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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。


大山名人に11連勝


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和30年度の王将戦で大山康晴名人に3連勝してタイトルを獲得し、規定により半香に指し込み、第4局の香落ち番にも勝った。

 さきに木村義雄名人を半香に差し込んだが、「陣屋事件」のため香落ち局は不戦敗になっている。とはいえ「二人の名人に香を引いた」という史上空前の記録を残した升田である。

 さっそく故郷広島の長兄から手紙が届いた。少年の日の夢を実現した祝福の文面のあとに、慈母カツノからの伝言があった。

「幸三よ、もうええ。将棋はやめんさい」

 名人に香を引いて勝ったんだから、もういいだろう。病気で命を縮めてはいかん、田舎へ帰って来て百姓でもしてのんびり暮らせ、という親心だった。

「母は気の優しい人だから勝負事が嫌いなんですよ。息子が勝つ喜びよりも、負かされた相手の辛さを思いやるわけです」

 升田王将は、続く第5局の平手番にも勝ったあと、第6局の2度目の香落ち戦を棄権することにした。「病気のため対局不能」という理由をつけた。もちろん、本当に病体であったし、主催の毎日新聞社も日本将棋連盟も、実は困っていたわけで、話し合いの結果「第5期王将戦7番将棋は、升田王将病気のため打ち切り」と発表している。対局をとりやめたのだ。

 升田は言う。

「名人であり、弟弟子でもある大山君に、これ以上の屈辱を強いるわけにはいかないと思ったのだ。ところが、これだけたたきのめされながら、すぐ立ち直って来るんだから、やっぱり大山君はタダ者ではありません」

 兄弟子だから威張っていたわけではない。この王将戦の前後、大山は升田に全く歯が立たず、昭和29年10月の王座戦から、31年12月の王将戦まで、11連敗を喫している。


(続く)



大山名人に香を引く


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 第3局は年が明けて31年の1月、8、9の両日である。

 第1期王将戦で木村名人を2―0のカド番に追い込んだ時、升田は複雑な心境に陥り、結局その将棋は負けているが、今回も「名人位の権威」を思う升田は、悩んだという。

「到達した結論は“無我”で指すことだった。それに私の体は一手指すごとに盤側で横になるほどまだ悪かった。この第3局で決めないと、後の将棋はどうなることやら自信がない。指せなくなる場合さえあるだろう」

 このころ、升田を愛する志賀直哉、吉川英治、梅原龍三郎ほかの有力者によって「升田後援会」が作られていた。毎日新聞紙上に、一人で全局を執筆した倉島竹二郎も三田(慶大卒)の文士であり、大の升田びいきである。

 判官びいきということもある。〈升田に勝たせたい〉という雰囲気の中で、しかもゲンの悪い対局場で戦う大山だが、みじんも悪びれたところがなく、対局室を前回と同じ桐の間にすることにも異議をはさまず、運を天に任せた人の姿であった。

 今度は矢倉戦の“表芸”で、升田は5筋の歩を突いて急戦調に指し進め、大山は△6四歩から△6三銀、△5四銀と出、▲3五歩の仕掛けに△4三銀と引く銀矢倉、当時「大山矢倉」とも言われた受け身で戦った。

 初日から両対局者への激励電報が届いていた。第2日の午後には、志賀、梅原、それに原子力委員の藤岡由夫博士などの招待客と多数の棋士で、控室は超満員になった。新橋駅前広場での大盤速報解説も大盛況となっていた。

 この時も升田は医師を呼び、栄養剤の注射を受けながら、そして、しばしば横になって休みながらの対局である。記録を見ると、序盤で2人とも、みっちり時間を使っている。

 121手。大山は時間一杯の努力も空しく敗れた。終盤まで大山の勝ち将棋であった。手順前後で簡単な寄せを逸したのだ。

 大山が△4九飛と打った時、升田は笑って「それを早く打てば投げるつもりだったのに」と言ったそうだ。

 ついに半香に指し込まれた大山名人。新聞の自戦記には「技量未熟」と記している。

 たしかに、二枚落ちから指導を受けた兄弟子の升田に指し込まれたのだから、かつての木村名人の味わった屈辱感とは比較にならないだろうけれども――。

 7番勝負でなく、王将戦は7番将棋である。もしも大山が半香の手合いでまた3連敗すれば、第7局は「定香」すなわち二段差の手合いになるはずである。

 升田香落ちの第4局は、1月19日から「比良野」で行われた。

 対局の前日、広島の兄、静夫からの手紙が届いた。祝いの句であった。

 物差しの裏字も薫る梅の花

 この香落ち局は升田の自伝ほか多数の出版物に収められている。いうまでもなく、将棋史上で初めて、そして最後かも知れないが、名人が駒を引かれて指した唯一の記録である。当然ながら升田は上機嫌。日本テレビが撮影に来たときには、持参のキセルを取り出してくわえ、大目玉をむいてニッコリ笑って見せた。稚気満々の人であった。


(続く)




クオの別世界


 参考図は大山―升田戦第1局の23手目、▲3八角まで。

 棒銀対策の△5四角は“決定版”かとまで言われ、先手有利にする応手が見つからなかった。△5四角に▲2六飛とか、▲3六角の合わせ、あるいは単に▲5八金(大山はこれを最善手と言っていた)などが試みられていたわけだが、升田は一つの新手を思いついていて、

「この手を試す相手は、大山君に限る」

 と心に決め、じっと温めていたのだ。

「角には角」の単純な原理である。どうして他の棋士が気付かなかったか。今の人は不可解に思うだろうが、あらゆる定跡は試行錯誤の繰り返しにほかならない。当時の棋士には「敵がナマ角を手放すのなら、こっちは持ったままで、何か有利になる順があるはずだ」という先入観念があたのだ。

 倉島竹二郎の観戦記によれば、全局東京で行われるのは、病後の升田の健康を配慮したからだそうである。そして、升田▲3八角のときの見出しは、

「体を張った新手」

とある。

 大山は参考図に直面して47分考え、△2二銀と引いて2筋の歩交換を許した。現代の定跡で最善手とされる△4四歩突きは、五十嵐豊一九段の創案だったと記憶する。

 この将棋は中盤で双方にミスが出て、一時千日手模様にもなったが、139手で升田が勝った。大山は9時間56分、升田も8時間4分を使って精魂を傾けた。

 第2局は大山の先手番で相矢倉。升田は相手のお株を奪って銀矢倉を採用し、激しい攻め合い。136手までで升田の連勝となった。

 倉島の観戦記は、

「次は指し込み成るや成らざるやのカド番。大山はかつてない苦境に直面したが升田もまた肉体の面で苦しい戦い。今さらながら勝負の世界の苛烈凄壮さに胸がうずく」

 と結んでいる。


(続く)



升田の新手


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 松田茂行八段は“鳥取のダイヤモンド”と呼ばれた天才棋士で、金子の弟子。升田とは非常に親しかった。升田が途中休場した第4期王将戦では、リーグ7戦全勝で大山王将・名人に挑戦したが、1勝4敗で指し込まれてしまった。第6局の香落ち、第7局の平手を連勝しているけれど、実際に香を引かれて指した“第1号”である。

 続く30年度の第5期王将戦は、復帰した升田をふくむ8人の八段によって行われ、花村元司、升田、丸田祐三の3者が5勝2敗。

 同点決勝で升田は2人を負かした。

 第1期では時の名人木村を指し込んだ風雲児升田、3度目の7番将棋登場である。

 “宿命のライバル”の対決が、当時“水爆棋戦”と呼ばれていた、3番手直りの王将戦で見られるとあって、ファンは湧いた。

 第1局は12月13、14の両日、東京・赤坂の「比良野(ひらの)」で行われた。持ち時間は各10時間。

 大山も升田と前後して東京に家を持っていたので、この期の王将戦は珍しいことに全局「比良野」で指した。

 後年、大山が講演によく使った話。

「対局場にも相性というのがあるらしくて、わたしは、ある旅館で対局して一番も勝ったことがなかったんですよ。ここはダメです、とも言えませんし(笑い)、どうしようかと思ったら、ありがたいことにその旅館が廃業してくれまして(爆笑)」

 これが「比良野」のことだ。

 升田にも、相性のよくない対局場はあった。

「どうもあそこでやるとポカが出る。おかしいな、と思うとったら原因がわかりましてね。大山君の好きな女性が居(お)った(笑い)」

 この第1局では有名な升田の新手が出た。

 角換わり棒銀は、当時腰掛け銀に代わって流行していた新戦法である。これはアマチュア戦法から発達したものらしく、創案者は“社長”と呼ばれていた銀座の金満家、山口堅三氏だという説がある。終戦直後、キャバレーなどで大儲けした人で、ボストンバッグに札束を詰め込み、アマ強豪(多くは真剣師)やC級、B級の棋士に平手で挑戦していた強豪だ。



オール八段戦


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 再起した升田八段の、ほぼ7か月ぶりの対局は読売新聞が夕刊にのせていた(棋戦を2つ持っていた)第4回オール八段戦(名人、九段特別参加)から始まった。メンバーは大山名人(王将)、塚田九段をふくめて24人。

 初戦の相手は同郷広島の松浦卓造八段だったが、さすがに勘が鈍っており、勝ちはしたけれど冴えない出来であった。升田嫌いのある棋士が「将棋がよたっているよ。再起不能かな」と評したそうである。勝てば官軍の世界。破竹の勢いで王将になったころ、みんな「次の名人は升田だろう」と言っていたのに、5歳若い大山が現実に木村から名人位を奪い、升田の挑戦を2度まで退けるのを見ては、升田株が暴落するのも、当然だったといえよう。

 だが、升田の立ち直りは早かった。オール八段戦では松浦に続き高島、塚田を下し、大山名人・王将との3番勝負(10月)に、ストレート勝ちを収めて優勝した。

 その決勝第2局では、相矢倉模様から奇抜な新手(歩越しの△4四金)を指している。

 この年あたりから、流行の角換わり腰掛け銀は千日手が多発したために廃れ、相矢倉が主流戦法になっていた。大山、塚田、升田の“三強”のほか、上位の丸田、灘、高柳、新鋭の二上、加藤一二三らが相矢倉と取り組み、日進月歩の改良を見せた時代である。升田、大山といえば「振り飛車」を連想する人もあると思うけれど、全盛時代の両雄の戦いは、ほとんどが相矢倉などの居飛車戦だった。

 升田の対局記録については、昭和25年ごろまでの資料を欠き、従って正確な生涯成績を出すことはできないのだが、順位戦の星だけははっきりしている。ここで「A級順位戦」の成績を出してみよう。同点決勝はふくまない。

 昭和22年度から52年度まで在位。

 うち、名人2期、休場7期、順位戦なし1期を除いて出場21期であるが、140勝53敗(0.725)の高い勝率を残した。

 負け越しは、最後に出場した50年度の4勝5敗がただ一度あるだけで、それまでは一番勝率の低い年で5勝3敗だった。

 むろんこの記録は自慢であって、3勝6敗の星でA級に残留した時の塚田などは、

「あんたは楽でええなあ。3番だけ勝ちゃ、一年いばって暮らせるんだから」

 きついことを言われて熱くなっていたものである。病気休場をすると人間が丸くなっていかん、などと言う升田だが、毒舌の方はいよいよ冴えてきた。


(続く)



碁を打って静養


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 木村義雄名人を半香に指し込むという大記録は樹立したが、その王将位も大山に奪われ、元の八段に戻っている。

 念願の名人位も、挑戦権を2年続けてつかみながら、弟分の大山に勝てなかった。

 病気には勝てない。と人は慰めてくれるけれど、残念だ。一年もの休場は辛い。収入もほとんどなくなる。

 失意の升田を、しっかりと抱きとめたのは静尾夫人であった。

 夫人の献身ぶりは有名だが、伝聞によれば、初対面の時、静尾さんは電気に打たれたように一目ぼれし、柱につかまって辛うじて身を支えていたという。良い夫人、良い家庭に恵まれた升田は幸せな人だった。

 肝臓病は過労を避け、食事に注意する。退院して体力が回復しはじめた升田は、毎日のように碁会所に通った。将棋のことは極力考えないようにした。仲間とのつき合いも避け、家では長男の晋造君と遊ぶ、よき父親になった。典型的な亭主関白の升田だが、この休場中ばかりは夫人を怒鳴りつけることもなかった。

 雷も坊やと碁にはえびす顔 ― 夫人の詠んだ川柳である。

「女房は私のわがままと貧乏に耐え、私の身体を対局に耐えるまでに立て直してくれた」

 後年、升田が名人就位式のあいさつで、

「みんな女房のおかげです」

と言ったのを「つまらないことを言う」と評した人がいたが、並みの女房ではないのだ。静尾夫人ほど、さまざまな心労に耐えながらヤンチャ坊主の主人に“愚痴もいわずに”仕えた女性は稀であろう。「女房のおかげ」は真情の吐露であったと思う。

「病気休場中に、私は、これまでの人生になかった何かを会得したように思う」

と升田は述懐している。

「勝負する者は、狼のような目をしていないとだめだ、と私は思っていた。虎のような気迫がなければ勝てないと思っていた。また、縁起はかつがないつもりだが、いつの間にか、かついでいた、ということにも気付いた」

 さらに言う。

「ひところ“将棋芸術論”を唱えていた時代には、勝つことよりも、新手を考える方に全力を傾注した。そのための冒険もあえてやった。ところが、病後の私は、勝負に対してガメツくなっていたのである。将棋を大事に指すようになった。無理をしなくなったのである」

 30歳代前半までの升田は、忍耐のできない男だった。「陣屋事件」の失敗も、よい教訓になったと推察できる。

 昭和30年の春。

 健康を回復した升田は、夫人と相談の上、大阪暮らしをやめて、対局に便利な東京への移転を決めた。日本将棋連盟本部(といっても当時は2階建ての日本家屋)は中野区東中野にあったので、近くを探し、親しい塚田正夫九段と同じ町内(新井町)に小さな家を買った。一年間の休場のため僅かの貯えはとっくに使い果たしていたから、すべて借金だった。


(続く)