升田幸三物語 第60話
「碁を打って静養」
病気のおかげ。
女房のおかげ。
決勝戦の不戦敗
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
昭和29年、升田は36歳。大好きなタバコを断ち、酒も我慢しながら戦った第13期名人戦だったが、弟弟子大山康晴名人に1勝4敗で屈した。体調は少しも好転せず、医師は強く休養を勧めた。静尾夫人も「収入のことなんかお考えにならずに……」と言ってくれるが、升田には踏ん切りがつかない。
各棋戦ベタ負けの状態なら一も二もなかっただろうが、体力をセーブする早指しでも、升田八段は勝っていたし、タイトル挑戦、優勝を狙う自信は十分にあったからだ。それに、本場所に相当するA級順位戦には前期挑戦者の特典があり、秋から指し始めればいい。
節制を続けながら対局を続けることにした。
他の棋士は「大した病気じゃないだろう」と半ば信用していない。それほど升田の勝ちっぷりは鮮やかだったのである。塚田正夫九段への挑戦権を争うトーナメント、第5期全日本選手権戦(通称九段戦)ではシード棋士として準々決勝から出場し、灘蓮照八段に2勝1敗、原田泰夫八段には2連勝して挑戦者決定戦に進み、松田茂行八段との3番勝負になった。
第2回王座戦でも、南口繁一八段、花村元司八段、原田八段を連破し、大山名人との決勝3番勝負である。
8月。升田はついに発病……といっては変だが、盲腸炎のため入院を余儀なくされた。病状の詳細は分からないが、幸い大事に至らず、9月19日と29日に九段戦で松田と対局。これが不出来で連敗。親しい松田は心配して「升田さん、ほんとに休んだら?」と勧めた。
次いで大山との王座戦決勝である。
10月12日の第1局は負け。26日の第2局は勝ち。
その直後、再びドクター・ストップがかかる。肝臓病の診断が下りたのだ。「あんたは死んでも将棋を指したいのですか。すぐ入院しないと命も保障できませんで」
升田は「休場」の届けを提出して大阪の病院に入院した。もちろん決勝の第3局は不戦敗で、大山の2期連続優勝となった。進行中の王将リーグも、残りは不戦敗である。
(続く)
大山の用心棒
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
昭和28、9年は升田の雌伏時代とも言えるが、闘病生活の中でも大山以外の相手にはあまり負けていない。各棋戦で決勝に出たり、挑戦者になって大山に負かされるケースが多かったので、「これじゃ、まるで大山名人の用心棒だ」と思ったことがある。
昭和29年、続けて名人挑戦者となった升田は、第13期名人戦で大山と戦ったが、前年と同じ1勝4敗で敗退した。このシリーズは「矢倉名人戦」と呼ばれた。
升田にとって残念なのは、大阪で行われた第2局である。大山の強烈な攻めを二枚腰でしのぎ切った升田が、終盤、敵玉を寄せに移ったときに、残り1分なのを2分だと錯誤していたらしく、時間切れで負けたのだ。
「それは記録係の賀集三段が50秒から『1・2・3・・・』と秒を読んで『10』といった瞬間だった。名人はアッというような低い声をあげて記録係を見、つられて升田もこちらを見て『時間切れか』と自分できいた。きかれた以上やむなく、賀集君が『はい、少し』と答えるや、『それじゃ負けだ』と升田は自分でさらりとコマを投げてしまった」と藤沢桓夫の観戦記にある。
参考図がその投了図。升田が△5四桂と置くと同時に「10」の声がかかったのだった。
ただし、木村名人の講評によれば「△7八銀不成 ▲同玉 △6七銀で、どの変化も升田の勝ち」となっている。ともあれ、名人戦史上の珍記録には違いなく、升田の消費時間の欄には「10時間」の記載がある。9時間59分ではない。
(続く)
この昭和28年に、升田の新手「すずめ刺し戦術」が生まれた。
本間爽悦八段に話を聞いたことがある。
「升田さんが、端に香車上げて、その下に飛車、回りよんのや。弱いと思うて、ひとをからかいよんのかと腹が立ってねえ。ところが見事に負かされてしもうた。感想聞いて、わしゃびっくりしたわ。升田さんは序盤の天才やね」
本間は「序盤の天才」と言った。
升田は、アマチュアの指し方にヒントを得て考案したので「僕の発明じゃない」と言っているが、第1号局は対丸田八段(王将戦)で升田の負け。第2号局が対原田八段(王将戦)で升田の勝ち。3局目の“実験台”にされたのが本間だった。当時は予選棋譜が東京から大阪へ郵送されるのは数日、遅ければ1週間も10日もあとだったし、本間は前の2局をまったく知らなかったのである。
「すずめ刺し」は「鳥刺し」のもじりで、命名者は大阪の高島一岐代九段らしい。この戦法は大流行し、当然、正しい受け方も分かって下火になるわけだが、初めて指された丸田は▲8八銀と引いて受けているし、原田は▲8八金の珍形、というより悪形で受けたため、全局的な作戦負けで升田の術中に陥ってしまった。新手を創案して続けて数局勝つ。ひとが真似をし始めたころには知らん顔。序盤の天才・升田のやり方は「火付け強盗」のような素早さである。「ふっ、ふっ」と笑いながら火事を見物し、次なる仕事(新手)に思いをめぐらせる。升田の“勉強法”は、下位棋士や奨励会員やアマ強豪の対局を見物することだったように思われる。その好例を挙げれば、角道を開けっ放しで▲8八飛と振る「升田式向い飛車」というのは、木村嘉孝六段がまだ奨励会員のころに創案した新戦法であって、木村は苦笑しながら「升田式なんて、だれが名付けたんだ。シャクにさわるよ、まったく」とぼやいた。
(続く)
大山名人に挑戦
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
木村が引退した後の将棋界は「塚田、大山、升田の三強時代」と呼ばれる。
塚田正夫は、名人位を木村に奪回された後、一時は平の八段に戻ったが、昭和27年の第3期全日本選手権戦(通称九段戦)で升田を破って挑戦権を取り、大山九段(名人)に3勝2敗で九段のタイトルを奪取した。
この時点で3大タイトルを、名人大山、王将升田と、三強で分けたのだが、その状態は二か月弱しか続かなかった。それは、升田が、妙な形で王将位を失ったからである。
王将戦は第2期から「全棋士参加」となり、その途中で、大山名人と升田王将による「被挑戦者決定戦」という名の奇妙な3番勝負が行なわれた。升田は不満だったが、毎日を相手にしてまたトラブルを起こす気にはなれなかった。黙って指し、1勝2敗で大山に負けた。規則上、これで王将位は空位となり、残る全棋士の中から勝ち上がった丸田祐三八段が大山名人に挑戦、4勝3敗で勝った大山が王将位を獲得したのである。
「今に見ておれ」と升田は思った。幸い、3番手直りの指し込み制は存続されている。そのうちまた挑戦者になって、今度は大山を指し込んで見せてくれよう。
敗戦国日本の復興は急テンポで進み、将棋界も恵まれて来る。三大新聞以外に棋戦が次々と誕生する。升田、大山がトップに出ると共に、懸案の東西格差は解消された。東京方に二上達也、山田道美、北村昌男、芹沢博文ほか、大阪方にも熊谷達人、二見敬三、加藤一二三ほかの俊英が育っていた。
昭和28年。
A級順位戦は升田、塚田、松田茂行の3人が6勝2敗の同率。同率決戦で勝った升田は、2度目の名人挑戦権を得た。相手は変わって、大山である。
7番勝負の第1局は4月13日から、東京の「初波奈」で行われた。女中さんが玄関に並んで最敬礼、ということはなくても、新聞社がかつてないほど棋士を大切にもてなす時代になっていた。陣屋事件のおかげ、と言えなくもなかろう。昭和天皇をはじめ皇族や文士、画家などに将棋ファンが多く、それら有力者を対局場に招待するのが慣例になっていた。
仏法僧・永沢勝男の観戦記から。
「一年見ない間に大山にカンロクがついたのに驚いた。去年この対局場で木村に挑戦したときは何かひ弱さを感じたが、今は全くとれて兄弟子升田の上座に位してたくまざる威圧を発している。対手の升田も上乗の状態だから今までの名人戦のうちでもっとも内容ある激戦となるだろう」
升田は落ち着いていたが、実は元気がなかったからで、決して上乗の状態ではない。内臓疾患の響きで持久力を欠き、観戦記にも疲労の様子が描写されている。第3局あたりからは対局場に医師が詰めていて、栄養剤の注射をした。禁煙はもちろんのこと茶も断ち、白湯を飲みながら塩をつまんでなめていた。対する大山青年名人はヘビースモーカーであった。数年後には、タバコの関係が逆になるわけだが。
第1局は、飛先交換の腰掛け銀で戦った。戦後大流行した角換わり腰掛け銀の駒組みは、研究が進み、千日手に終る率が非常に高くなっていた。千日手大嫌いの熱血漢原田泰夫八段が「ファンに申し訳ないではないか」と声高に力説したこともあって、すっかり下火になっていたのである。約40年を経過して、平成時代に再流行したのは面白い歴史の変遷だ。
第2局は相矢倉。第3局は、相掛かりの新旧対抗形。第4局は相掛かりの変形。第5局は再度新旧対抗形と、このシリーズはいろんな形の相居飛車で戦われた。第3局に快勝しただけで升田は1勝4敗で大山の軍門に下った。
大山が名人位に
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
昭和26年度の第6期順位戦A級は、升田、大山、丸田、坂口、高柳、塚田、板谷、原田、松田(茂)、荒巻、松田(辰)の11人のうち、高柳と松田辰雄が病気休場のため、9人で争われ、升田と大山が6勝2敗の同率。挑戦者決定3番勝負は、27年の4月から5月にかけて行われたが、1敗後の2勝で、大山が挑戦権を握った。升田は高野山の決戦以来、三たび木見一門の弟弟子に道を阻まれた。
特に、この年の敗戦は痛かった。すでに升田は王将戦で木村を打倒し、無敵名人・木村の衰えを知っている。戦えば必ず勝つ自信があった。木村名人としても、この年の名人位防衛ができなかった場合には、いさぎよく引退しようと覚悟を決めていたはずだ。
木村名人に大山九段(タイトル)が挑戦する第11期名人戦は、昭和27年の7月15日、大阪の羽衣荘における第5局までの4勝1敗で、大山新名人が誕生した。
「私の一撃が木村さんに深傷を負わせ、そこへ大山君がとどめを刺した」
公式にはこう表現した升田だが、本心は「トンビに油揚げをさらわれた」であったろう。
ただし、木村を倒したのが塚田正夫でなく、丸田祐三でもなく、自分が鍛えた弟弟子大山であったことには満足していた。
29歳で名人位に就いた大山は、
「こうなれば升田さんと私で、少なくとも10年は名人位を関東にはお返ししません」
と言った。兄弟子への思いやりがあるし、これは本心だったはず。当時まだ升田も大山も関西に住んでいた。
升田は「ライバル大山」と書かれるのを嫌っていたが、私の「先生の好敵手は」の問いに「大和久さんだった」と答えている。前にも書いたが大和久彪(おおわく・たけし)は升田より4歳年長の東京棋士。昭和11年の「四段登龍戦」で戦った時に互いにその力を認め、親しくなった。俗にいう、ウマが合ったのだろう。体が弱いこともあって非凡な才能を十分に発揮できず、B級止まり。早く引退して観戦記者(飛将軍)になり、31年、42歳で死去した。追贈八段。熱血漢で、裏表のない、ユーモアを解する棋士だった。
升田が「違う」と言っても、大きく成長した大山康晴は、どうしても升田が倒さねばならぬ“宿命のライバル”となってしまった。
木村義雄は「よき後継者を得た」と語り、27年8月24日、上野の寛永寺で開かれた物故棋士追善将棋大会の席上、公式戦引退を表明した。日本将棋連盟は、この日付で永世名人(14世)に推挙、久しかった「木村時代」は終わった。
(続く)