オール八段戦
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
再起した升田八段の、ほぼ7か月ぶりの対局は読売新聞が夕刊にのせていた(棋戦を2つ持っていた)第4回オール八段戦(名人、九段特別参加)から始まった。メンバーは大山名人(王将)、塚田九段をふくめて24人。
初戦の相手は同郷広島の松浦卓造八段だったが、さすがに勘が鈍っており、勝ちはしたけれど冴えない出来であった。升田嫌いのある棋士が「将棋がよたっているよ。再起不能かな」と評したそうである。勝てば官軍の世界。破竹の勢いで王将になったころ、みんな「次の名人は升田だろう」と言っていたのに、5歳若い大山が現実に木村から名人位を奪い、升田の挑戦を2度まで退けるのを見ては、升田株が暴落するのも、当然だったといえよう。
だが、升田の立ち直りは早かった。オール八段戦では松浦に続き高島、塚田を下し、大山名人・王将との3番勝負(10月)に、ストレート勝ちを収めて優勝した。
その決勝第2局では、相矢倉模様から奇抜な新手(歩越しの△4四金)を指している。
この年あたりから、流行の角換わり腰掛け銀は千日手が多発したために廃れ、相矢倉が主流戦法になっていた。大山、塚田、升田の“三強”のほか、上位の丸田、灘、高柳、新鋭の二上、加藤一二三らが相矢倉と取り組み、日進月歩の改良を見せた時代である。升田、大山といえば「振り飛車」を連想する人もあると思うけれど、全盛時代の両雄の戦いは、ほとんどが相矢倉などの居飛車戦だった。
升田の対局記録については、昭和25年ごろまでの資料を欠き、従って正確な生涯成績を出すことはできないのだが、順位戦の星だけははっきりしている。ここで「A級順位戦」の成績を出してみよう。同点決勝はふくまない。
昭和22年度から52年度まで在位。
うち、名人2期、休場7期、順位戦なし1期を除いて出場21期であるが、140勝53敗(0.725)の高い勝率を残した。
負け越しは、最後に出場した50年度の4勝5敗がただ一度あるだけで、それまでは一番勝率の低い年で5勝3敗だった。
むろんこの記録は自慢であって、3勝6敗の星でA級に残留した時の塚田などは、
「あんたは楽でええなあ。3番だけ勝ちゃ、一年いばって暮らせるんだから」
きついことを言われて熱くなっていたものである。病気休場をすると人間が丸くなっていかん、などと言う升田だが、毒舌の方はいよいよ冴えてきた。
(続く)