ふてくされ、もんもんとした日々もあった。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
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木見八段の内弟子に
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
昭和7年6月、幸三少年は大深先生の紹介状を懐にして、単身大阪へ旅立った。
「下着一式、上着とズボン、ベルトに靴、70銭でこれだけ揃った。ベルトは一見革のようだが、なあに、紙をヨッたのに色を塗ったんで、濡れたら溶けちまう代物。それでも意気は天を衝くほどに高く、広島発、東京行の夜行列車に乗り込んだ。記念すべきわが旅立ちの日は、6月の29日。家出した日からちょうど5か月が過ぎとりました」
早朝、うとうととしていて乗り越し、京都で降りてあわてて駅員に訳を話し、タダで大阪まで戻してもらうという失敗もあったが、升田らしいエピソードは大阪駅に降りてからのこと。
木見八段の家は、駅から歩いてすぐの北区老松町(現在の西天満)にあったが、14歳の幸三は人力車で玄関に乗りつけたのである。
「老松町のモクミちゅう家へ行くんじゃ。えらい将棋の先生じゃが、わかるか」
「へえ、知ってま。まかしときなはれ。乗った、乗った」
幸三は、早口の大阪弁に驚いた。車賃は40銭と聞いて安心したが、キミをモクミと間違えているのに、調子のいい車夫は知ったかぶりをしてどんどん走り、近辺で「モクミはんの家はどこや」と聞いて回るがわからない。やっと表札を見つけてたどり着いた。
余談だが、木見師がまだ若いころ花見に出かけた。七段の矢野逸郎が「おい、きみ」と呼んだところ、木見門下の小林慶之祐少年が「うちの師匠を呼び捨てにするとは何だ」とカッとして矢野七段をぶんなぐった。「君」というモダンな呼び方を小林は知らなかったのだ。矢野七段も大笑いして許したそうである。
さて幸三少年が人力車で乗りつけると、女中が出て来て、「うちはキミだす。モクミと違いまっせ。あんさん、どこの子」などと、うさん臭そうに尋ねた。態度のでかい女中だな、と思ったらその人は“淀君”と畏敬されていた木見夫人のふさ子だった。幸三はあわてて大深五段の紹介状を差し出した。
入門試験手合わせは、内弟子の角田(かくた)三男二段に飛香落ち、大野源一五段に二枚落ちで、ほぼ互角であったらしいが(勝敗については伝記に食い違いあり)、幸三は入門を断られるのではないかと心配だった。初めて、本当のプロと対戦してドキドキしていたのだ。
しかし、ふさ子夫人の一言が、幸三少年をほっとさせた。
「あんたも早う、大野みたいになりや」
入門が認められた。木見八段は終始、にこにこして見ているだけだった。
ところで、大深五段からはとっくに依頼状が届いていたのに「なんで今ごろまで、のそのそしとったんや」と夫人に訊かれた。幸三は旅費や身支度の金を稼ぐのが大変だったと正直に身の上を話し、大笑いされた。
(続く)
心に、体力。体に、知力。
ぶり!ぶり!ブリッツ♪♪
大深五段に会う
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
「名人に香車を引く……」と勇ましく書き置きをして家を出たものの、14歳の少年には、なんの手づるもなかったのだが、広島市の将棋大会出席が機縁で、地元の大深孫市五段の目にとまった。中国地方の「名人」である。
大深氏は市内下柳町で骨董商を営むかたわら「将棋指南」の看板を掲げていた半玄人で、東京の関根金次郎名人や土居市太郎八段、大阪の木見金治郎八段らと交際があった。
西南戦争の時、19歳で、薩軍に刀を売って大儲けした商人だったというから、数えで76歳くらいの老人だった。
「幸三君が私のところへ来たのはまだ15歳(数え)の春でした。見込みがあるかないか指してみてくれというので二枚落ちでやったところ、あれの方が7戦4勝しました。(中略)木見さんにいってやると、君が見込みがあると思えばよこせ、というので、弟子入りさせたわけです」
骨董品店の店先で大深老人は幸三に訊ねた。
「何段ぐらいになりたいか。広島の出身で、村上真一ちゅう六段が大阪におるが、あれくらいか」
「いや、もうちっと上じゃ」
「すると八段か」
「いや、日本一になりたいんじゃ。名人に香を引いて勝ちたいんじゃ」
というような問答があった。大深老人はカラカラと笑って、それでは大阪の木見八段に紹介してやろうと約束した。木見八段は以前、たった一晩お世話をしただけなのに、もう10年以上も年の瀬になると大阪名物の昆布を送ってくれる。「こんな義理堅い将棋指しはほかにおらん」と人柄をほめていたそうだ。
喜んで、住み込み先のクリーニング屋へ帰って主人夫婦に話すと、大反対された。
「将棋指しなんて、ホイトも一緒じゃ」というのだ。ホイトとは広島の方言で乞食のことである。「そんなものは諦めて、うちの養子になれ」と諭された。
当時の社会情勢からすれば、クリーニング屋のいう通りで、後年升田自身も「浮浪児を養子にしようというのは、この上もない好意だった」と認めるのだが、自分が「この道」と決めた将棋指しのことを、ホイトと一緒にされては、頭に血が上った。そのまま、給料ももらわずに荷物をひっつかんでクリーニング屋をとび出してしまった。
大正時代の話だが、高浜禎という大阪の六段が棋界の堕落を嘆き、
世の中にいらぬは蚤と将棋指し
とまってのんで夜も寝かせず
と詠んでいる。元歌は将棋指しでなく俳諧師なのだが、田舎回りの怪しげな“棋士”の中には専門家の名を詐称したり、金持ちから賭けで大金を捲き揚げ、ペロリと舌を出して暮らす手合いが多く、泊って飲んで徹夜で真剣を指すような輩が、実直な人たちから「ホイトじゃ」と軽蔑されたのも故なしとしない。大山15世名人が文化功労者に選ばれる現代から思えば、ウソのような時代であった。(※本書「升田幸三物語」が日本将棋連盟から出版されたのは、平成8年。)
(続く)
心に、体力。体に、知力。ぶり!ぶり!ブリッツ♪♪