志多留地区の古代祭祀

貝塚は、縄文人が大量の貝殻や、獣・鳥・魚の骨、植物の種子などの食べかす、壊れた道具などを捨てた「ゴミ捨て場」だと考えられている。しかし、貝塚からは丁寧に埋葬された人骨やイヌの骨も出土している。このため、縄文人にとっての貝塚は、自然の恵みや道具に感謝するともに、供養と再生とを祈った「聖なる送り場」でもあったではないかという説もある。私は、この葬地=聖地説をとりたい。

 


志多留地区の高床式倉庫

 

志多留貝塚のある場所の茂地

 

茂地に倒れかけた鳥居が…

 

縄文時代の祭祀跡に建つ祠 ご神体は石


この集落には縄文時代後期から、弥生、古墳時代の遺跡がある。対馬でももっとも古い遺跡の見つかっている場所である。志多留貝塚は縄文時代後期(4000年前)の貝塚のある所で、単なる「ゴミ捨て場」ではなく、むしろ祭祀場としての貝塚だった。

サイコメトリーによって得られた情報では、ここに住んでいた縄文人の祭祀は、茂地の木の枝に貝殻、魚の骨、木の実の殻など、人間の食べたものを掛けて、神への感謝の祈りを捧げるというものだった。木の上の方には山の幸、下の方には海の幸をかけて奉っていた。その祈りとは、天の恵み、山の恵み、海の恵みが増え、また食べられるように、そして、日が照り、風がなぎ、海が荒れないようにと願っていた。

ここの祭祀を司っていたのは、女性である。彼女たちは幼いうちからシャーマンとして集落の子どもの中から選抜され、初潮を迎えたときに<神の妻>としてのイニシエーション(通過儀礼)を受けた。そのイニシエーションとは、目と喉を潰して、何も見えず、何も話せなくするというものであった。失明させることによって、心の眼を開眼し、声を奪うことによって、余計なことを話さず、秘密を守ることができる。神に仕える巫女には、人と神の間を取り次ぐ霊媒としての機能だけが要求され、神や人の声を聞く耳だけがあれば十分であると考えられた。肉眼は神の姿を感得するのにじゃまであり、託宣を依頼する人の姿を覚えることを回避する必要があった。こうして、巫女として選ばれた女性は、自分の一生を神事を執り行うための人生として捧げたのである。

志多留集落に住んでいた人は方角をとても気にしていた。病気を退散させる方向、死者の向かう方向、新しい魂がやってくる方向といった具合に、方角によって祭祀のやり方、祈りの内容も異なっていた。たとえば、死者の供養といっても「成仏してほしい」と思って祈るのではなく、死者の世界、黄泉の国に<送って>、戻ってこないように念じるというものであった。もっといえば、死んだ者が「こちらの世界」に甦ってくることを極度に恐れていた。

こうした呪術の痕跡を物的証拠によって裏付けることは困難であろう。ただ、志多留貝塚の発掘調査を通じて判明したことを重ね合わせてみると、


•多種類の貝殻、土器、魚類、ほ乳類、鳥類の骨、石器、骨角器、黒曜石が出土した。 


•縄文時代特有の屈葬による埋葬人骨が二体出土した。腕に貝輪をした老年男性である。頭には石が置かれていた。人骨は頭を北の方角に向けていた。 
 

•人骨と共に、珍しい貝殻、玉石、獣の牙で作った垂れ飾り、腕輪が出土しており、これらは呪いをするときに使う霊具であると思われる。それを着装した人物は呪術者であると考えられる。 


参考文献 永留久恵 1996 「海人たちの足跡」 白水社より

という記述があるので、少なくともこの貝塚自体が<送り>の葬地でもあり、呪術的な意味を持っていることは言える。

 

注意喚起:この記事の初出は平成22年(2010年)2月14日(日)です(旧ホームページに所収)。ブログ記事引用の際は、この記事のURLをリンクする、または明記してください。他サイトへの転載は、秦霊性心理研究所のメールアドレスまでご連絡くださると幸いに存じます。

 

秦霊性心理研究所 所長 はたの びゃっこ

 

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