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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。


全タイトル独占成るか


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和32年5月。

 升田幸三王将・九段(39)が同門の弟弟子、大山康晴名人(34)に挑戦する、第16期名人戦の開幕が迫っていた。持ち時間各10時間の7番勝負である。

 両者の対戦成績は、新制度スタート以前の数局を除き、昭和21年6月のB級順位戦(升田七段、大山六段)をもって公式戦初手合わせとするのだが、58戦、大山

30勝(不戦1を含む)、升田28勝(香落ち1を含む)、ほかに千日手が4回あった。

 数字の上からはまさしく互角。しかし30年以降の18局を見ると、王将戦での半香指し込みをふくめて升田が

14勝4敗と圧倒しており、特別な大山ファンを除けば「升田名人誕生、3タイトル独占」を予想し、期待する声が全国に満ち満ちていた。

 ところが当の升田は、健康状態がすぐれないままに前年の秋からタイトル争いの連続。特に、32年の1月から4月までは、タイトル戦11局をふくめて22局を戦い続けていた。塚田とのA級同点決勝3番勝負に勝ったのが

4月29日。名人戦開幕まで1週間。

「休みたい。このまま大山君と名人戦では、途中で倒れるかも知らん」

 将棋連盟理事会は、升田の申し入れを受けて名人戦終了まで、他棋戦の対局をいっさいはさまないことに決めた。各社の諒解を取りつけるのに渉外担当理事、丸田祐三八段の非常な苦労があった。

 大山の怖さを、だれよりもよく知っているのは升田だ。

「現在までの率からいえば、この名人戦は私に有利なんだろうけれども、神様から見た場合、果たしてどうか分からないですな」

 週刊朝日に出た、親友塚田正夫九段との対談の一節である。塚田はこう答えている。

「いや、勝負は時の運というけど、このごろの升田君には、神様でもついているような気がしてしようがないんだよ」

 昔、阪田三吉の夫人、コユウ(小春は芝居や映画の役名)は、重大な勝負の前には夫にかくれて妙見様(みょうけんさま)にお百度を踏んだそうだが、升田静尾夫人は幼い二人の子どもの世話をしながら、常とまったく変わらぬ態度を保った。主人の健康にだけ気を配り、将棋の話は一切しない。徹夜の対局で朝帰りになっても、決して先に就寝せず待ち続けていた。


(続く)



対局中に母の死


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 新制度下の第7期九段戦は7番勝負。親しい仲の塚田正夫と升田幸三との、生涯唯一のタイトル戦である。

 第1局は32年2月24日、東京の「桂(かつら)」という旅館で行われた。持ち時間各8時間の1日指し切り制である。

 升田は「物覚えが悪い」と自称していたが、それは、急所を外れた事柄は記憶しようとしなかったせいだ。他人の棋譜でも自分の指した将棋でも、優れた序盤の手順や勝負所の形だけは忘れないが、やる気のなかった将棋とか、自らの構想が崩れた後の指し手、升田はそれをドロ(泥仕合)と言ったが、ドロの部分は忘れるタイプだった。

「物覚えの悪い私が、昭和32年の2月24日という日をはっきり覚えとるのは、この日、母が死んだからなんです」

 対局中、中盤のむずかしい局面で妙に気分がふらつき、おかしな手を指して負けてしまった。

 あとで聞くとちょうどその時刻に広島からの「ハハシス」の電報が自宅から対局場に届けられたのだった。これは、虫が知らせたというケースではなくて、立会人の棋士の困惑を升田が感じ取ったのではないだろうか。

 将棋をやめて故郷へ帰って来いと言った母、悪い知らせが遠くないと覚悟しつつ、将棋を指し続けていた升田だったが、いざ現実に電報を受け取った時のショックは大きかった。多忙にかまけて親孝行のできなかったことが今更ながら悔やまれた。

 そうして初戦を失った打ち上げの席で、相手の塚田は、

「ねえ、升田君、人が死ぬってのは仕方がないことだよ」

 と升田を慰めた。

 ところが、みじめな負け方のせいもあったろう、升田はカッとなった。「仕方がない」とは何たる言い草か。塚田の口下手は分かっているが、今回は許せない。お返しに絶対に負かしてやると決意した。

 塚田と升田の対局ぶりは私も記録係や観戦記者としてよく知っているが、升田が開始前から冗談を連発し、しばしば塚田をからかい、顔を赤くした塚田がポツンと一言、言い返すという形が常だった。終盤で「早く投げろ。飲みに行こう」と升田が言ったこともある。すると江戸っ子塚田、いさぎよく「よし。君のおごりだよ」と言って投げてしまう。

 九段戦の雰囲気についてはよく知らないが、第2局以降の4番、すべて升田の方が時間を多く使い、いろんな戦型の急戦で、ひっかきまわして勝っている。4勝1敗で塚田を降し、升田は王将、九段の両タイトルを手中にした。

 しかし、ゆっくり休養をとるひまはなかった。A級順位戦を指している。他社の新聞棋戦が待っている。

「疲れきって、もう、ただ休みたいと、それしか頭になかったね」

 昔の笑話に、盲人が「さても、目明きは不自由なものだ」と言うのがあるけれど、将棋や碁の強い人も不自由である。体力をセーブするために「わしゃ死ぬるよ。今日はもう、5分しか使わずに指す」などと宣言したりしながら、升田は自然に勝ってしまう。もちろん「5分」は冗談で、1時間や2時間は使うけれども、この頃の升田は鬼神のように強かった。

 A級順位戦は、升田、塚田、五十嵐、花村、灘、原田、二上、坂口、高島、松田(成績順)の10人で争われ、升田と塚田が7勝2敗の同率で並んで終了した。同点決勝3番勝負は4月6日から始まり、2勝1敗で升田が挑戦権を取った。この勝負で升田は、独創的な四間飛車を用いて後手番で2勝している。

 名人戦出場はこれが4度目。

 第1局は5月7、8の両日と決まった。

 升田の恩人、朝日新聞社重役の永井大三は、次のように語っている。

「酒のあり余っている今日このごろは禁酒だという。升田君が復員してきた当時は世の中万事が不自由だらけで、特に酒なんどときてはまるで貴重品扱い。例のカストリ焼酎が幅を利かした頃だったが、升田君は全く浴びるように痛飲した。そのせいでとうとう大事な健康を痛めつけてしまった。そして、うまい酒が出まわったとたんにアメをしゃぶって対局する始末。升田君の人生は今までこんな調子ですこしくるっていたね。

 よく“近代将棋”と言うね。雑誌の名前じゃないよ。その近代将棋の源流は、と言えば、専門棋士の10人が9人まで口を揃えて升田八段だと言う。僕は、升田君の頭の中には、こんこんとして汲めども尽きぬ棋脈があるのじゃないかとさえ思う」

 名人戦を前にして、升田人気は絶大だった。

 吉川英治も(数年前の話だが)こう言う。

「升田君は痛快な男だね。彼と話をしていると、宮本武蔵(小説)の筆がよく進むんだ」

 古今を通じて、一流人の間に、升田ほどもてはやされた棋士はいなかったと思われる。それは、いかつい風貌や毒舌とは裏腹に、やさしい心の持ち主だからで、特に、年長者に対する心遣いが立派だった。


(続く)



王将位を防衛


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 年月がやや前後するが、第6期王将戦は31年の12月に開始されていた。挑戦者は、前期のひどい屈辱を晴らすべく頑張った大山名人だったが、またしても第1、第2局を升田が勝ち、再び「カド番」に追い込んだ。

 これで対升田戦は11連敗である。

 事件があった。それは、熱烈な升田ファンだった五味康祐が、文藝春秋の雑誌に書いた小説(!)である。内容は激しい“大山攻撃”の中傷であり、のちに五味氏が謝罪して落着した。

「あの小説を書いている頃、私は升田が名人になれると思っていなかった。しかも大山氏は永世名人の資格を得ていた。われわれ歴史書をひもとく者は最低百年を単位で物を見る。現在から百年二百年を経た場合、いかに升田が強くても『名人』でない升田は棋史の上で大山の下にランクされてしまう。それが歴史というものなので、そう思うと升田が可哀想で仕方がなかった。昭和50年にはまたどんな天才棋士があらわれ、棋界を制して名人になるかもしれない。その時には歴史をひもとく者はもう升田をとばし、大山の次にその天才名人を据えてしまう。升田は伝説の上だけで一部好事家に名を知られる棋士で終わってしまう」=角川書店刊『八百長人生論』より引用=

「またもや升田は、大山名人に香を引くか」とファンの注視する第3局は、32年1月9、10両日に行われ、大山は辛うじてカド番をしのいだ。次も大山の勝ちで、2対2。しかし升田は第5、第6局を連勝して4対2で王将のタイトルを防衛した。指し込み制の規定により第7局が行われ、この将棋も大山のカド番(3局負け越すと半香)だったが、大山が勝って終了している。


(続く)



新人群の抬頭


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和32年の将棋界は、名人大山、王将升田、九段塚田と、三大タイトルを三強が分けていた。いわゆる戦中派の既成大家を追う、戦後派の筆頭は二上達也八段で、さらに“神武以来の天才”とうたわれた加藤一二三が17歳で七段、B級1組に昇った年である。

 升田は、親しい南口繁一八段門下の加藤に目をかけ、京都の高校を卒業したら東京へ出て来るように勧め、さらに、生活の心配がないようにと朝日新聞入社(嘱託)の世話をした。いわば第二の師匠になったのである。

 読売新聞社は全日本選手権戦(通称九段戦)の機構を改めた。第6期(塚田―花村戦)までは時の名人(大山)を別格として争覇に参加させずにいたが、第7局は、塚田九段と大山名人をシード棋士として14人で本戦トーナメント、各3番勝負を行い、新たにチャンピオンを決定する。ちょうどのちに十段戦から竜王戦へ移行した方法と同じだ。対局は31年の暮れから始まっていた。

 これにより、名実ともに「三大タイトル」の時代が始まったわけである。

 ほかにも棋戦が急速にふえ、たとえばこの年に東西対抗勝継戦では大友昇五段が14連勝無敗(東軍の大将塚田を破って終了)の記録を作ったし、加藤一二三六段がライバル北村昌男六段を決勝で破った、東京新聞杯(高松宮賞)棋戦も新設されている。20歳前後の若手が上位陣をなで切りにする現象は、今に始まったことではない。昔は、C級棋士の出場できない棋戦が多かったため、四段や五段が優勝していないのは当たり前である。

 かなり健康状態の良くなっていた升田は、31年の終わりごろから快進撃を再開した。

 九段戦では、五十嵐豊一八段、灘蓮照八段を負かして準決勝で大山名人と当たり、2勝1敗で決勝7番勝負進出を決めた。

 元名人、九段の塚田は四十の坂を越していたが依然として強く、高島一岐代、花村両八段を下して決勝進出を決めた。

 この32年の春は、制度変更のあおりで升田にとって過酷な日程になった。升田の採った自衛策は早指しである。予選対局や、タイトル戦以外の将棋は、たいてい7時間の持ち時間のうち半分以上を余して勝っている。1時間程度しか使わないで指す将棋も多かった。

 ゆえに、当時奨励会員であった私たちにとって、升田王将の記録係は最もうれしい仕事になった。すごい将棋が見られて早く終わるのだから。ただし升田は厳しい先生で、駒をよく磨いておかなかったり、不作法などがあると、その場で少年が叱りつけられた。


(続く)



花村元司との“真剣”


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 “東海の鬼”と呼ばれた花村元司九段は、升田より一つ上の大正6年生まれ。昭和19年にアマチュアから異例の「五段試験」に合格して棋士になり、昭和27年にA級八段に昇った異色の天才棋士である。

 花村は酒が飲めない体質だったし、升田との交際は表面的には親密と見られなかったけれど、いわゆる肝胆相照らす仲だった。升田は「花ちゃん」、花村は常に一歩下がって「升田さん」と呼んでいた。

 升田と花村の出会いは昭和18年の秋。升田が六段で軍隊にとられ、長期のブランクがあったことはさきに述べたが、これは一時除隊になって大阪で臨時の新聞将棋を指していたころのエピソードである。

 対局が早く終わったある日の夕刻、名古屋在住の加藤竹次郎五段(博二九段の実父)が、髪の薄い目の大きな青年を連れてやって来た。「この男と真剣を指してくれ」と言う。

「今日は疲れたし、木見先生に知れたら大目玉を食うからだめですよ」と升田は断ったが、居合わせた神田辰之助八段と中井捨吉七段が面白がって、「木見さんに知れたら、わしらが謝るから、やれやれ」とあおった。神田は賭け事が大好きで、本職の将棋でも絶対にタダでは指さず、弟子に小遣いをやってから「今日は特別に指してやろう。ただし真剣だぞ」と宣告して、その小遣い銭をたちまち巻き上げたという大変な先生である。

 その神田と、中井ほか居合わせた棋士数人が全員、升田に乗ると言うのだ。

 升田は木見道場の禁則を破るハラを決め、手合いは何ですと聞くと加藤が「三香角でどうです」と答えた。「香、香、香、角」4番1組というわけである。升田とて裏街道を知らぬではなく、花村という強い真剣師のいることは聞いていたが、三香角では「いただき」だと思ったので「えらい強気やな」と苦笑しながらさっそく早指しを始めた。花村側の金主は加藤一人だが、稲垣九十九(つくも)がついていた。

 ところが、指してみて驚いた。序盤は下手だったが、中終盤が恐ろしく強い。角落ちは問題外で、香落ちまで負ける。升田も番数は記憶していないが、トータルで6番負け越した。

「手合い違いだ」と上手が音(ね)を上げると、花村は「じゃ、香車ゾッキで」と応じた。

 さすがに、本気を出した升田に定香では分が悪く、朝になると升田が盛り返し、ちょうど指し分けになっていた。

 別れ際に升田は「棋士になったらどうだ」と実力を認め、正道を選ぶように勧めた。花村は「真剣師の方がよっぽど稼げる」と笑ってその場ではうなずかなかったが、ほどなく気が変わり、木村名人門下として出世街道を歩むことになる。升田との出会いが転機だった。

 さて、昭和30年度のA級順位戦は、その花村八段と升田が8勝2敗の同率になった。決定戦3番勝負では1勝1敗のあと、升田が頓死を食い、花村が挑戦権を取った。作戦勝ちして「楽勝」と思ったのがいけない。花村は「死んだふり」が絶妙にうまいのだから。

 この頃の花村は升田、塚田、丸田らと互角の太刀打ちをする充実ぶりで一躍大スターになっていた。31年の2月から行われた第6期九段戦5番勝負で塚田に挑戦し、2勝後の3連敗でタイトル奪取は成らなかったが、引き続き4月末から開始の第15期名人戦で勇躍して大山名人に挑戦した。

 しかし大山は、不振とはいえ升田以外の棋士には負けなかった。塚田九段との「実力日本一決定・名人対九段戦」ではあっさり3タテを食わせていたし、名人戦でも花村に4連勝し、5期連続制覇により早くも「十五世名人」の資格を得た。

 笑い話がある。賭けごと師出身の野人・花村の敗因は「羽織ハカマ姿で金屏風の前に座ったから」だと言う。

「ハダカか、せめて浴衣で指さしてくれたら、わしは塚田さんにも大山さんにも、負ける気はせんのだがなあ」

 それを聞いた升田はニッと笑った。

「升田にも勝つ、と言わんところが賢い」


(続く)