升田幸三物語 第2話
「兄に将棋を習う」
ゲンコツ将棋で
強うなった。
数奇な生い立ち
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
升田幸三は大正7年(1918)3月21日、広島県双三郡三良坂町に生まれ、平成3年4月5日、73歳で没した。
父は榮一、母はカツノ。中国山地に田畑を持つ農家の10人兄弟の4男で、幸三と命名されたのは郷土の有名人にあやかったものである。コウソウと読むのが正しいが、将棋界ではコウゾウで通した。
立派な家系であって、長男の静夫は農業のかたわら学問を好み、俳人、学校の講師。次男の守夫は海軍の軍人。3男の定(のち尊)は医師。すぐ下の妹美代子は美人で、美容師メイ・牛山のモデル、舞台俳優、のち宝塚で旅館を経営した。その下に2男3女がある。
自ら語るところによれば、父の榮一は、若いうちに米の仲買に手を出してアブク銭をつかんだ時にバクチの味を知り、幸三が物心ついたころは「女房子供をほったらかしでバクチ場を渡り歩き、時には何か月も帰って来ない」有様だった。いわゆる女癖も悪い人で、升田家について悪く言う人がいたのも、すべてはこの風変わりな父のせいである。
一家を支えたのは非常に聡明かつ気丈な母だ。幸三は、母と静夫、守夫の長所を受け継いでいる。無類の負けん気は、だらしなく負けてばかりいた父を反面教師として培われた。
ある時、母に連れられて村芝居を見に行ったが、その夜、たいした降りでもないのに雨漏りがする。「おかしいなと上を見たら屋根に穴があいておる。親父が瓦をひっぺがして売りとばし、バクチの元手にした」のだった。負けて夜逃げをする時には、少しでも口減らしをしようと思って幼い幸三を連れて歩いた。「あちこち行った中で、山口県の宇部と九州の長崎と、この2か所を今でも覚えている」
幸三の幼時のエピソードは多く、たとえば、女の子に「お前の家は貧乏だから刀なんかないだろ」と言われ、カッとして土蔵から日本刀を持ち出し、その子に切りつけたというような荒々しいのもあるが、じかに聞いた話で「これこそ天才の証明」と思ったのを記す。
幸三少年は、川に泳ぐ魚を手づかみにするワザを覚えた。
また、電線などに止まった多数のスズメが一せいに飛び立っても、その数が分かった。
この話から、最近よく言われる「右脳」の発達した人で、一流棋士に不可欠な優れた図形残像能力を持っていたことが分かる。
幸三少年が母と山へ仕事に行くと、ウサギが出て来る。鳥も来て、母の肩に止まったりする。ところが少年が母に近づくとウサギも鳥もパッと逃げた。夏の夜など、母が針仕事をしている所へ蛇が上がって来る。座敷の隅にとぐろを巻いて動かないが、母は蛇嫌いだから幸三に救いを求める。少年が見に行くと、蛇はニョロニョロと退散したという。
「私には相手に危害感を与える、得体の知れぬ気配があったらしい。たぶんこれは無意識のうちに、貧乏をバカにされまいという気持ちと、父との逃避行で行く先々の土地の子に負けまいと突っ張った、攻撃性とでもいうべきものが身についていたのだろう」
「母が私の故郷」
とも言った。
そんな生い立ちだから、しぶしぶ通った小学校での思い出といえば、上級生の剣道の稽古を見学する楽しみと、年に一度の運動会で、健脚を誇示することだった。
むくむくと 出てきた雲が 天に勝つ
幸三少年が作文の時間に作って、先生に「よし、それでええのや」とほめてもらった“俳句”である。いかにも、勝負師升田にふさわしいエピソードである。何年生の時のことだか、升田自身もそこまでは記憶していない。
「いずれにせよ、人並みに進級できなかったんだが、学校の話はやめよう。愉快な思い出ばかりじゃないんだから」。幸三少年にとって学校とは、ケンカといたずらをしに行く所。よその子供に「勝つため」に行く所だった。
心に、体力。体に、知力。
ぶり!ぶり!ブリッツ♪♪
(続く)