皆さま
ネット界隈を眺めてみると、縄文時代の日本はすばらしかった的な調子の言説や動画がたくさんあります。
私たちは、これまでにいくつか縄文時代のものとされる遺跡についてサイコメトリーを実施したことがありますが、一般に流布されているような「素晴らしき縄文時代」というイメージとはまったく異なる情報を得ています。
今回は縄文時代礼賛に対して、巫師の立場からコメントをしたいと思います。
よろしくお付き合いくださいませ。
縄文時代礼賛論
日本の縄文時代(約14,000~3000年前)は、その独特な文化と技術の高さで知られており、多くの魅力的な特徴を持っています。この時代を特徴づける要素のいくつかを挙げると、次のようになります。
1. 土器の立体装飾
縄文時代の土器には立体的な装飾が施されており、これは単なる容器の枠を超えた芸術作品ともいえるでしょう。土器には複雑な文様や装飾が施され、その造形美は世界の土器文化の中でも際立っています。これらの土器は道具としてだけでなく、当時の人々の高い技術力と豊かな感性を示す証拠です。
2. 定住生活
縄文時代の人々は、狩猟採集社会でありながらも基本的に定住生活を営んでいました。これは彼らが、自然環境に適応しながらも集落を形成し、社会全体の知識や文化を蓄積していたことを意味します。この定住によって複雑な祭祀や儀礼を持つ文化が発達し、縄文社会の特徴的な側面を形成しました。
3. 精巧な道具
縄文時代の人々が作り出した道具は、現代の視点から見ても驚くほど精巧です。調理や食事に使う土器、狩猟に用いる矢じりや石槍、漁に使う釣り針や重り、木を切るための石斧、服や漁網を縫うための針など、多岐にわたる道具が高い技術で作られています。これらの道具は、当時の人々の生活を支えた重要な要素であり、彼らの技術の高さを物語っています。
4. 漆塗りの器や櫛
低湿地遺跡からは、漆塗りの器や櫛などの装身具が出土しています。これらの漆器は腐りやすい素材であるにもかかわらず、長い年月を経ても美しく残っており、赤と黒を使い分けた精巧な彩色が施されています。このことは、縄文時代の人々が高度な漆加工技術を持ち、装飾品に対する美的センスを有していたことを示しています。
5. 植物で編んだ籠
縄文時代の籠は、麻やイラクサなどの植物繊維を使って丁寧に編まれていました。この技術は現代にも劣らないもので、当時の人々が持っていた高い技術力を示しています。これらの籠は、日常生活において重要な役割を果たし、彼らの暮らしを支えました。
6. 共同生活
縄文時代の社会は、食べ物を協力して得て、獲ったものや育てたものをみんなで処理し保存する共同生活を営んでいました。リーダーや長老が中心となり、助け合いの精神に基づく社会が形成されていたと考えられています。このような共同体のあり方は、身分や貧富の差が少なく、弱い者への助力が行き届いた、包容力のある社会を象徴しています。世界的に見ても、新石器時代の定住文化は通常農耕を基盤としていますが、縄文文化は本格的な農耕や牧畜を持たないで定住を成し遂げており、その点で非常にユニークです。
このように、縄文時代の文化は、その技術的・芸術的な成果や社会構造において非常に高い評価を受けるべきものです。これらの特徴は、縄文時代の人々の優れた適応力と創造性を物語り、彼らの生活がいかに豊かであったかを示しています。縄文時代の文化を理解することで、私たちは人類の多様な歴史と文化の豊かさに改めて気づかされるのです。
縄文文化礼賛論に対する批判的見解
縄文文化に対する礼賛論は、その技術的・芸術的成果や社会構造の豊かさに焦点を当てますが、一方で批判的な視点もいくつか存在します。これらの批判は、歴史学的、考古学的な再評価の中で生まれており、縄文文化の礼賛が必ずしも全ての側面を正確に捉えているわけではないという立場を示しています。
1. 技術の限界と効率性の課題
縄文時代の土器や道具は確かに精巧であると言われますが、その製造には膨大な時間と労力がかかっていました。例えば、縄文土器の立体装飾は非常に美しいものの、実用性や効率性には疑問が残ります。これらの複雑な装飾は、実際の生活での使用には適しておらず、装飾に多くの労力を費やすことが必ずしも合理的であったとは言えません 。
2. 定住生活の限界
縄文文化は狩猟採集を基盤にした定住生活を特徴としますが、この定住は安定した農業に基づくものではありませんでした。そのため、食料の安定供給に依存せず、自然環境に強く依存した生活を送っていたため、気候や環境の変動に対して脆弱でした。実際、一部の研究では、寒冷期における食糧不足やそれに伴う社会の混乱が示唆されています 。
3. 経済的な発展の欠如
縄文文化は、狩猟採集社会としての生活を長く続けており、農耕社会に移行しなかったため、経済的な発展や人口の急増、都市化といった進展は見られませんでした。他の地域の同時代文化が農業を基盤に急速な発展を遂げたのに対し、縄文文化は技術的進歩や社会的発展において停滞していたと見る向きもあります 。
4. 社会構造の脆弱性
縄文時代の共同体は平等で助け合いの精神に基づく社会だったとされていますが、その共同体の規模は小さく、外的な脅威や環境変動に対する耐性が低かった可能性があります。また、現代の視点から見て平等な社会とされる一方で、実際には地位や役割の分化があったとされる研究もあり、完全な平等社会とは言い難い部分もあるようです 。
5. 文化的な停滞
縄文文化は、長期間にわたって狩猟採集に依存していたため、他の新石器時代文化と比較して技術革新や文化的進展が遅かったという指摘もあります。例えば、文字の発明や金属器の使用、交易の発展といった文化的進化が見られず、長期間にわたって文化的に停滞していたとされます 。
6. 比較視点からの評価
縄文文化の技術や芸術が独自性を持つことは評価できますが、世界的な視点で見ると、その独自性が必ずしも他文化と比較して優れているとは限りません。例えば、同時代のメソポタミアやエジプト文明では、より複雑な社会構造や高度な技術が発展していました。縄文文化の礼賛が、他文化と比較した場合の相対的な評価に基づいているかどうかは慎重に考える必要があります 。
このように、縄文文化の礼賛には多くの興味深い側面がありますが、それが必ずしも全ての点で称賛に値するわけではありません。技術や社会構造の評価は、当時の文脈や他の文化との比較において再評価されるべき点も多く、礼賛一辺倒の評価ではなく、批判的視点を交えて多角的に捉える必要があります。
巫師の視た縄文時代のリアル
たとえば、私たちは過去に高知県の縄文遺跡での「争い」について、サイコメトリーを行ったことがあります。
居徳遺跡の透視結果
この遺跡には3つの集団が関与している。
そのうちの2つは、もともとこの土地に居住していた先住者の集団である。あとの1つは、海の向こうから渡来してきた集団である。いずれも家族単位の小集団だったが、渡来集団は中国大陸ですでに使用されていた金属器の鋳造技術を知っていた。
まず、渡来集団が先住集団に彼らの知っている知識を伝授した。先住集団は彼らから先進的な技術を習得し、最初は渡来集団と仲良く暮らしていた。
しかし、ここで行き違いが出てくる。渡来集団は文化的に進んでいたため、やがて先住集団に対して勢力を誇るようになり、先住者に対して支配的な態度を取るようになった。先住者は服従しつつも、彼らの言いなりになることに対して反発も感じるようになった。
他方で、これほどまでに高度な知識を持っている渡来人を恐怖するようになった。このままだと自分たちに何をするかわからない、と得体の知れぬ恐怖を先住者たちは感じたのである。
先住者は渡来集団から教わった知識に基づいて道具を作り、その道具を使ってある日、襲撃をおこなった。数的に少数だった渡来集団の人々は次々に襲われ、殺害された。殺害した遺体は、最初、埋葬地に埋葬された。
ところが、その後天変地異が続発した。
先住者は、天変地異の原因を自分たちが殺した渡来者の「タタリ」のせいだと考えた。死者が甦って、自分たちを懲らしめに来ることを非常に恐怖した。そこで、急遽、先住者たちは埋葬地を掘り返し、遺体をバラバラに切断して、甦らないようにする必要があったのである。切り刻んだ遺体はゴミ捨て場に投げ込まれた。
こうした縄文時代の「戦闘」については、学術的な研究も行われています。
参考文献:内野那奈 2013 受傷人骨からみた縄文の争い 立命館大学人文学会,633,Pp.472–458.
この研究によれば、縄文時代の戦闘は、弥生時代のような大規模で組織化されたものではなく、小規模で未熟な戦術によるものでした。
この時代の戦闘は、狩猟の延長線上に位置づけられ、相対的に戦力が低い条件下で行われていました。狩猟用の技術や武器がそのまま戦闘に用いられたため、戦闘の規模も小さく、対立が激しかったとしても大規模な争いには発展しませんでした。
一方、弥生時代になると、戦術や武器が明確に人を標的とするものに変化し、集団の大規模化と共に戦闘の性質も大きく変わりました。
縄文時代には石斧が最も威力のある武器として用いられていましたが、弥生時代になると中国や朝鮮半島に由来する金属製の刀剣類(矛や戈、剣、刀など)が多く用いられるようになり、より効果的な殺傷が行われました。
このように、縄文時代の戦闘技術は狩猟技術の延長にあり、対人戦術としては未熟でしたが、弥生時代に向けて発展していく過程にあったといえます。
縄文時代の戦闘は社会構造や文化レベルに制約されたものであり、弥生時代の大規模な戦闘とは異なる性質を持っていました。しかし、縄文時代にも争いが確かに存在しており、その戦闘は単なる「けんか」とは異なるものとして位置づけることができます。
また、儀礼的殺傷の可能性についても議論がありますが、集成・分析された人骨の傷の性質や地域の違いから、儀礼的殺傷の可能性は低いと考えられます。
縄文時代の争いは多様な要因に基づいており、社会構造や文化レベルを考慮した分析が必要です。縄文時代は、社会組織と武器の制約があったものの、独自の戦闘行為が行われていた時代であると言えるでしょう。
その他にも、縄文時代の戦闘に関する証拠としては、以下のような特徴が挙げられてます。
1.縄文時代の遺跡からは、戦闘に関連すると思われる証拠がいくつか発見されています。例えば、人骨に見られる外傷や、集落の周囲に設けられた防御的な構造物などがその一例です。
2.縄文時代の武器としては、石器や骨で作られた矢じり、槍、そして斧などが見つかっています。これらは狩猟に使われていたと考えられますが、戦闘にも使用された可能性があります。
3.縄文時代は主に狩猟採集社会であったため、資源の確保や領土の防衛を巡って集団間の争いがあったと考えられています。特に資源が限られた地域では、集団間の競争が激しかった可能性があります。
4.一部の遺跡では、集落の周囲に堀や土塁、あるいは木製の柵などの防御施設が見つかっています。これらは敵の侵入を防ぐためのものと考えられています。
5.縄文時代の社会構造は比較的平等であったとされていますが、後期になると階層的な社会が形成されつつあったと考えられています。このような社会構造の変化に伴い、戦闘もより組織化されていった可能性があります。
こうしたことから、地域によって戦闘が生じた経緯は異なるものの、一般にイメージされているような「平和な縄文時代」というよりも、食料や縄張りをめぐる戦闘行為はあったと考えるのが妥当ですし、縄文時代でも後期になると階層の違いが出てきて、集団による戦闘行為も起こるようになっていました。
平和で平等な社会というイメージとは異なる厳しい現実がそこにはあったのです。
もう1点、対馬の志多留貝塚でおこなったサイコメトリーの例から考えてみます。
志多留貝塚(したるかいづか)は、対馬にある縄文時代後期から弥生、古墳時代にかけての遺跡です。
この場所は対馬でも最も古い遺跡の一つとして知られており、特に縄文時代後期(約4000年前)の貝塚が発見されています。志多留貝塚は単なる「ゴミ捨て場」ではなく、祭祀場としての役割を持っていたと考えられています。
サイコメトリーによって得られた情報によると、ここに住んでいた縄文人の祭祀は、茂地の木の枝に貝殻、魚の骨、木の実の殻など、人間が食べたものを掛けて神への感謝の祈りを捧げるものでした。
木の上の方には山の幸、下の方には海の幸を掛け、天の恵み、山の恵み、海の恵みが増えるように、また日が照り、風が穏やかで、海が荒れないようにと祈っていました。
この集落では、女性が祭祀を司っていました。彼女たちは幼い頃からシャーマンとして選ばれ、初潮を迎えると「神の妻」としてのイニシエーションを受けました。このイニシエーションは、目と喉を潰し、何も見えず、何も話せなくするというものでした。
これにより、心の眼を開き、余計なことを話さず秘密を守ることができるとされていました。巫女は神や人の声を聞く耳だけが必要とされ、人と神の間を取り次ぐ霊媒としての機能を果たしました。
志多留集落の人々は方角を非常に重視していました。病気を退散させる方向、死者の向かう方向、新しい魂がやってくる方向など、方角によって祭祀のやり方や祈りの内容が異なっていました。例えば、死者の供養においては、成仏を願うのではなく、死者の世界に送り返し、こちらの世界に戻ってこないように念じていました。
というように、女性シャーマンが中心となって、様々な祭祀を執り行っていたわけですが、最大の問題は食糧の安定供給に関するものでした。
縄文時代も晩期になると、気候変動による人口減少が起こっていて、日本列島に住んでいたと考えられる人々の人口は8万人弱と推定されています。
狩猟採集生活だけでは集落の食料確保が困難になり、生き残るために必死に祈りも捧げました。
同時に海の向こうからやってきた人々がもたらした農耕技術を受け入れて、水田稲作なども小規模ながら行うようになっていったのです。
厳しい自然環境にさらされ、乳幼児の生存率も低く、平均寿命も30歳程度という時代。
ましてや、40年も生きられるのは幸運なことでした。
縄文人骨の死亡年齢を調べると、最も多いのは20歳~30歳台前半で、60歳以上はほとんど見られません。女性の場合は、10代後半から20歳台での死がたいへん多く、出産に伴って命を落したことが推測できます。
そんな時代に現代を生きる私たちが身を置いたとするなら、どれほどの苦難が待ち受けているのか、容易に想像できるでしょう。生まれてから死ぬまでガチのサバイバル生活になります。
縄文時代の厳しい現実を再認識して、その時代を生きた人々に対する思いも新たにする必要があると私たちは考えます。
巫師麗月チャンネル
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