皆さま
私たち一族の中には、過去4度にわたる臨床死に見舞われ、その度にいわゆる「臨死体験」(NDE:Near Death Experiences)をしている者が何人もいます。
ある者は4回も臨死体験を経験していて、4回目に経験した内容は非常にレアなケースとして特筆すべき特徴を持っています。
臨死体験については、過去記事を参照して下さい。
その体験要素を一覧表にまとめておきます。
臨死体験の要素
1.言葉では表現することが困難である
2.自分の死の宣告が聞こえる
3.心の安らぎと静けさに満ちている
4.耳障りな音が聞こえる
5.暗いトンネルを通過する
6.物理的肉体を離れる
7.自分に霊的肉体が備わっている
8.他の霊的存在と出会う
9.輝く光を見たり、それに近づいていく
10.自分の生涯の振り返りを行う
11.「この世」と「あの世」の境界に近づく
12.蘇生する
これが大筋ですが、大別すると「体外離脱型NDE」と「超俗型NDE」に分類することができます。
これからお伝えする巫師(女性70代)の事例は、上記の全ての要素を網羅した、いやそれ以上のものを持っているものです。公開できる範囲で得た情報を披露することにいたします。
1.意識を失い昏睡状態になり、再び意識が戻るまで3日間。
2.その間、何度も心停止状態に陥る。
3.臨死体験は、7分間にも及ぶ心停止の時に発生した。客観的所見は7分だが、体験者にとってはそれが3−4年もあの世にいたように感じられたという。
4.医師が死亡確認をし、計器類を外し、看護師たちが死後処置の準備を始めた時に、突然蘇生した。医師は「あり得ない」という言葉を連発していたという。
5.7分間の「死」の間に彼女は彼岸と此岸を隔てるいわゆる「三途の川」を見ている。これは見慣れた風景である。過去3回とも同じ風景を見ているからだ。しかし、4回目の体験の時には、三途の川を渡してくれる船と船頭の姿が見あたらなかったという。というのも、3回目の体験の時、彼岸に大勢の肉親や友人(全員がすでに他界している人々)がいて、此岸には渡し船と船頭がいたのだが、「まだあちらに行く時期ではない」と思い、船頭にケリを入れて追い返したというエピソードもある。
6.超俗的世界に移動するときに細道があり、周囲は大木が覆い茂り、金色に輝くピラミッド状の山々が連なっていたという。道を歩いて行くと、まるで道先案内をするかのように大木が大きく揺れて風を起こし、木の枝が進路を差し示した。
7.たどり着いた先には多くの門があった。門の上部にはシンボルがあり、シンボルの下に文字が書いてあったという。彼女は片っ端から門を開けようとしたが、自分が開けられたのは十三仏の仏のシンボルのある門だけだった。他の門には見慣れない文字が刻まれており、外国人とおぼしき死者が続々と入っていくのを目にした。
8.門の扉を開けると、そこには様々な色に変化する草花が咲き乱れ、空には翼のはえた「天使」(全員が金髪で瞳はブルー)が飛び交い、川ではユダヤ/キリスト教的「洗礼」をしている人の姿も目にした。そこは世界中の宗教が説く超俗的世界を見て取ることができたという。
9.天上の一点から光が差し込み、それがみるみる大きな光の帯となり、白衣を着た女神が降りてきた。
<女神>との対話
女神:「我は汝の信仰する神の化身なり。汝を怖がらせないようにするために人の姿で顕れた」
一族:「私には何も恐いものはありません。本当の姿を見せて下さい」
女神:「それ(本体)を汝に見せるわけにはいかぬ」
一族:「解りました。では、どうしてあなた様はここにお見えになったのですか?」
女神:「汝にこのまま死ぬか、生き返るかの選択を示すためだ。どちらを選ぶかは汝が決めること」
一族:「このまま死ねば、どのような場所に行けるのですか?」
女神:「こちらを見よ。(と向かって右側を指し示すと)虹色に色が変化する巨大な神殿群のビジョンが顕れた。(古今東西の様々な形状の神殿に見えた) ここで死者たちは安寧に暮らし、生まれ変わるべきものは次の人生のための心の準備をする場所に行くことになるであろう。」
女神:「しかし、汝には今生でやり残した仕事が残っておるであろう。下界に戻って仕事を完成させる選択もある。」
一族:「少し考えるお時間を頂戴できますか?」
女神:「よかろう。よく考えるがよい。」
ここで、彼女が現世に生まれてから死に至るまでの全ての出来事がまるで走馬燈のようにフラッシュバックした。ついで、彼女が幾多もの過去生でどのような行いをしてきたのか、全ての人生における出来事のフラッシュバックが始まった。それらを全て見せつけられ、自分にはまだ<未完の仕事>があることを悟った。
一族:「よく分かりました。私にはまだやり遂げていない使命があることを知りました。」
女神:「それでは、汝に下界に戻る猶予を与えよう。(と向かって左側を指し示すと暗くて薄汚れた洞窟のようなものが見えた) ここが下界に戻るための入り口である」
一族:「解りました。私が戻ってすぐ命を奪うようなことはされませんね?」
女神:「神は真なり、まったき善なり」
一族:「本当に未完の仕事をやり遂げるまで寿命を延ばして下さるのですね?」
女神:「約束しよう」
彼女が下界に戻る前に、女神から次のような示唆が与えられました。その内容を口述筆記したものがあるので示しておきます。
(1)人の死は存在様式の変容に過ぎない。ただし、人によって死後向かう場所のビジョンは異なる(つまり自己の意識の投影された世界)。しかし、どのようなビジョンであれ、そこは「同じ場所」(時空を越えた場というべきだろう)にある。
(2)世界中の宗教は神の教えを正しく伝えていない。まして、自らが生き神、生き仏であるかのような言動を吐いたり、きれい事ばかりを説教して、自分はそれと逆のことをしている宗教者に対して、世界中の神々が怒っている。
(3) 同様に人類の有様を見て世界中の神々が怒っている。(それがどのような現象になって現れるかについて女神は彼女に口止めをした)
一人一人の心の中に神仏はある。
同時に自然、宇宙は神仏の創造したものであり、人間の内側にも外側にも神仏はあります。邪気、邪念、邪心を持たない天真爛漫な幼子のような心を一人一人が取り戻し、実践していくことが、今求められているのでしょう。
考察とまとめ
このような事例は、これまで「魂のライフサイクル」シリーズの記事で述べてきた転生型事例の研究、特に「中間生の記憶」の報告とも一致点を見いだすことができます。
これを個人の主観的な体験として受け流すことは簡単です。
しかし、体験者本人の体験のリアリティ(心理的現実)としてみなすならば、留意した方が良いポイントが出てきます。
つまり、それを体験したときに驚いた、恐怖を感じた、感動したなどの主観的要素にもっと着目していくと分かってくることもあります。
そのような例として、フランスの哲学者、アンリ・ベルグソンが1913年にイギリスの心霊研究協会で行った講演をあげることができます。
ベルグソンはある女性が自分の夫が戦場で死ぬときの光景を幻視し、そのときの様子が後で行った調査で事実であることが判明した、というケースを披露しました。
この報告に対し、ある医学者が批判をしました。このケースが透視やテレパシーの存在を裏づけているとはいえない。なぜなら、世の多くの妻は、自分の夫が元気でいるときにも、死んだり死にかけたりする夢を見ることがあるためだと。
ようするに、事実と一致した幻覚(確証例)だけに注目するのではなく、事実に不一致の幻覚(反証例)についても資料を集めてみる必要がある。そうすれば、このケースが偶然の一致だということがわかるはずであると。
しかし、ベルグソンが重視したのは、偶然の一致という確率の問題ではなく、その女性が夫のリアルな幻覚を体験したときの「衝撃の強さ」だったのです。
こうした要素は合理主義に根ざした物質主義的な科学では無視されてしまうものです。体験者のショックや恐怖、驚き、感動といったものは、単なる主観的感情であって、客観的事実とは何らの関係もないとされてしまうからです。
このような科学の姿勢は、特に「死の問題」を考えるときに大きな障害になって立ちはだかってきます。
科学がとらえる死とは「三人称の死」です。
これは自分とは無関係な他人の死であり、本日の交通事故による死亡者の数、というように数字で表される客観的事実のことです。
そのような数字を見ても何の感情もリアリティも伴いません。
これに対して、私たちが経験する死は「二人称の死」や、「一人称の死」です。
二人称の死とは配偶者や親、親友といった自分にとって身近な人々の死です。そのような人々が自分の目の前で死んでいくとき、私たちの心に強い感情的なリアリティをもって経験されることでしょう。
また、ときには自分でも説明できない「胸騒ぎ」や「イヤな予感」を感じ、後になって身近な人の訃報を耳にすることもあります。それがさらには親しい人の「死ぬビジョン」だったり、「夢の中での死」だったりすると、一層リアリティは増すはずです。
そして「一人称の死」=これは自分自身の死です。
「死の体験」にどれほどのリアリティがあるのか実際死んでみないとわからないのでしょうが、臨死体験者の報告を見る限り、「自分が死んだ」ということが強烈なリアリティをもって実感されていることは確かです。
当ブログが大切にしている視点は、このような主観的体験もまたリアリティの1つの側面だということであり、外部から観察されないからといって「リアルではない」と断定してしまう科学的唯物論とは一線を画すものです。
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