皆さま

 

当ブログは、霊性(Spirituality)をキーワードに、魂の心理学、日本的霊性を大きな柱として、関連する話題を幅広く取り上げています。

 

今回は死と死後に関する問題について掘り下げて見たいと思います。私たち一族が経験的に蓄積してきた霊的叡知についても言及します。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

死して「ある」ことを忘れた現代人

 

死と死後、そして再生(転生)に関する命題は、形而上学に関わるものとしてアカデミックな世界では避けられてきたテーマですが、巫師という立場で物事を見るなら、人の生と死の問題に直接関わっているわけで、これは何千年も昔からの<叡智>として蓄積されているものがあります。

 

東洋の霊的叡智によれば、人間の存在形態は、生きて<ある>ことに加えて、死しても<ある>ことの両側面を含んでいます。

 

魂は肉体の死後も不死であるという信念は古代社会では常識であり、それを前提に世界観が構築されていたためです。

魂の不死性は東洋のみならず、西洋の古代思想(キリスト教信仰も含む)にも認められますが、この数百年の西洋化、現代化の流れは、私たちの思考パターンを、魂の存在を否定し、死を無になること、「死んだらすべて終わりだ」という発想に変化させてきました。

すなわち、文明化した社会では、死は生を一方的に破壊する単に否定的なものでしかなくなったわけです。


死は望まれない、不意の見知らぬ客として、恐怖の対象にされるようになったのが現代です。

 

生と死の接点が見失われ、死に対する心の準備ができなくなって、突然近づいてくる死の前に私たちは右往左往するだけになってしまったということもできるでしょう。

人間の「存在」とは「生きていること」と同義なのでしょうか?

 

現代においては、存在と生存は同じものだと認識されています。「存在すること」とは「生きていること」だという前提に立って全て説明されるのです。


人は、生きる意味や目的について考えようとしますが、死については「何もなくなる」ことに過ぎないと信じられているわけで、それを深く考えようとせずに遠ざけて見ようとしているのが現代人です。


存在とは生きて<ある>ことにほかならない、そして死はこの生きて<ある>ことを破壊し、生に対立するものであり、同時に<ある>ことを否定するものと現代社会では考えられているわけです。


ところが、この発想から、生命のない物質的な自然を軽視する態度が生まれてきたこともまた事実です。

 

つまり、自然を支配し、コントロールしようとすることです。

 

この態度が行き着く先は、効率的で人間にとって効果的な物理的自然の支配にたどり着きます。

 

物理的自然=外的自然を支配することによって、精神的な自然=内的自然が深く浸食されていくことになります。

魂の領域が侵され、魂の不死性について現代人は極めて鈍感になったのです。

 

これがスピリチュアルな感受性の鈍化の問題ともつながっていると、当ブログでは主張して参りました。


死が現世においてすべてを無に帰せしめるものであるとするなら、現世に生きてある私たちは当然ながらそれから目を背けようとします。

 

その結果、ますます人間は現世に執着するようになります。現世への執着はごく普通の態度になっていますが、それも人間存在を生きてあることと同一視する社会常識から生じているのです。

 

しかし、私たちが「当たり前だ」と思っている常識とは別の常識も実は存在します。それは伝統的な霊性に基づくものです。

伝統霊性、ないし伝統の叡智では、人間の死に対する自然な態度が残っています。それは、自分の死をまさに自分らしく死ぬために、人は生きている間にその準備を怠ってはならないとする態度のことです。

 

すなわち、死を思いつつ、いかに生きるべきかの問題と向き合うことなのです。

 

 

巫師一族の霊界物語

 

死んだらどうなるのか?

 

皆さまも一度は興味・関心を持ったテーマかもしれません。霊界、臨死体験、幽体離脱、言葉は知っているけど、本当に霊界が存在するのでしょうか。

どういう世界なのか、私たちの知り得た内容をお話しましょう。

世界中に臨死体験者が数多く存在します。

あの世を見た。霊界を見た。本やテレビなどマスコミが取り上げた番組もありました。臨死体験の研究者もいます。

しかし1つ疑問点があります。

どうして、国や民族によって「あの世」の風景や神々のイメージに違いがあるのでしょうか。

日本人の臨死体験者の多くは「三途の川」、「賽の河原」、「花畑」など共通している風景を見ています。

一方、外国人は文化によって異なりますが、イエスを見た、聖母マリアを見たなどと主張します。

どうして文化や民族の違いで霊界の様子が異なるのでしょうか。不思議ですね。

私たちの見解によれば、臨死体験者が見た「あの世」とは、生と死の中間の状態の意識体験をしたものと考えています。

厳密に言うと、臨死体験者に見える「異界」も存在するということです。

臨死体験者が見た世界は霊界の入口にある「中間界」と呼ばれているものです。これは霊界の手前にある、生から死へ向かう過渡的状態の1つなのです。

中間界は現世と繋がっています。

現世⇒中間界⇒霊界の順です。

 

そこから先には、生まれ変わりのプロセスもあって、魂のライフサイクルを構成しているものと考えられます。

心臓が止まったとしても生き返ったのなら「死者」にはなっていなかっただけです。

臨死体験者が見た世界は自分の記憶や想像の世界が交じっています。そう考えなければ説明がつきません。

人間は人間です。国が違っても魂に違いはないはずです。霊界の違いもないはずです。

臨死体験者が見た風景もすべて嘘だとは言えません。が、その中には自分の記憶が生み出した風景も含まれています。

自分に馴染みがないもの、キリスト教徒ではない人にとって教会やイエス、聖母マリア、天使は現れませんね。

ですが、三途の川や賽の河原のような風景、花畑を見たという日本人の臨死体験者は存在します。

これは生きていた時の見た物や聞いた話、また宗教の教えなどが、そのまま風景として見えるのです。地獄絵や仏教の教えが記憶に残り、賽の河原まで作り出してしまうのです。

光の渦や暗いトンネル。これも宗教の影響が見て取れます。たとえば、キリスト教圏では死後の世界は明るいイメージです。鐘。讃美歌。光。愛。

これに対し、日本では仏教の影響がり、寺。黒い鐘。お経。線香。光と言えばロウソク。墓などが連想されます。

日本人でキリスト教徒であっても、生まれも育ちも日本ならば、どこかで寺=葬式や墓場は見て育っています。それがその人の記憶に刻まれます。こうした記憶は消すことは不可能なのです。

現世から中間界に行く時のトンネルや渦のビジョンは、その人の産道通過の記憶も反映されます(帝王切開のケースは除く)。

このように、臨死体験のビジョンは、個人の主観的な過去の記憶、宗教、文化の影響を受けて多様性を持つのです。

 

自分の主観を通して外界にイメージを投影していると言い換えることもできます。
 

魂は胎内に宿った時から動き始めます。目、耳、鼻で感じ取り記憶されます。

ほとんどの人は胎内に宿った時に前世の記憶は消えますが、たまに前世の記憶を持ったまま、生まれてしまう人もいます。

 

これが転生型事例として知られているものです。

しかし、現世に段々と馴染んでくる年頃になると自然と前世の記憶は忘れてしまいます。だいたい、5-8歳くらいまでには前世の記憶は薄れていくか、忘れてしまいます。


中間界と現世は地続きです。霊界にいる先祖霊やその他の霊体も自由に往来できます。

臨死体験者の場合、まだ寿命が残っているから先祖霊や守護霊、神様の使いが現れて現世に導き、生き返るのです。

中間界の風景は様々です。中間界に留まろうとする意識があったり、また死の状況、すなわち事故や怪我、病気の状態に応じて現世に導く者が現れます。

簡単に説明すると、現世から産道を通り中間界に移行します。

 

生き返られない人間と生き返る人間は、現世であらかじめ決まっているのです。中間界で助かったのではありません。全て現世で決まった宿命なのです。

それでは、本当の霊界とはどのような特徴を持っているのでしょうか。

真の霊界に入るとすぐに「この世」には戻れません。ならば霊界のことが何故分かるのでしょうか。

中間界まで上がり霊界がどういう仕組みか、どのような世界なのか教えてもらうことになります。

中間界まで上がり、許しが出た霊魂か、あるいは神様のお使いに教えてもらうことになります。

自分の魂に刻まれた記憶が蘇り霊界に行ったときの魂が教えるのです。そして神様の使いと合わさり導きます。また鏡のように映し出されたりもします。

霊界は何もまとっていない素のままの世界です。嘘や騙しは通用しません。

素の世界ではその人の本性、本音しか出ません。しかも、霊界は反省と悟りの世界なのです。

また、天国、地獄などはありません。

仏教の教えで六道界の中に修羅道、餓鬼道、地獄道などがあります。ですが、霊界にはそのような世界は存在しません。

ここで書いていることは、私たちが学んだ教えであり他の宗教の教えを信じるな、と言っているのではありません。

あくまでも私たち巫師の一族が何度も経験し、また中間界に何度も行き来して納得したので話をしています。

素の世界と言っているのは悟ること。つまり、恨み、嫉妬、呪い、争い、憎しみ、未練をすべて絶ちきりましょう、という意味なのです。

現世の悟りと霊界の悟りとは意味が違います。

悲しみや苦しみ、憎しみを背負ったまま生まれ変わっても幸せにはなれません。

霊界では嫌な人間や顔も見たくない人間に引き合わされます。そこで、お互いを理解し、相手を許せるかどうかを「神様」から訊かれます。

そこで反省した死者や理解した死者は、さらに意識のレベルが上がります。それは高次の意識次元、天上界、神界、仏界などと呼ばれてきた意識領域への移行です。

会いたい人や好きだった人にも会えます。

相手が生まれ変わっていれば自分も生まれ変わり相手に会えます。相手が霊界にいれば生まれ変わる時機が来るまで楽しく過ごせます。

一方、魂の法則を理解できず、現世での行いを反省もしない死者は霊界で修行をさせられます。

 

それ以前に、自分が亡くなったことさえも自覚できない状態の人もいて、そのような人は「この世」にいたときの最期の状態のまま同じ場所に留まったり、誰かにすがり、ついていくこともあります。

 

とくに、死んだら終わりだと思っている人は、この期に及んでも、なかなか自分の置かれている状況が飲み込めないという事態に陥るのです。

 

 

霊界での修行は憎しみや恨みが消えるまで続きます。霊界で悟りを得て力もつけば、子孫や気になる人間の守護霊や背後霊、指導霊として守護している者が死ぬまで守り続けます。迷わず霊界に導く力がつくわけです。

いつまでも理解できず反省も出来ない魂の場合、強制的に生まれ変わります。

そして、生まれ変わってから、また憎い相手を探します。魂の記憶がありますから現世で魂同士が呼び合うのです。

ここで誤解をしてはいけないことは、恨みを晴らしたい人間の立場が来世では逆転してしまうことです。

恨みを晴らすつもりが相手に負ける結果になるのです。

簡単に言うと恨み辛み、争いごとは霊界で全て帳消し=リセットする決まりがあります。

霊界で前世の罪を帳消しにしない者は今度はやられる立場になるという事なのです。

通り魔、強盗や交通事故などの絡みは前世のカルマが影響している場合があります。

このように来世の幸福は現世での行いに全て繋がっています。

 

悪縁、良縁も全て、原則的には亡くなったあとに自分が決め、選んでいるのです。

生まれ変わって別の国に生まれ変わる事は不思議ではありません。また、現世で外国に生まれた人がなぜか日本が好きで日本に住むのは、前世が日本人だったからです。

幸せな記憶が強いから、再び日本に住むようになるのです。

また、やり残した事や強い思い入れがある人なら来世で行きたい国に生まれ変わるのです。

この辺は転生型事例の研究を見ても同様のエピソードが語られています。どこへ生まれ変わるかは原則として自由選択です。

霊界は素のままの世界です。ありのままの魂だけの世界なのです。

そこへ行くと、自分の前世を見ます。次に現世に生まれてから死ぬまでの状況を見ます。

現世で何故不幸だったか、苦しんだのかが納得出来ます。

それでも納得の行かない人間は生まれ変わり、「この世」でも修行をさせられるのです。

ですから、現世で争いを避け、慈悲の心に変われば子孫を守り導く立場になれるという事を忘れてはいけません。

霊界は穢れを受け付けない世界なのです。

子孫が先祖を大事にすると先祖も子孫を守ろうとします。墓参りや供え物をすれば先祖もお礼として何かを与えます。

自分の怒りを消そうと努力すれば味方が現れます。慈悲の心になれば運命まで変わります。

霊界は万物、万人を温かく迎えてくれる慈悲の世界であり、光の世界です。全てを受容してくれる場所です。

そこには花畑も木もありません。光に満ちあふれた空間です。

子孫が水や花を供えれば生前の記憶が蘇り、水や供え物を食べたり飲んだり出来るのです。

先祖から何も要求はしません。素のままの世界に欲は存在しないのです。

光に包まれた自然界の輪の中に霊界があります。霊界は自然界で成り立っています。癒しや安らぎ、落ち着く、気のパワーで作られています。

しかし人間はマイナスの気を発します。霊界に留まれない、あるいは留まりたくない人間は生まれ変わるしかないのです。霊界で争いや喧嘩は出来ないから、この世へ強制送還されます。

悟らせようと神や先祖霊が説得しても、その内容が穢れによって理解できなければ、すぐに生まれ変わり、また一から修行をさせられるのです。

霊界は地獄もあれば餓鬼もいると教えるのも少し違うような気がします。あの世、霊界は恐いところかも、と想像する人もいるのではないでしょうか。

罰が当たるとか、懲罰を与える神の概念は、人間の作り出した現世的な教えに過ぎません。

 

自分の行いを反省できないものは直ちに強制送還されて、立場逆転の苦しい来世を送るようになり、来世で罪穢れを償う運命になるのです。


これも自分が決め、選んだ道です。

霊界は死者の世界です。罪を償う世界は霊界ではなく現世なのです。輪廻しながら魂を磨くのです。

 

罪を償い自分を知る世界は現世なのです。

肉体は神さまからの借り物です。借りた体を大切にしながら幾多の苦難を乗り越えることです。

 

自分の放った言葉と一致した行動を伴っていれば、だれでも善人になれます。

励まされるより励ましてあげましょう。

お礼を言われるより、お礼を言いましょう。

腹が立てば哀れんであげましょう。

言いたい事を少しだけ控えてあげましょう。

それが優しさ、慈悲の心なのです。

 

霊界で学ぶ前に、今生きている中で準備をして、意識レベルを上げるための基礎を作りましょう。

人間が生み出す想念の魔物に左右されないようにしましょう。

魔物は「この世」にいます。

お金も魔物です。お金は人間を狂わせます。家族や親戚、友人さえ狂わせ争いを起こします。お金は恐い魔物であり因縁を作ります。死に金にならないよう使い方を考えましょう。

現世での努力と苦労は無駄になりません。

霊界は浄化、浄めの気のエネルギーで作られています。

なので死者に反省や理解をさせる場所だといえます。

人間の魂は元々、清く美しい慈悲の塊を持って生まれます。しかし現世の経験で穢れにまみれていき、変わってしまうことが多々あります。

本来の元の清らかな慈悲の魂に戻りなさいと教えられます。その教え主は自然神。万物を生んだ自然そのものです。

人間の魂は自然から生まれました。自然は美しく、癒されます。真の神とは自然そのものです。

自然の1つ1つ、山、川、木、植物、太陽や月、星、人間の魂も自然の気から出来ています。

恨みや呪い、穢れた心を浄化させる場所が本当の霊界です。だから意識や感情を持つ人間は霊界で心の雑念を払いましょうと教えられます。

 

これが素のままの世界と私たちが呼んでいるものです。

 

――――

 

註1.理解とは和解すること、許すこと、優しさ、いたわりの心を理解するという意味。

註2.誰がこの世への強制送還を判断するのか?天地万物の神。霊界は神の聖域内にある。基本的に転生は自由意志によるが、強制的にこの世へと送られるケースも存在する。

註3.真の神=自然神。モノには全て神が宿るというアニミズムに見られる心性の根本。真の神の使いには、日本で言えば観音様や宇賀神等、その神々の使い、眷属がある。宗教者や預言者と言えども神にはなれない。お使いにもなれない。自然こそが神の本質である。

 

註4.信仰深い人間。生前の罪等を反省した人間は、仏像や神仏に関係する品を欲しがる事はある。

註5.先祖因縁や祟り霊、怨念が強烈なケース。こういった霊魂は霊界には行かず、死んですぐに相手の血筋の者に取り憑く為、中々言うことを聞いてくれないし、悪霊化してしまう。


補足説明:霊界は、無限の広さをもった死者の魂を癒す場所。死者が見えるものと言えば光。万華鏡だと思えば良い。万華鏡のように様々な風景が見える。太陽や月、星も見える。あらゆる自然が万華鏡のように見える。


 山や木もあれば川ある。ただし見えるだけで手に取る事は出来ない。触る事も出来ないが現世の人間が供えたもの、花、線香、ロウソクは触れる。食べる事も出来る。現世にいる子孫や現世の人間の姿や声は墓や仏壇をを通して見えるし聞こえる。現世の人間の意識が霊界にいる先祖へ通じる。先祖供養や盆、彼岸、命日に現世の人間が供養する気持ちが霊界にいる先祖に通じて呼び合う。霊界に通じる道は墓、仏壇になる。また墓や仏壇がなくても現世の人間の心の中に道ができる。
 

 魂の生まれ変わりを表すように、霊界は死者が万華鏡の中に入っているような世界だ。この世にない風景や色に見える。山と木、川、滝が合わさったように見えたりもする。魂の浄化=現世の洗濯機や乾燥機のようなものである。

 

 

おわりに

 

このように、死して「ある」ことに関する霊的叡知は、人と自然との関係性について根本的に考え直す必要を私たちに迫るものでした。

 

それは、現代に生きる私たちを支配している物質主義的態度の限界を指摘するものでもあります。

 

そもそも、人間が物理的な自然(外的自然)の支配者であり、自然が人間のために神によって創造されたという考え方は、主にキリスト教の教えやその影響下にある西洋文化の中で形成されました。

この考え方の根源は、聖書の創世記に見られる神が人間に対して地上の生物を支配する権限を与えたという記述にさかのぼります。

 

創世記1:28では、「神は彼らに言われた、『地を治めよ、それを支配せよ。海の魚、空の鳥、地のすべての動くものを治めよ』」とあります。このような記述から、キリスト教徒は自然を支配し、利用する権利を神から与えられたものと理解してきました。

また、古代ギリシャの哲学者やローマの思想家たちの影響もあります。彼らは人間を理性的で自律的な存在と見なし、自然を征服し支配することを目指していました。

 

これらの思想はキリスト教と融合し、西洋文化における人間中心主義や自然支配の概念を形成する一因となりました。

さらに、産業革命以降の近代化の進展により、科学技術の発展や産業の拡大が自然環境への影響を増大させ、人間が自然を支配するという観念が強化されました。この時期には、自然資源の乱用や環境汚染などが顕著になり、人間の優越性と自然の征服がさらに強調されました。

これらの要因が組み合わさり、人間が自然の支配者であり、自然が人間のために神によって創造されたという考え方が形成されたと言えます。
 

自然科学的な世界観は人間が自然の支配者としての地位を確立する上で重要な役割を果たしました。科学的方法や技術の進歩によって、人間は自然を理解し、利用する能力を向上させ、自然界を支配するという観念を強化しました。

 

 

 

これに対し、人間と自然との間に支配ー服従という関係を想定しない思想や宗教にはどのようなものがあるのでしょうか?

1.アニミズム:自然や物体、現象に霊魂や意識が宿るとする信念です。最も原始的な宗教的心性です。アニミズムでは、自然界のすべての存在が生命力や尊厳を持ち、人間と同等またはそれ以上の存在と見なされます。したがって、人間と自然の関係は単なる支配-服従ではなく、むしろ共生的で相互依存的なものとして捉えられます。

2.シャーマニズム:霊的な力や存在が自然界に広く存在するとする宗教的信念体系です。シャーマニズムでは、人間と自然の間には相互作用があり、人間は自然と共に生きる一部と見なされます。シャーマニズムの実践者はしばしば自然との調和を重視し、自然現象や精霊との交流を大切にします。

 

3.仏教:一切の生命が同様に苦悩を経験し、互いにつながり合っているという「縁起の法」が重要な教義の一つです。仏教では、自然界のすべての存在が同等に尊重され、人間は自然との相互依存関係の中で生きるべき存在とされます。また、仏教では非暴力と慈悲の原則が重視されるため、自然環境への配慮が奨励されます。

これらの思想や宗教では、人間と自然の関係は支配-服従ではなく、むしろ共生的で相互依存的なものとして捉えられます。自然界のすべての存在は同等に尊重され、人間は自然と調和して共存することを目指すべき存在とされます。

 

私たちが古代の叡知を学び、古い時代の信仰や祭祀を探求してきたのも、このような理由によるところがあります。

 

(不定期に続く)

 

参考情報源

 

 

 

 

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