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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。


クリーニング屋


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 


口入れ屋という商売は出稼ぎ人相手の職業紹介所で、関西では軽蔑して「クニュー」と呼ぶ。幸三少年はその紹介所で住み込みの小僧の口を世話してもらった。広島市胡町の「三舛屋」という料理屋だった。

 少年時代の姓は「舛田」と書かれている。どちらが正しいかご本人にも分からぬ(昔の戸籍はそれ自体、いいかげんだった)という話も聞いたが戸籍上は舛田である。なにせ、将棋をやりたい一心の家出だから、料理屋の皿洗いや出前持ちが無事に務まるはずもない。出前に行っても、人が将棋を指していると何もかも忘れて仲間に入れてもらった。

 幸三は転々と職を変え、やっと腰が落ち着いたのは、天神町の氷川というクリーニング屋だった。子供のない夫婦で、家族同様に住まわしてくれたからである。

 家出してから1か月が経過していた。やがて幸三は満14歳になる。この年の6月、広島市のNHKの近くの下流川町に将棋会所が出来た。その開店記念大会に、勇んで参加した幸三は、当時の6級くらいの手合いで指して勝ちまくり、7勝して3等賞を得ている。

 巻末の棋譜(対大西喜三郎二段・飛落)は、『芸備日日新聞』の将棋欄に6月22日から連載されたものを、呉市の呉市立図書館のご好意により発見し、升田九段に見て頂き、朝日新聞社の『升田将棋選集』=昭和60年刊、全5巻=に収載したもので、アマチュア時代唯一の棋譜となっている。

 升田は、若手時代の棋譜を、本当はかなり集めていた。ところが、第二次世界大戦で軍隊に召集された時に、兵庫県淡路島に住む後援者にまとめて預けたのが、終戦後に紛失したという話だった。筆者はこう言われた。

「将棋指しは将棋を指して勝つのが仕事。その棋譜をしっかり保存するのは、新聞社や連盟の仕事だろう。今から探しても、出て来んというはずがない」

 これは無理難題だった。戦前から今に続いている新聞社だって、終戦直後の混乱期に自社の発行した新聞を、満足に持っていないことがあるのだ。この事実を知ったとき、戦争とはいかにひどいものかをあらためて認識した。


(続く)



心に、体力。体に、知力。

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広島市を放浪


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用

 

 幸三少年はほとんど無一物で家出を決行した。目指す広島市までは13里(約50キロ)ある。鉄道はあっても懐に金はない。途中にも広島市にも、頼る人とてない。夜明け前に家を出て、速足で歩き始めたのだ。むちゃくちゃな行動だった。

 夕暮れ時に広島の一つ手前、横川という駅までたどり着いた。幸三は、駅前の広場に夜店を見た。古本屋、植木屋などと並んで、大道詰将棋の人だかりがあるのを発見した。

 昭和初期、大道詰将棋という商売は別にうさん臭いものではなかった。警察が取り締まったり見て見ぬふりをするということはない。夜店の景物として全国の市町で数え切れぬほどの店が繁盛していた。問題も、江戸時代の名作がそのまま出題され、たとえば、飛の不成とか、香の王手に対して飛や銀や桂の中合いを放って逃れる筋の短編が用いられる例が多かった。

 幸三は、将棋の駒を見ると空腹も足の疲れも消し飛んでしまった。問題には見覚えがある。攻め方が、打ち歩詰めを打開するために、中合いの歩を「同飛不成」と取る一手がミソだ。

 客の一人が「同飛成」と指して失敗し、金50銭也を支払って口惜しがるのを見た。

 詰将棋屋は、手出しが途絶えると、みすぼらしい身なりの幸三に声をかけた。

 幸三はすでに13手で詰むのを読み切っていた。というより、知っていた。間違えて金がなくてどうなる……という不安などない。

 詰将棋屋の親父は正解を指されて驚いたが、約束通りに賞品の棋書と駒とタバコ2個をよこした。少年はすでに、放浪の知恵を身につけている。それは幼い時に父から習っていた。

 賞品はいらんから50銭で引き取ってくれんか、と交渉した。

 その金で安食堂へ駆け込んで腹一杯に食い、残った金で木賃宿へ泊った。

「一皿15銭のハヤシライスを食ったんだが、いや、うまかったなあ。こんなうまいもんが世の中にあるかと思った」

 木賃宿のふとんには、シラミがいた。シラミとつき合ったのはこの時が初めてで、なぜかゆいのか、訳が分からなかった。翌日も、夜店の詰将棋で勝ってしのいだが、仏の顔も三度とやら、親父は「もうお前は来るな」と小僧を邪魔にした。

 幸三に「広島市へ行けば、何軒も出とる」と教えた人があり、家出3日目に少年は広島市へ行った。横川と同じように詰将棋屋から銭をせしめて、その日のメシと宿にありついた。当時の木賃宿は、朝飯付きで20何銭かであったという。


(続く)



心に、体力。体に、知力。

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棋士を志して家出


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用

 

数えで15、満でまだ13歳だった昭和7年の2月、幸三は家出をする。

 足が完治してからも、いったん発した将棋熱は冷めず、学校などまったく頭にない。来る日も来る日も将棋、将棋だったが、肝心の母が、

「将棋指しになりたい」

と言う幸三を、広島弁で

「いけん」

と叱った。

 現代とは全く事情が違う。いくら兄たちが説いても、働き者の母、カツノは「将棋指しなんて、バクチ打ちと同じじゃ」と思っている。大都会はともかくとして草深い田舎の主婦が、我が子を棋士にすることに賛成するはずのない時代であった。賢い人だっただけに、

「こんな田舎で、大人に勝つといったってたかが知れたもの」

という冷静な判断もあったろう。また、夫が夫だったから、この上、息子まで勝負事をやるようになってはとても身がもたん、という嫌悪感もあったはずだ。

 しかし、口ではきっぱり反対しながらも、母には「もしや」という、幸三の出世を願う心もあったに違いない。

 後年、吉川英治や画家の梅原龍三郎が升田の顔を「奇相」と言っているが、幸三が生まれた時に、親族の一人が占った。

「この子は大変な奇相だ。釈迦とキリストとソクラテスと、3人を合わせたほどの運勢を持っておる」

 父母、兄弟は細面で、典型的な大和民族の顔である。「釈迦とキリスト……」は伝説的作り話ではあるまいかと思うけれども、筆者の知る限り、升田そっくりの人はいない。世にも稀な容貌である。俗に言うと「三白眼」だが、人相学上では「鳳(ほう)眼」と呼ぶ、英雄の目だと聞いたことがある。

 一家は出世の望みを託して、幸三(こうそう)と名付けた。この期待は、幸三少年に伝わっていたはずである。

「自分は、いいかげんな気持ちで家を出るんじゃない。固い決意を持って出るんだ」

 将棋一途の少年は、家出を決行するにあたって、母のいないすきに、母が毎日使っている3尺の竹の物差しの裏に書き置きをすることを思い付いた。

「この幸三、名人に香車を引いて勝ったら大阪に行く」

と書いた。「勝ったら」では意味をなさないではないか、と作家の藤沢恒夫は、升田伝の中で「勝つため」と修正している。升田自身は、「勝ったら、と書いてあり、他の文句はすべて誤りである」としているが、静尾夫人の持つその物差しには公開しにくい秘密がある。後年、実妹が、藤沢説に合わせて上から書き直してしまったらしい。とすれば、女手に見える。

 当時の幸三は(一般人は今だってそうだが)「将棋名人」=日本でただ1人=の特別な意味を正確に理解せず、武芸の如く各地に名人、達人がいて、広島市にもいるに違いないと思ったようだ。まず広島を制覇し、次に大阪名人を倒す、という意味であろう。

「伝説」はそのままにしておきたいと今日まで考えていたのだが、あえて自説を記す。

 幼いながら、幸三は長兄の指導を得て、「実力13段」あるいは11段と称された幕末の棋聖、天野宗歩七段の伝と棋譜を知っていた。それならば、日本一の名人(当時は関根金次郎)に対して香車を引く、すなわち実力11段以上の強い棋士になってやろうという発想は、ごく自然に浮かぶはずである。

 以上の理由で筆者は藤沢恒夫説を結果的正解と見ているけれども、正直な升田は、実物の物差しが残っている以上、嘘は言えないと思い、自伝に「当時の心境がどんなだったか、残念ながらまったく覚えておらんのです」と言い訳めいたことを記しているのだと思う。


(続く)



心に、体力。体に、知力。

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最初の夢は剣の名人


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 


広島県はもともと武芸の盛んな土地だ。幸三少年は兄から、宇野金兵衛という剣術の名人の話を聞いて、大きくなったら自分も、剣の名人になりたいと夢見ていた。

 金兵衛は、飛んでいるハエを割り箸でつまんだという。吉川英治の小説『宮本武蔵』の中に飛んでいるハエを箸でつまんだなどと武芸者の超能力が描かれているのは、実は金兵衛の話を借用したのだそうである。

 だが、少年の夢は破れた。昭和5年ごろ、満12歳の時に、自転車乗りの練習中、無謀にも急坂を降ってしまった。ボロ自転車を勝手に持ち出したのでブレーキが効かないのを知らなかった。加速度のついた自転車が岩にぶつかり、投げ出され、左足のひざの肉がはじけ出すという大怪我をした。

 少年は通行人に救われて家に帰れたが、松葉杖をつくことになってしまう。この時、

「もう武芸者にはなれん」

と思い込んだのである。

 実際には骨折もなく、すぐに足は完治するのだが、外で遊べなくなった幸三は急に目標を変えてしまう。

 土居市太郎八段は足が不自由だったため棋士を志し、大家になったそうな。自分も同じ身の上になってしまったから剣の名人は諦めて、将棋の名人になってやろう。日本一の将棋指しになってやれ―。

 心に決めると、にわかに将棋に熱が入った。兄の持っている本を片っ端から読み、古棋書を覚え、詰将棋は兄に強制されなくても自力で、一題に何日かかっても解いた。どこそこに強いオッサンがいると聞けば、飛んで行って挑戦した。

 その頃の棋譜は残っていないと思うが、筆者の類推では、今の少年強豪と違って序盤の形はまるで素人。中盤の攻めと終盤の寄せの感覚が鋭く、特に「詰め」を読むスピードではアマ強豪の兄の棋力を超えていたのではないだろうか。

 という根拠は、後年プロになってめきめき頭角をあらわした初段から四段あたりの棋譜と解説を見ても、まだ、序盤の工夫はうかがえず、やや不利の岐れから、中終盤の豪力で勝ちを収めるというパターンが多いのである。

 かつて山田道美九段から聞いた。

「升田と大山の将棋は対照的だと人は言うが、違う。私が対戦したときに受ける感じは全く同じ将棋だ」

「攻めの升田、受けの大山」あるいは「動と静」などのレッテルを貼り付けてしまったのは、棋士ライターやマスコミ人の、ある種の過失ではなかったか。


(続く)



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兄に将棋を習う


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


幸三が小学4年の時に一家は、三良坂町からそう遠くない高田郡の小田村に一時転居した。ここも中国山地の寒村であった。その前後に幸三は将棋の指し方を覚えた。

両親は将棋や碁とは無縁だったが、長兄の静夫は将棋も近在では無敵の実力者だった。昭和11年の新聞記事によると「二段格」で、現在の県代表クラスだ。

兄の指導法は、スパルタ式教育である。母親に知られてはまずいので、兄弟で土蔵の中に閉じこもった。テキストには江戸時代の棋書と、当時の大家、次の名人と目される土居市太郎八段の著書が使われた。

覚えてから2年くらい後には、江戸時代の伊藤宗看の難解な詰将棋を出され、「解けるまで蔵から出さん」と言って外から錠を掛けられた。

功成り名遂げてからの升田が講演で次のように話している。

「天才とはどういうことか。天才とは、瞬間的にその物事に集中できる精神を持っている人のことだ。我々が将棋盤の前に座る。パッと精神を集中する。これが天才、つまり、瞬間精神集中のできる人。次に必要となるのは集中力の持続だが、これらの力を養うには人より多く勉強し、努力しなければならない。天才こそ、努力しているわけだ」

 こう切り出しておいて升田は「努力の努の字は、女のマタの力と書く」などと、にわかに出産の話からワイ談のような話に切り換えることもあった。話術も作り話も天才的だった。

 幸三少年は、喜んで将棋を習ったわけではない。兄貴のゲンコツを食らうのが怖くて命令に従ったのだが、やがて真剣にやる気になったのには理由がある。


(続く)



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