先手番木村から打開して猛攻。参考図は、木村の▲3五歩に升田が△4四歩と打ち、▲3六銀の局面である。
矢倉の序盤に詳しい方ならお気付きと思うがこの時代にすでに、先手桂損の攻めが成立することを木村名人は見抜いていた。
升田は懸命のしのぎに回り、苦戦に耐えて入玉模様を作る。そうはさせぬと木村が押し返し、互いに7時間の持ち時間を使い果たして1分将棋。落手なく、入玉もせずに210手という大将棋を、升田が勝ち切った。
終局は夜の白々と明ける4時26分。「日ごろ沈着悠然たる木村名人の駒を持つ手がブルブルふるえ出すし、剛腹をもって鳴る升田八段も最後の1分になると、足がふるえていた」というすさまじい戦いだった。
升田自身も「名局といえるだろう」と回顧している。
ただしこの対局の「ゴミ・ハエ問答」については誤伝がある。激しい口論が、対局終了後の打ち上げの席で行われたというのは誤りで、前夜の話だ。翌日は両者仲よく連れだって金沢の兼六園を見物している。
また、「名人位」を目指す升田八段が、いきなり「名人なんてゴミだ」と言い出すわけはない。それは、ことごとに教養や知識をひけらかして他の棋士を見下す、木村個人を攻撃した言葉だったのである。
「棋士に余計な学問はいらない。将棋の勉強に専念すべし」という、純粋な升田の主張は、どんな時代になっても通用するだろう。
この「第2回全日本選手権戦」は、2度にわたる三つ巴戦の結果、萩原淳八段が優勝した。
そして読売新聞は、昭和24年8月に、この棋戦の優勝者に「タイトルとしての九段」を名乗らせることとし、名人戦に次ぐ第2のタイトル戦、通称「九段戦」が発足する。
第3のタイトル戦を、毎日新聞が創設するのは翌昭和25年である。
また、廃止していた永世名人の称号を復活し、「名人位に5期以上在った者を永世名人とする」新規定ができたのは昭和24年で、もちろんこれは木村名人のために作られた。まさか、旧規定通り元の八段に戻すわけにいかなかったからであろうが、こうした“ご都合主義”に升田は批判的だった。しかし升田の論法がいつでも非常に極端で激しかったため、仲間の理解を得られぬことが多かった。
(続く)
