皆さま

 

生まれ変わりや鱗絵転生(輪廻転生)に関する見解は、世界の宗教や哲学によって異なります。以下に、いくつかの主要な宗教の立場を簡単に示します。

ヒンドゥー教…… ヒンドゥー教では、輪廻転生(サンサーラ)という概念が重要です。人々は魂(アートマン)が物質的な肉体から次の肉体へ移動し、それを通じて成長と精神的な進化を経験すると信じられています。善行や悪行によって魂の次の生まれ変わりが決まります。

仏教…… 仏教も輪廻転生の考え方を持っていますが、仏教では輪廻の終わりに到達して解脱(ニルヴァーナ)を得ることが目指されます。この解脱により、生死の連続したサイクルからの解放がもたらされます。

キリスト教……キリスト教においては、一般的に生まれ変わりや輪廻転生という考え方は受け入れられていません。キリスト教では、一度の人生があり、その後は死後の永遠の存在である天国や地獄に行くと信じられています。

これらの宗教における生まれ変わりや鱗絵転生に関する信念は、文化や伝統によってもさまざまです。そのため、特定の宗教内でも異なる見解や派生が存在する場合があります。

 

 

私たちは、初期仏教の教えに近いとされるチベット仏教について学ぶ機会を何度か得ました。それは主に僧侶向けの専門的な内容を含んではいましたが、仏教が人の生と死、そして死後の問題についてどのようにとらえているのか、さらに現世をいかに生きるべきなのかについて示唆に富む学びとなりました。

 

これからお話しすることは、チベット亡命政府のあるインド ダラムサラで過ごしたときの活動記録に基づいています。

 

かなりの長文となりますが、よろしくお付き合いくださいませ。
 

ヒマラヤ山脈を臨む

 

 

チベット死者の書に記されていること


チベット仏教には「埋蔵経」と呼ばれる膨大な文献があり、長い間、山中の洞窟などに隠されていると言う伝承があります。これは、神託や霊感を受けた修行者によって、時代の要請に応じて、必要な時に必要な経典が発見されて行くのだと言います。


「バルド・トドゥル(チベット死者の書)」は8-9世紀にチベット仏教の開祖が著した経典とされ、山中に秘められていたのを、14-15世紀に修行者が発見したと伝えられています。

 

 

 

 

 


「チベット死者の書」はチベット仏教に伝承されている死者の道案内をする為の経典で、 ①死の瞬間のバルド(死の直後)、②心と本体のバルド(死後3・4日して始まる)③再生のバルド(死後22日から始まる)の3段階に分かれています。


 

死を迎えようとする人の枕元に僧侶が座り、耳元で声に出してこの経典を読み聞かせます。


 

死者が荼毘(だび)に付された後も49日間毎日詠み続けられます。四十九日中有;中陰)というのは、この間に輪廻して生まれ変わってしまうという期限を指しています。チベット仏教では生命の本質は<心>であり、その心の本体は純粋な光だと考えています。


生きている間は、肉体も心も多層的な構造をとっているため、その本質の光明はなかなか現れません。
 

しかし、「チベット死者の書」では「呼吸がまさに止まろうとするその瞬間、意識が肉体の外に出て、死んでいるのか生きているのか良く分からなくなる。家族がそこに集まっているのが生きていた時と同じようにはっきり見え、泣く声も聞こえる。」と描写します。


経典は家族や親戚のものが泣き声や悲しみの言葉を発する事を戒めています。それは、死者の意識を混乱させるだけだと言うのです。


「そして死の直後に、純粋な光明が誰にでも現れて来る。これこそが生命の根源を作っている本質であり、宇宙のように広大で空虚で、中心も境界も無く、純粋でありのままの心なのだ。あなたはその心の状態を自覚し、その中に安らぎを見出す。」と説かれています。

 



たとえば、臨死体験(Near-Death Experience)をした人も同じような体験要素を語るわけですが、彼らはこれを「体外離脱体験、そして、まばゆい光とそれに包まれた時の幸福感」と表現します。

 

 

人間の目的は、心の奥底まで探求する事にあり、その意識の世界を自覚する事です。このように、チベット死者の書では、死とは人生の一部であり変容(トランスフォーメーション)に過ぎず、新たな目覚めへの出発点としてとらえているのです。

 


仏教では、生まれること、生きることは苦しみスピリチュアル・ペインはあるのが当たり前。老いること、病むこと、死に逝くことも苦しみを伴うと考えます。生まれ変わって来たこと自体が、魂のどこかに不完全さや、不徳の致すところがあったためです。

 

つまり、人生のデフォルト設定は「苦」であり、生きづらさの連続です。

 

 

バルドでは身体的な苦しみは一切が消え、純粋に意識だけの世界が現実を構成するようになります。このときの意識の保ち方が重要であり、幻影に惑わされると悟りに到達できなくなり、解脱に失敗して、また生まれ変わってきて苦しむことになります。

 

しかも、来世は人間に生まれるとは限りません。生前の行いが悪いと、人間どころか動物、動物の中でも人間に忌み嫌われる生物になります。

 

たとえ、人間に生まれ変わっても、生き地獄のような人生、争いごとばかりの人生、嫉妬や憎しみ、ドロドロの連続を経験することになります。

 

でも、それもバルドで自分の魂が自分で決めたことであり、自分が負うものです。他人のせいにはできないのです。すべては自分が招いたこと。日頃の行い=カルマの問題となります。


だから、どのような境遇に生まれても、何があっても、決してネガティブにならずに、それを乗り越えようと努力し、あるいは穏やかな気持ちになり、生きとし生けるものに慈悲の気持ち、利他的な行いを現世で積み重ねていけば、徳のポイントが増えて「特典」が付くようになります。

 

すなわち、現世をよりよく生きることが、バルドでの判決が有利になり、二度と生まれ変わらなくても(苦しまなくても)よくなる方法であると説くのです。


心や魂は、腹の中まで光に満ちたものになれば、徳が積まれたことになり、来世での幸福=浄土、涅槃の境地に達することになります。

 

逆に心の穢れや、タールにまみれた汚物だらけの腹(腹黒)の持ち主は、口先や顔でいくらきれい事を言って笑顔でいても「マイナスのカルマ」が蓄積されて、また生まれ変わってひどい境遇に宿命づけられることになるとされます。


死んで<ある>ことは、今ここを生きて<ある>ことに通じます。

 

今を一生懸命に、充実した心で、よき心で生きることは、死んだあとの「善い有様」(Well-Being)=幸福を決定づける条件になるのです。

 

生きることも、死ぬことも、どちらも人間の存在形態として「あるがまま」のことであり、それが「当たり前」のことだと信じられているのがチベット仏教の説く世界観です。
 

この死生観は以下のようにまとめることができます。

 

「私達の本質は生と死を超えて続く始まりも終わりも無い、そして生と死は別々に分かれているのではなくて、生も死も同じ1つのプロセス、つまり旅のようなものである。だからこそ、今のこの瞬間、瞬間を大切に過ごさなければ、本質には行き着かない単なる旅で終わってしまう。」

 

六道輪廻のタンカ

 

 

発菩提心について

 

菩提心(ぼだいしん)とは、菩提(悟り)を強く求める心のことです。略して「発心」(ほっしん)ともいいます。

 

悟りや智慧の獲得をめざして菩薩道を歩むことでもあり、仏教の修行を始めることであり、衆生(一般の人々)が成仏を願う心のことをさしています。

 

心の浄化のプロセスこそが悟りへの道であり、その過程で心の穢れ、すなわち煩悩を祓い、幸せへと向かうことができるといいます。

 

人間の持っている煩悩の中でも、無明こそがもっとも根本的な煩悩です。



無明とは「迷い」のこと。真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をさす概念。仏教思想では、すべての苦しみは、無明=迷いを原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅する。

 

 

また、無明は「我」を発生させる原因ともなります。

 

我=個人的自己というものが存在するという見解こそが無明となります。

 

我は無常であるものを常にあるものと見ようとするが、それが失われると苦しみを生じさせます。

 

また、無明以外にも私たちのもつ煩悩には怒りや報復、嫉妬、闘争心などがあります。これらも苦しみを発生させ、輪廻からの解脱を妨げる原因と考えるわけです。

三毒(さんどく)とは、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩のことです。それは人間の諸悪の根本原因と考えられているものとなります。



1.貪(とん):どん欲であること。はてしなくむさぼり求める心。
2.瞋(しん):怒りの心。
3.癡(ち):真理に対する無知の心。


 

なかでも、怒りや執着心は心の毒の中でも強力な煩悩です。執着は対象の誇張した部分を見せ、特にイヤなものを誇張して見せてしまいます。よって、これらを克服し、私たちが成仏していくためには、智慧の修行と慈悲の修行が必要となります。

 

 

ダラムサラ ナムギャル僧院

 

 

菩提心は利他心や思いやりの気持ちを持つことです。それはまた、すべてのものを悟りへと導いていこうと思う気持ちでもあります。

 

仏道の初心者がまず整えるべき心の条件とは、自分の心をかき乱すものを取り除くことに尽きます。心をかき乱すものが除去されて行くにつれて、永続する幸せの境地がどのようなものかが分かるようになっていきます。自分自身の悟りを求めることが、他者や命あるものを救済することにつながり、さらに他のものも悟りに導きたいと思うことで、菩提心は確立されると考えるのです。


万物には仏性がある。仏性とは仏になるための種である。その意味において、すべてが悟りの可能性を持っている。悟りとは、光明の心であり、われわれの個人的な心の背後を通底する微細意識(Subtle Conscious)に触れていくことである。汚れなき光り輝く心を自覚し、己の仏性に気づくこと。だれしもが修行すれば、仏陀になれる。心が最高に高められた状態をめざすべし。自分自身が悟りへと到達可能なものである事を知るべし。


このような心がけを修行者たちが持つことの重要性を説くのです。

 

 

慈悲のこころ

 

これが大乗の教えの根本です。その本質は「大いなる慈悲の心」です。簡単に言えば、自分の好きな人であれ、嫌いな人であれ、区別することなく受け入れること。

 

自分自身の苦しみから逃れる体験を積み重ねていくことで、それは達成されます。苦しみから逃れようとする気持ちは、有情を自分の母であると見なそうとする<まなざし>によって達成されます。苦しみは母性愛の不足から生じる。人の愛、他者からの愛情を受けることで、苦はなくなっていくと説きます。

今生の母と前世の母は、自分の敵だったかもしれないし味方だったかもしれません。これと同じ論理で、今の敵や味方もひょっとして前世の母の生まれ変わりかもしれないのだと考えてみたらどうでしょう?

 

 

 

前世から来世への意識の輪廻は、無常であることを瞑想すること。前世の敵は現世の友人かもしれないし、大好きな人が現世の敵になっている場合もあります。物事は常に移ろい行くものなのです。



仏教では、唯一絶対の創造主という概念を否定します。そして、すべての事象は自分の行い(カルマ)によって為してきた結果であると考えます。

 

 

人の煩悩が争いごとの原因となります。相手をやっつけようという想いや、争いごとが生じたときに他人のせいにしたがることも、自分の煩悩から生じる結果です。好きな人と嫌いな人と平等に見なし、偏見に基づいた心を正す行いが求められます。いたずらに物事や人に愛着するのではなく、それを一種の執着と見て捨てることも重要だと考えるわけです。


母への恩返しは、俗世における母へのそれはもちろんのこと、「母なる人」に対する世界的なレベルでの恩返しを行うのだという想いを起こすことが慈悲の心である。すべての苦しみにあえいでいる人への恩返しを心がけよ。

 

また、万物、すべての事象には「実体」がない、という仏教の智慧、すなわち「空」と「無我」(No Self)を体得することもまた仏教を学ぶ者には求められます。一切知(完全な智慧)に至るためには、まず煩悩による障害(煩悩の残り香)を滅していき、周囲の物事によって感情を取り乱すことも乗り越えていく必要もあると説きます。

利己的な想いは完全な智慧への妨げとなる。自分よりも他者の生を大切にすること。自分も他人も幸せを望んでいる権利を持っているという点において同等であることを自覚せよ。利他行とは、自分を幸せにしようと思うならば他者を幸せにしようとすることである。自我がその妨げとなる。

 

自我を捨てるとは?

1.生きとし生けるものを自分の母と見なすこと
2.それに対して「恩返し」をすること
3.愛おしく思うこと
4.慈悲の心を抱くこと
5.苦しみを持っている人を救済すること
6.菩提心を持つこと

 

 

仏道と修行について

仏の教えは、耳から聞かせることで、師から弟子へと口承されてきたものです。


修行者が重んじるべきことは



1.修行…まず実践すること
2.戒律…修行を進めるに当たって守るべき事を守ること
3.禅定…心を統一して瞑想し、真理を観察すること またそれによって心身ともに動揺することがなくなり、安定した状態を得ること
4.智慧…仏教におけるいろいろの修行の結果として得られた悟りの智慧


の4つです。

お釈迦様の教えや言葉には、額面通りに受け取ってよいものと注釈の必要なものとに分かれます。それを学ぶことは、外界の向上、改善のためにだけではなく、内界の資質の向上のためであることは言うまでもありません。

修行は、①師から教えを聞く、②師から聞いた内容を自分の頭で考え、著書(経典)を深く勉強する、これにより深めることができます。

 

 

龍樹(ナーガールジュナ)

 

21世紀の仏教は、2500年前の教えを鵜呑みにするのではなく、それを現代的に活かすことで確立されると考えます。師の教えの中でも「法」を聞くことが重要。灌頂を受けたり、単に信心するだけでは不十分。そして、学んだことを自分で実践することによって、真理は実現される。自分の心を高め、そして実践すること。

 

その行いの積み重ねが重んじられるのです。

 

布施行や法を授かるとは、正直な心、人のためを思い純粋な気持ちになることです。困っている人に施すという意味においては、NPOやNGOもまた布施行の一種と見なすことができます。

 

その場合も、あくまでも何のために活動するのか、動機が問われます。個人、社会、国家はいずれも<相互依存性>の上に成り立っています。自分が幸せになれば、周りはどうでもよいと考えるのではなく、人も幸せになるという利他心を起こすことが修行の目的だと修行僧たちは教えられます。

仏教の戒律は守るべき基本中の基本。自分の過ちを悔いる反省を怠らず、それを償っていけば、地獄や不幸な来世に生まれ変わることもなくなると修行僧たちは教えられます。

戒律の中で重要なものは

1.有情を見捨てる事なかれ

2.間違った見解を持つ事なかれ

3.菩薩道を進む者に対して悪意を持つ事なかれ

4.菩薩心を衰退させたり、善き心を持っているに敵意を持つことは大きな罪になる

5.これらのことを「命がけ」で守っていくことが必要である。それほどに強い思いを抱き続けることが肝心である。仮に戒律を破り、間違いを犯しても、もう一度チャンスがあることを忘れてはならない


ただ、自分の過ちを償うことはできるが、それを前提で戒律を破ってもよいと考えることは、償うことのできないできない破戒となることを忘れてはなりません。

菩薩行とは

1.心の勇気

2.固い決意

3.命にかけても守ります


という仏道への完全なコミットメントを形成することで達成されていきます。それが菩薩行を行う者の善き来世につながり、徳を積むことにもつながるのです。

修行には、身体行を重視する宗派、マントラ(真言)を唱えることを重んじる宗派、「自然の音」に耳を傾けさせる宗教もあります。

 

しかし、修行には金の仏も、最高な仏壇も不要です。たとえ立派な仏壇がなくても、何も持っていなくても、「気持ち」さえあれば、あるいは仏を想像するだけでもOKなのです。

 

金の仏や立派な仏壇を持っていても、それだけで徳を積んだか、不徳を為しているかは分かりません。

 

「空」を理解する心と、物事は無常であることを知っていなければ、いくら形式だけの行いをしても、何にもなりません。マニ車を回しながら、怒りの言葉を発したり、人を傷つけることを言うのは不徳以外の何者でもありません。


巨大なマニ車


負のカルマについて


身、口、意のカルマ(行い)の中でも、「意」の行いの間違いは重大です。

 

外見の良さ、見かけの好ましさではなく、「意」すなわち<心の行い>が正されなければ、いくら数珠をくろうが、マントラを唱えようが、マニ車を回そうが無意味。

 

特に、怒り、執着、傲慢、競争心などの煩悩を除去し、心を努力して高め、清らかな心を保つことで、功徳を施していくことが修行僧には求められます。

強い決意を抱くことに関して言えば、師の犯す間違いは大きな不徳となります。

 

師の立場にある者は、権威を自分自身の手中に収めているわけであり、それを袈裟に着て権力に溺れる者もいます。

 

常に自分自身を見張り、自分の言動を正そうとする注意深さが必要です。

 

何も持っていない人ほど、傲慢さや競争心はないからです。

 

それゆえ、権力、経済力、社会的地位の高い人ほど、気をつけなさい。

 

自我の増長に陥る危険性があるためです。

一度、三悪趣に陥ると、上に上がるのは苦労が大きくなります。

 

 

三悪趣

三悪趣(さんあくしゅ)とは、仏教において悪行を重ねた人間が死後に堕ちるとされている「地獄道」・「畜生道」・「餓鬼道」の総称である。「五趣」と呼ばれる世界(六道から後世発生したと言われている「修羅道」を除いたもの)のうち、人間が生前に犯した下劣な振る舞いの果報としてその罪悪によって、死後に苦しい生活を送る事になる場所である。地獄道では猛火に焼かれ(火途)、畜生道では刃物に脅され(刀途)、餓鬼道では互いに食い合う(血途)事になるとされている。

 


だから、下に落ちないように努力しなさい。
私たちの「生」には、いつか終わりがあります。

今すぐに善き行い(カルマ)を実践しなさい。

今、この時を無駄にしてはならない。

 

明日、明後日は来るかどうかは分からない(チベットのことわざ)

 

私たちはいつ死ぬか分からないのだし、この生はいつ失われるのかもしれないのです。

 

執着のすべてが「悪いカルマ」になるとは言えません。悟りを得たい。物事を理解したい。といった善き心に基づく執着は悪しきものとは言えない。

 

しかし、怒りと競争心は明白に悪い行い(カルマ)になります。

 



煩悩とは、心の内にある敵です。

 

自分を苦しめている本当の敵は、外側にではなく内側にあるのです。

 

しかし、自分の敵視しているものは、実体を伴わないものです。

自分自身の内側から発しているものを実体視することもまた苦しみの原因となります。

執着はまるで友人のように自分の前に現れます。

 

すなわち、私たちは魅力的だと感じるもの(対象物)に執着を覚えるので、それが敵であるとは認識しにくいのです。

しかし、そのような認識を育てることもまた、煩悩を除外するために必要なことであると修行僧たちは教えられます。

修行とは、心の連続体(微細意識)の流れを鎮めることです。

 

それを鎮めるとは煩悩を除去することに他ならない。

 

愛と慈悲は、怒りという煩悩への対処法にはなるが、執着に対する対策にはならない。

空を理解する智慧は、無明の心を晴らすものである。煩悩をなくしたいと強く思うことはその第一歩となる。



以上、僧侶向けの法話ということもあってかなり難解かつ含蓄深いものでしたが、専門用語はメモした内容をあとから調べて確認しました。


おわりに:怒らないこと


深い祈りの後、法話が再開されました。

布施や供養もたった1つの怒りの心で破壊されてしまう。いくら功徳を積んでいても、怒りの心が生じれば、それは瞬時に打ち砕かれる。

 

対象物をあるがままに認識すること、正しい認知を形成するにはどうすればいいのか?

1.開かれた心を持つ
2.自分に正直になる
3.偏見をなくす
4.平等に物事を見る


このような態度で、怒りを起こす原因は何か、醒めた目で分析し、理解することが必要です。

 

不愉快な気持ちや小さな怒りの段階で、吹き消すようにしよう。

 

怒りは不幸の始まりだからだ。

 

小さな怒りも積もり積もると、大きな怒りとなって攻撃性を増長させることになる。

 

自分に怒りを起こす人についても、それは相手の煩悩の結果であると考え、慈悲の心で対処しよう。

 

怒りを起こす相手には忍耐することも大切であり、嫌悪感を感じないように心を鎮めよう。

仏道の修行を行うものは、必要以上に喜ぶこともなく、怒ることもあってはならない。

 

取り乱すようなことは無意味。

 

いつも穏やかな心を持ち、苦しみに惑わされずに静かに耐えることが求められる。

 

敵がいるということは、忍耐を覚えることのチャンスである。

 

これは、病や悲惨な状況におかれた場合にも同じ。

 

小さな苦しみに慣れることで、大きな苦しみにも耐えることができるようになるのである。


ナムギャル僧院内での法話の様子

 

 

この一連の法話は、非常に示唆に富んだものとなりました。

 

 

いちばん腑に落ちたことは、負の感情の連鎖こそが、自分の煩悩の増幅にもなるわけであり、破壊的な感情にとらわれることなく、相手の煩悩を推し量りながら、その怒りの炎を吹き消すようなどっしりと腰の据わった態度で迎え入れたらよいのだということでした。

 

くじけることのない強い心を保ちながら、生きとし生けるものを慈しみ、哀れむ気持ちで接していくことが問われているのでしょう。

仏教では、死によって魂が肉体を離れて新しい体に生まれ変わり、車輪のように生と死を繰り返していくと考えられています。次の生を受けるとき、前世の行いによってどの世界に生まれるかが決まるというのが基本的な考え方です。

 

来世を信じることは、現世を大事にすることであるという死生観がチベット人の社会には浸透していました。

 

 

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