「常陸の国神様日記・天岩戸開き研究会」

 

 

天岩戸岩戸開き研究会のメンバーとの、

メッセージ+のログです。

不思議な神霊の世界の実話です。

 

 
 

 

 

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★幸福への提言ー執着を捨てる生き方


<人間は浄化の場>

 

「幸せとは何か?」という問いかけがありますよね。
人それぞれに答えがあります。

例えばこんな感じ、

「家族みんなが恙無く暮らせることが何よりの幸せ」

「平穏無事ないつもの毎日が一番」

「とにかく仕事が在れば何とかなる」

「とりあえず、宝くじを当てたい」

この回答をよく考えると、幸せって、自分が置かれている状態や

環境に対して言っていることなのでしょうか?

自分の欲求が満足されていて、無事に暮らせる状態を幸せというのでしょうか?

 

こんな例はどうでしょう、

三十過ぎの青年A君、彼は親に言われるままに良い大学を出て、

上場企業に入ったのですが、何故か突然退職してしまい、そのままニートをやっています。

初めは早く次の就職先を探そうと頑張っていましたが、

ふと気がついたのです、いのままでも良いのかも知れないと。

親が何でもしてくれるので、無職でも良いわけです。

今仕事をしなければならないという必然性が無いのです。 

A君は、親の機嫌を取りながらしばらくブラブラ暮らすことになりました。 

彼に「貴方は幸せなの?」とたずねたら

「少しも幸せではない、こんな自分になったのは親の責任。

 だから親は俺の面倒をみて当然なんだ」

何と勝手な言い分でしょう。 でも実際にA君みたいな人物が居たのです。

A君は、親と暮らしている限り幸せでは無い、と思っていますが、

ニートの身分を止めるつもりはありません。楽な暮らしですからね。

A君は、働かなくても親の資産で老後も暮らせます。 

派手に遊ばない限りは平穏に人生を送れます。でも本人は幸せだとは思っていません。 

彼は、自分の居場所が無い、と感じているのです。

職場にも、家庭にも自分を必要としてくれる人は居ない、

「自分は居ても居なくても良い存在だ」という考えがいつも頭の中にあり、

その強迫観念のような想念が、A君の周りに取り巻居ていました。 

どうしてそんな気持ちになるのでしょうか?彼が鬱だから? 

鬱と言ってしまえばそれまでですが、Aくんの発言は、

震災で大変な体験をしている皆さんにはまったくナンセンスで、話になりませんよね。

Aくんは、家族も生きているし、住む家もあるし、食べるのにも困らない。 

被災して何もかも失った人々から見ると、贅沢やわがままとしか映りません。 

実は、それはAくんも分かっているのです。でもどうしても仕事をする気持ちに成りません。

前向きな自分になれないのです。それは、幸せが無いからです。 

被災した人々よりまったく恵まれた暮らしをしていますが、

Aくんにとっては幸せではないのです。 つまり、幸せは、

物質的な環境に在るものでは無いと言うことですね。では幸せって何処にあるのでしょうか?


私は、一年間ほど歩けなくなったことがあります。

外はもちろん室内の移動も大変で、やっとトイレに行けるという状態でした。

座ることも出来ないので、和室の動作は苦労しました。

その時はアパートに住んでいて洋室は無かったので、畳に座らないと暮らせません。 

そこで時間があれば、膝を曲げて正座をする練習をしました。

もう一つ困ったことは、靴下を履いたり足の爪切が出来ないことです。

健常者なら何でも無いことですが、トイレに行ったり、座ったり靴下を履いたり、

日常の普通のことが、誰かに助けてもらわないと出来ません。 

しかし、当時は夫とは家庭内別居の状態で、実家も遠く、頼れる人が居ないので、

早く足を治そうと決意し、それから私は、毎日自分なりのリハビリをしました。

(整形外科のリハビリ室に務めていたことがあり治療法は熟知していました)

 

膝関節の周りを丹念にマッサージして柔らかくしながら曲げて行きます。 

痛いのを我慢して曲げ伸ばしを繰り返しました。一年くらい続けて、

少しずつ足の状態が良くなってきました。一番感激したのは、あまり時間を掛けないで

スッとトイレに行ける様になったことと、靴下を履けるようになったときです。

それまでは、靴下を履き替えるために身体を曲げると、大変な痛みだったので、

同じ靴下を何日も履いていました。

(それから20年たち、結局靴下を履くのがキツイのと、杖が必用になりました)

 

昔から「失ってみてそのものの大切さが分かる」といわれていますが、

正にそれを実感したのです。トイレに行くのも、靴下を履くのも、正座をするのも、

日常のありふれた行為ですが、それが出来なくなって、

身体が五体満足であることのありがたみが分かったのです。 

つまり、普通に暮らすことの幸せですかね。しかし、実はもっと深い意味があったのです。 

「失ったから大切さが分かった」のでは無いのです。 

執着がなくなったから、小さな幸せを感じることが出来るようになったのです。

もし執着があったなら、トイレに行けたくらいではうれしくないでしょう。

以前のような元気な身体にもどりたいと焦り、神や世間を恨んでしまいます。 

自殺願望があり、神を恨んでいる人は社会に対して執着していることが多いものです。

しかし、執着していないなら、自殺願望で悩まない。

何時死んでも良いけれど、自殺願望が原因でウツにはならないのです。

社会から自立しているので社会を恨まない。


それに気が付いたのは、3月11日の震災があって、自分自身も被災地区に住んで

直接体験し、熟考する機会が与えられたからです。

何かを失う、例えば破産して財産を失う、病気や怪我で身体の機能を失う、

大きな災害で家族を失う、など、元には戻せない大きな損失があり、心に傷を負っても

時間は流れていくものです。状況はどうであれ、時間の流れが人間を前進させます。

前向きでは無いにせよ「このままではダメだ、とにかく生活しなければ」

と言う気持ちに成ります。

 

私は、離婚して一人になったら、お金は生活保護をお願いするとして、

日常の動作を一人で出来るようになりたい、その一心でリハビリに励みました。

意地っ張りもありますが、今思うと、その時点で家族や仕事、

健康な身体に対する執着が無くなっていたのです。

「元の自分と同じにならなくてもいいから、取り合えず生活できるようになりたい 」

一端、現世的執着から離れて、どうやって生きていくか考え直し、

リハビリしかないと思ったのです。

つまり障害者になることで、執着が無くなったのです。ここで私が言いたいのは、

執着心が幸せを感じる心のチャンネルを閉ざしているという真実です。

心のチャンネルが閉じているというのは、霊的には大変重大な状態です。 

人の心は、神の光と物質界の波動が交じり合い、万物を浄化する場なのです。

その浄化の場を閉ざすというのはどういうことなのでしょうか? 

人間という存在が何故尊いのでしょうか?

それは、人間の魂と身体の中で、神の救済が行われているからです。

人は、神の力の媒体です。人間は神の力を、物質の世界に導く役目があり、

それこそが人間の存在意義なのです。


執着心によって心が閉ざされると、その役目を果たせなくなります。

自殺願望があり「早く死にたいのに、生かし続ける神を恨む」と言う人が多いですが、

その自殺願望に耐えて行き続ける事で、自殺霊を浄化しているのです。

つまり、いくら神に恨み言を言っても、生き続ける以上は、

神のお役に立ってしまうわけです。 逆に言うと、生きて行くこと自体が生きる意味なのです。

自分の生きる意味に疑問を持つ必要は無いのです。

 「霊性を高めなさい」「魂を浄化しなさい」と言いますが、正にこの仕組みを指していて、

人が自身において、神の光を物質界に放射し、この現世を明るく照らすことを言うのです。 神の光を媒介する人間は、隣人に対して、導きの灯台にならなければならないのです。


それは、このような事です、

生活するためにはお金が必要ですが、執着すると、お金のためにお金を欲しがります。 

「もっと欲しい」と思うようになります。

或いは、人よりも見栄を張りたくてお金が欲しくなります。

しかし、お金を稼ぐ本来の目的は生活をする為だったはずで、その生活は何のたか?

というと、社会に役立ち人のためになるため、何かの役に立つために生きている

という事ですよね。その何かの役に立ちたいという気持ちも、

心のチャンネルを開く切っ掛けになります。人のために何かしたい思いやりの気持ちは、

執着から離れて素直な気持ちになれるからです。

でも、執着を離すだけなら、瞑想や精神統一などの行で案外と上手く行きます。 

無になるということですが、それだけでは「幸せ」とは違うようです。

無になると、心は穏やかになりますが、より「幸せ」というわけでは無い。

人間は執着を無くすだけでは「幸せ」ではありません。

 


<執着を無くすと学びがある>

 

それを理解したのは、本格的にスピリチュアルカウンセリングを始めて、

様々な霊と交流するようになってからです。

真面目にスピリチュアルに取り組んでいる努力家には、

僧侶の霊が付いていることが多いのですが、本人も僧侶霊も霊格は高いのに、

何故かあまり幸せじゃないのです。僧侶霊は他界して二、三百年経つのに

「まだ修行中です」と言います。無欲で修行に励む。 

それ自体は悪いことではありませんが、何か違うな、と感じました。

僧侶や行者の霊は、生前は一生懸命修行して、そのままの意識で他界し、

霊界でも同じように修行しているようです。

彼らの目的は「世俗を離れ、欲を無くす」事ですが、

それなら障害者に生まれ変わると良いのです。 

障害者になれば、俗世の殆どのことをあきらめなければならなくなります。

地位も名誉もお金も無意味になり、セックスも出来なくなるので、

出家する必要がなくなります、と、ある僧侶霊に話すと

「カタワ者は未熟な人間なのだ」と言ってきたバカな霊が居ました。

この僧侶霊は、単純に修行すると業が無くなり徳を積めると思っているようです。


私は、自分自身が幸せか、不幸かということは考えたことは在りません。

でも、人生の中で一度だけ「自分は不幸だ!」と感じたことがあります。

それは高校三年の三学期で、進路を考えなければならない時でした。

それまではある大学を志望していて、共通一次に取り組んでいました。

その大学は自分でも自信が在ったので、必ず合格できると信じていたので、

もう入学する気持ちでいました。 しかし、願書の提出期限ギリギリで進路を変更し、

大学進学を諦めざるを得なくなりました。 当時は大変なショックでした。

今でも、年末のその時期になると思い出します。元々目が悪かったのですが、

気が付くと0.01になっていたのです。視力がガクンと落ちて、メガネを掛けているのに

最前列の席でも黒板の字が見えなくなっていました。

慌てて眼科に行くと「この視力は盲人のレベルだよ」と言われました。

病名は緑内障です。 それで大学進学を諦めたのです。

無理に行けば行けるとは思いますが、先が無いですから。 

大学を出ても、目が見えなくなっていたら、社会に出られなくなります。

それなら、失明しても身を立てられる盲学校に進もうと考えたのです。 

(私は親との確執があり、失明しても親に頼るつもりはありませんでした)

クラスメートは、みんな大学受験の追い込みです。 私一人だけ盲学校でした。

すごく落ち込みましたが「失明対策!盲人になっても自立するため」

と自分に言い聞かせました。それから盲学校入学の四月まで、

ツウツウとして毎日をすごしました。 

「自分は不幸。霊能者ってプライベートでは不幸になるっていうけど本当」と感じていました。


<寄り添う心が人を幸せに導く>

 

しかし盲学校の生活がスタートしてからは、

自分の考えが完全に間違っていたと分かりました。

盲学校は、私にとっては人生の学びの場で、しかも楽しいところでした。

盲学校は、先生も生徒も真面目で勉強熱心な人たちばかり、ワルは一人も居ませんでした。同じ境遇の仲間で、みんな互いを思いやり、アットホームな場所でした。

それに比べると健常者の普通校は、殺伐としていて

下品で粗雑な人間の溜まり場に見えました。普通校は身体が元気な分、

動作や言葉遣いが粗野なのです。

それと、盲学校の皆さんは自分のことは不幸と思っていないのです。

それは、自分の置かれている状況を冷静に受け止めて、

流れのままに生きているからなのです。もっとも感銘を受けたのは、先輩のカップルでした。二人とも全盲ですが、学校を出て社会人になったら結婚すると言います。

「先輩達は、結婚して子供はどうするの?」と聞いたら 「当然、欲しいよ」というので、

「もし目の病気が子供に遺伝したらどうするの?心配じゃないの?」

大変に失礼な質問ですが、人事ではなかったのであえて聞きました。

「二人とも遺伝性の病気だから、子供もそうなると思けど、

 私は家族が欲しい。一緒に生きていける家族が欲しいから子供を生むよ」 

先輩は、ごく自然な口調で話しました。私はこの言葉も、感銘を受けました。 

昔から、生まれてくる子供は五体満足で、欲を言えば頭のいい子がいい、

といわれていますが、子供を生む本来の意味は、優秀な人間が欲しいということが

目的ではなく、魂が、絆のある人生の仲間を求めているからでしょう。

五体満足な健常者は、どうせ育てるなら優秀な子供が欲しい、と願いますが、

それは目的の履き違いで、子供を生む目的は、家族を作ることであり、

自分と絆のある仲間を自らの力で作ることなのです。 苦しみや、喜びを分かち合って、

共に寄り添って生きていく仲間を作ること。それが家族。

盲学校の皆さんは、障害を持ち、互いに寄り添って生きていくことで、

人間として大切な気持ちを自然に現すことが出来るのです。

私は、心の底から盲学校に入って良かったと感じました。

そのまま健常者の中に暮らしていたら、

人間として本当に必要な心に気が付いていなかったでしょう。

この時、初めて霊界に感謝しました。

 

それで、幸せって何でしょうか?

他界して何百年も経つ僧侶霊は、霊界で真面目に修行して、

執着心はなくなっているはずなのに「まだ修行中です」という。

そして、私が盲学校で知った、互いに寄り添う心の真理。 

私は、人として素直な気持ちで生きていく、盲学校の先輩カップルが真であると思う。

人として在りのままに生きていけば、出家して僧になる必要は無いと考えています。 

皆さんはどう考えますか?


★遠野の世界と精霊ー自然は危険に満ちているはず


<本来、自然は危険に満ちているはず>

 

神様の気持ちになって考えたとき、神様ならどんな人間が好きでしょうか?

もちろん神は平等に考えるでしょうから、意味も無く人を差別することは無いでしょう。

でも、神にも感情があるとしたら、どんな人間に好感をもつでしょうか?

私は「幸福の提言」で触れた、盲学校の先輩カップルと思うのです。

 

人は、自分に覚えの無い出来事が起こると、他人の所為にします。 

お年寄りの物忘れで、自分でしまったことを忘れて「嫁が盗んだ」と思い込む義母や、

切れやすい性格の人に多いのですが、自分の感情が爆発するのを相手の所為にしたり。 

それを震災と同じに論じてはいけないかも知れませんが、テレビのインタビューで、

津波で流された街を見て「神様なんて居ない」と言っていた被災者が居ましたが、

お気持ちはわかりますが、それは違うのです。

人知を超えた部分に対してそう感じますが、神様の有無と天災は関係ないのです。

天災は自然の営みの中で法則的に起きていることですから。

神様から見ると「神様なんて居ない」と言われると、

「勝手なことをいっているな」と思うでしょう。神様は人間の都合で存在していないので、

逆で、人間が神のために作られているのですからね。

人は、神に代わって、より幼い霊たちを助けるという役目を負っています(イザナミワーク)  それ故、神はいつも人間に寄り添い、人間と苦しみを分かち合っているのです。


私の母の実家は北海道の漁師の家系です。今も親類に漁師がいます。

漁師は10年に一度は海で悲惨な事故に見舞われるそうです。

つまり、同僚の誰かが亡くなるのです。だから漁をする時は

「次は自分かも知れない」と、いつも心の隅では覚悟があるそうです。 

 

同じように、炭鉱の作業員もそうです。

私は夕張の側に住んでいましたが、子供の頃はまだ炭鉱があり、

炭鉱も大変危険な職場なので、皆さんは覚悟して仕事をしていました。

炭鉱のおじさん達は「あれは危なかったな、今度は死ぬかもしれん」 

と言いながら居酒屋で談笑していました。 

「死」という言葉が日常の何気ない会話に出てくる。

漁師や炭鉱労働者は、自ら危険に向かって行くのですから、震災被害とは違うものですが、行き成り多数の人命が失われるというのは、意味としては同じことだと思います。

でも、漁で遭難して亡くなる人も、炭鉱事故で亡くなる人も「神なんて居ない」とは言わない。 危険と隣りあわせで生きているということを自覚しているからです。

震災で、壊滅した街を見たとき、大変に衝撃を受けましたが、

ふと思ったのは、今お話した、漁師さんや炭鉱夫さんのことでした。同じなのです。


街で平和に暮らしていると忘れていますが「危険」はすぐそこにあるのです。 

人間は自然の中で間借りして暮らしているのです。

自然の中では何時何が起こるかわからない、それは極当たり前のことなのです。 

人間の営みは、本来は危険に満ちているものなのです。安全な生など何処にも無い。

それを冷静に受け止めて、覚悟して生きること。

スピリチュアルの側面では特に求められています。


<パワースポットの担い手は精霊たち>

 

パワースポットがブームになり、安易に聖域を荒らす人間が増えましたが、

 「行けば取り合えず何かご利益がある」と思っているのでしょうか?

自然はそんな簡単なものではないのです。 

自然は、人間の慰安のためにあるのではありません。 

貴方が聖域の精霊だったら、やってきた人間をすべて歓迎できるでしょうか?

パワーを与えるに相応しい人間と、来て欲しくない人間があるはずです。

 

ところで、パワースポットから何故パワーをもらえるかご存知ですか? 

波動とか、気と言いますが、その荷い手は精霊なのです。

その場所で「気を感じる」という表現をしますが、その陰では精霊が活動しているのです。 

一精霊一ご利益というか、精霊が人間に憑くことでパワーとなるのです。

自然界の生命の欠片が、長い時間を掛けて個性を持ち、精霊となります。 

自然に宿るツクモ神のようなものだと思ってください。精霊達は、無邪気で繊細な性格です。

精霊は自然界のいたるところに棲んでいますが、

パワースパットといわれるところにはたくさん居ます。 

だいたいそんな所は、精細で美しい場所です。人間は、綺麗な風景に感動しますが、

それは、ただ単に景色の良し悪しの問題ではなく、

精霊の存在を人間の魂が受け取るからこそ「ここは綺麗、すがすがしい」と感じるのです。

精霊達が「ここに居るよ、楽しいよ」という波動を人間に発し、

それをそのまま人間が受け止めているから「パワーをもらった」と感じます。

ほとんどの人間は、オーラや気の変動としか感じていないようですが、

精霊が動いて初めて「気」が分かるのです。

精霊達は、人間から見ると霊としては未熟で幼い霊ですが、

神の端くれであることには間違いありません。 

そして、精霊達の純粋な波動は、楽々と神に通じてしまうのです。


<生きることの覚悟 遠野、再び>

 

3・11で被災したお年寄りが

「この世の地獄を味わった。自分の寿命は長くないが生き残ったから生きていくしかない」

と語った。この老人は、テレビの前で話すことで、生きることの覚悟をしたかも知れない。

福島原発の放射線被害で、避難せずに家族と残っている母親が、

「福島に残るも地獄、避難して出るのも地獄」 と言っていた。

それは、福島に居ても、福島から出ても全く見通しが立たず、

絶望と不安の中でそれぞれの道を選択しなければならないという、

生きることの覚悟の言葉です。

 

震災という極限の体験でなくても、人生の中で生きる覚悟をする場面は幾つかあります。

例えば、出産の時は、子供を産み育てていくという覚悟。

癌等の大きな病気をして、その治療やリハビリに向かうときの覚悟。

母親が子供を連れて離婚するとき、など。

人生を掛けて取り組む生きるための覚悟は、普通の暮らしの中にも在るのです。 

『生きるための覚悟』は、霊性を豊かにするためにはとても大切な心的状態です。

 

震災によって、多くの皆さんの魂がそのときを迎えようとしているのかも知れません。 

何事も無い、のんびりできる日常が平和が、

正しい社会であると勘違いしている人が居ますが、リスクの無いものはありません。 

だから保険に入ります。震災でなくても、事故や大病を経験した人は分かるでしょう。 

一日一日が大切だということ。


ところで、ここ6年くらいから、毎年東北へ行っています。 

主に青森県内の神社めぐりですが。 恐山も年に何度も行っていて、

あちらこちらにお稲荷さんが奉られています。東北の海岸線の道路の側には、

小さいお社が点在していて、お稲荷さんと八大竜王が多いです。 

国道を走っていて見え隠れする赤い鳥居は良い風情でした。

車を止めて境内に入ると、小さな精霊くんが木陰からこちらを覗いていました。 

そのお社たちは、津波で流されているのでしょうね。 

山の上の神社は大丈夫でしょうが、テレビを見ていると、土台さえも残さず、

跡形も無くなった神社が出ていることがあります。気になるのは、その神霊さんたちです。 

みんなどうしているのでしょうか?

 

被災した人間、福島の原発避難区域に取り残された動物達、命ある者はみんな心配です。 そして同じくらいに、被災地域の精霊たちの動向が気がかりでした。

すると、ウチのお稲荷さんの高橋くんが、

「上の神様は避難しているけど、精霊たちは人間のところに居るよ。

 ボランティアさんたちと一緒だよ」と、稲荷は得意げに語ります。

「天の神様は現場の仕事はしないけど、精霊は里の住人、人間と一緒だよ。

 ボランティアの人たちにくっついて全国から集まっているよ」なるほど。。。

精霊は軽い性格なので、厳しい場所には居ないと思っていましたが、

被災地に留まっているのです。 人間を支援しているのでしょうか?


私は、3.11の津波が襲い社殿が無くなった地域は、しばらく神は居ないのでは?

と考えていました。 というのは、以前、阪神淡路大震災があったときのことです。

当時は成田に住んでいましたが、近所の神社内に神戸の生田神社と同じ祭神の、

稚日女尊を奉る神社がありました。麻賀多神社です。

成田のこの神社は全国のワカヒメ様が集まる聖地で、神戸のワカヒメさまも降りていました。

近くのなので、何かとお参りに行っていましたが、境内に入ると、

いつもこの女神様たちがニコニコして出迎えてくれました。 

それが、ある日突然、ワカヒメ様たちの気配が無くなったのです。

姫神たちだけでなく、境内の精霊さんも静かになりました。 

神社の神霊を感じなくなることはたまにあります。 

社家や氏子に不幸があるときや、神社の隣の敷地にビルが立つとか、

台風がやってくるときなど。でも、たいていは二、三日で戻ってきます。

神社に誰も居なくなることは無いはずなので。

しかし、その時は一ヶ月経っても二ヶ月経っても神霊の気配はありませんでした。

境内全体が喪に入ったようでした。「何か重大なことが起こるのかな」と心配していた矢先、阪神淡路大震災が起きました。 私は「ワカヒメは震災で霊威が傷ついたのかも知れない、そのため身を隠したのかのだろう」と考えていました。

ですから、3.11でも、被災地の神様はしばらく居なくなるのではないか、と予想していました。


稲荷は「ボランティアと一緒に全国から精霊さんが集まっている」と言っていますが、

どんなことなのでしょう。そこで霊的な観点から、3.11とボランティアについて調べましたが、

興味深いことが分かりました。 それは「遠野」です。 

柳田国夫「遠野物語」は有名ですが、最近NHKの新日本風土記で遠野をやっていました。 「遠野物語」の精霊の世界は今でもひっそりと残っているようです。

今はすっかり有名になり観光客が殺到する中、集落のお年寄りが屋敷神や

座敷童子の伝承を守り伝えています。実は遠野地域だけでなく、東北全域に、

まだ精霊が住んでいます。明治の初めまでは、日本全体が精霊の国でした。 

精霊の国、というとのどかなパラダイスの感じがしますが、先のも述べましたが、

「覚悟をして生きる」所に精霊が棲みます。東北に精霊が残っているのは、

自然が厳しい地域だったからです。

 

「遠野物語」に出てくる河童は赤い顔をですが、それは口減らしのために川に捨てた

赤ん坊の象徴だそうで、座敷童子も、闇に葬られた子供を表立っては供養できないので、

座敷童子という妖怪に見立ててお奉りしたのが起源らしいのです。

「遠野物語」のファンタジーの世界は生と死が隣り合わせに生きていた東北の人たちの、

苦悩の物語でもあるのです。 江戸時代の頃は、二、三年起きに飢饉があり、

苦しい生活が続いています。そのギリギリの暮らしの中での神霊との交流だったわけです。

 

天の神(天照に代表される天津神)は、人間の苦しみの現場に直接降りることは出来ません。

それは、穢れがあるからです。通常でも神に会うには潔斎が必要ですよね。 

神社のお参りは、直接祭神が出てくることは殆どありません。 

眷属の神霊が人間の用件を神界に取り次ぐのです。災害の現場や、飢饉などで

たくさんの人間の苦しみの想念が渦巻く場所には、神は降りないのです。


では、神様は何もしてくれないのでしょうか? 

そう、現象的には何も出来ないのです。

(西洋では、キリストが天使と聖霊を引き連れて現世に降りますね) 

結局のところは、人間は自力で立ち上がるしかないのですが、

しかし、神霊は人間に「元気」や「勇気」「喜び」は与えてくれますね、

その荷い手が精霊たちなのです。神が人間に与えるこれらの力は「愛」と言われています。

精霊たちはその神の「愛」を人間に運ぶ手伝いをしています。

 

野の花が咲く草原に立つと「気持ち良い」「癒される」と感じるでしょう、

それは野の精霊が貴方の魂に土地の神の霊力を分けているからなのです。

精霊の力を受け取らなければ、ただ単に綺麗な場所だったな、で通り過ぎてしまいます。

このように、精霊は神の愛の力を人間に伝える役割を持っているのです。

神は、人間を取り巻く環境の至る所に精霊を配置していますが、

しかし、東北は3.11の津波で沿岸部は流されてしまい、

精霊が宿るための自然や場所がなくなりました。

精霊は機械を嫌うので、復興の工事中は戻らないでしょう。

(神社の精霊たちは車のエンジンや発電機の音、電気の配線が苦手のようです)

それではしばらく被災地には精霊は戻らないのでしょうか?

先にお話しましたが、高橋くんが言うには、全国の精霊たちが

ボランティアの人間に憑いて被災地に入っているというのです。

ボランティアの人たちが、被災者と交流することで、

全国の精霊の力を東北に与えているらしいのです。そこで、遠野が出てくるのです。 

被災地を支援するにはその中心となる拠点が必要ですが、

それは自治体の社会福祉協議会が担うのですが、3.11では、市役所や役場も

壊滅してしまい、機能できなかったのですが、隣の地区の遠野は全く被害が無く

東北のボランティア活動の拠点となっています。震災から一年ほど経ち、

被災者に寄り添うという活動の在り方が求められていますが、

遠野に相応しい役割であると感じました。 遠野は柳田国夫により、

精霊の里として世に知らしめられましたが、そして今、

震災によりその霊的使命がより一層明確になったのです。

東北の神々は、古くからの日本の国津神です。 妖怪の姿をしている神もあります。 

それは、何にも飾らない自然体の精霊の姿です。 

国津神は、太古に生まれた精霊が神界で成長して神の域に達した神霊です。

その神霊を起源とする精霊たちと共に生活する日本人は幸せであるはずです。

では、どのようにすると精霊たちと暮らせるのでしょうか?

それは、貴方が精霊たちの魂の里になるということです。

 

 

★代受苦者の神理ー被災者はイエスさま 

 

家の中に、悪い念が入り込むと、ペットや子供など、

その家庭の中の弱いものに現れることが多い。さして理由が無いのに

子供が病気がちであったり、動物を飼っても二、三年しか生きなかったり。 

私は、外で勤めているとペットの犬や猫が早死にする傾向がありました。

元気な子を飼うのですが、二歳くらいで亡くなります。 

私はペットが亡くなるたびに「自分の業を背負ってくれたのだな」と感じました。

というのは、当時の仕事は人間関係が厳しく、職場から悪い念を持って帰ったり、

同僚に逆恨みされることがあり、その業想念は、

私の体調が悪いときは病気になって現れるのですが、ほとんどはペットを攻撃したのです。 

つまり、ペットのワンコが私の代受苦者だったのです。 

 

しかし、子供の頃は、私が親の代受苦者でした。 

私の実母は、正義感が強く竹を割ったような性格の人です。

定年まで仕事をしていましたが、職場の上司やオーナーに対しても、

間違っていることはズバリと物言いをするので、何時も逆恨みされていました。

母が職場でトラブルがあると、相手の生霊が憑いて来ます。 

相手の睨んでいる顔が母の肩越しにビジョンできます。

そうすると、私のところに来るのです。母は強い人なので、

相手の生霊は跳ね除けてしまうのですが、その相手もそのままでは気がすまないので、

子供の私に憑くわけです。 それで次の日は熱を出して寝込むことになります。 

子供心に、その図式がとても嫌で「どうして母の業を引き受けなければならないのか?」

といつも母に反発していました。ある時それを指導霊に尋ねると

「それは君が親だからだよ。霊界では君が上だから下の者の面倒をみないとね」 

とそっけなく答えました。 

しっかり者の子供が、ダメ親の責任を取らされているのでしょうか? 

当時はそう簡単に考えていましたが、その図式は地球全体の視点に立つと

とても重要な意味を持つのです。

障害を持って生まれている人に対して「前世のカルマだ、前世の悪行の報いだ」

言いますが、それは全く違う。今までたくさんの方の前世を見ましたが、

前世で強欲な地主で、たくさんの人々を苦しめた人が現世で医師になっていた

というケースや、前世では高僧で、日本の政治に影響するまでの働きをした人物が、

現世では平凡なサラリーマンのような場合もありました。 

前世の行いがそのまま次の人生に現れているわけではないのです。


盲学校に居たときや、障害者施設の職員をやっていたときに分かりましたが、

障害を持って生まれてくる人は、魂が繊細なのです。 柔らかな霊体を持っています。

そのために周囲の人間から霊力を取られてしまうのです。

私が母に憑いてきた生霊を浄化していたように。

繊細な魂で、柔らかな霊体は、より霊的な存在ですから、精霊たちに近いものです。

実際に、施設で知った重度の知的障害者の女の子は、

霊視すると光しかビジョンできませんでした。その人は成人していますが、

自分の名も分かりません。 健常者にはこんな光を持っている人は居ません。 

この人のような障害者は、「それでも生きていける」ということです。

 

つまりその業が無いので持たなくても生きていけるのです。

健常者は生きるために学歴やお金、名誉など現世欲に関わるものが必要ですが、

施設に暮らす障害者には必要ないのです。

 

 

 

 

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いつもありがとうございます❗
精霊さんたち、「何何食べ物☺️」
皆やって来ましたが、
猫も狐も狼も、肉食なので、残念😢
全部人間のものになりました👍️
とっても甘くて美味しかったです👺
海野さん、ありがとうございます🙇
そちらの神霊さまにもよろしくお伝えくださいね☀️


 

祝!五冊目出版!「柴犬虎哲の開運心霊写真集」

AI不使用!執筆編集校正は、

令和の母の完全人力です、乱文ご容赦!

 

   

 

 

 虎哲パパと、各地の寺社をおまいりするうちに撮れた

 心霊写真、不思議写真を、

 令和の母が解説して本にしました。

 怖そうな鬼神の画像もありますが、ほとんどは

 お不動様や仏神のご利益画像です。

 健気な虎哲君、神様に愛されていますね。

 宜しくお願いします!

 

他の四冊もよろしくお願いします!

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

六冊目は「大和国光神社神様日記・天岩戸開き研究会」です。

がんばって執筆中!

 

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先月29日に柴犬のさくら17歳が亡くなりましたが、
何かブログに書こうと思っていましたが、柴ロスが激しくて、、、

 

     
 

しかし、ここ数日のことですが、

とても興味深い事が起こっています。
なんと、旦那が柴犬男になってしまいました!

さくらは、亡くなった当日は、

いつもの寝床でずっと寝ていましたが、

いつの間にか旦那の部屋に入っていて、

旦那とネンコしていました。

いつもの様に気持ちよさそうに、幸せそうに寝ています。

霊になっても、生きていた時の様に癒しのワンコです。

それで、最近気が付いたのですが、旦那の後ろ姿に

尻尾が見えるんです。茶色で、フサフサして「狐?」

みたいな尻尾なので、「まさか旦那が狐憑き?」

心配しましたが、本人はいつもと変わりなく。。。

よーーく見直したら、ワンコの尻尾でした。

 

「さくらの尻尾が生えているよ。

 さくらが憑依しているのかも、

 なにか変な感じは無いの?」

 

「やっぱりそうなの?さくらが入っている感じがしているよ。

 車を運転するときは、一緒にハンドル握っているし、

 食事の時も、一緒に食べて楽しんでいる感覚がある。

 尻尾も生えているのか?」

 

旦那はさくらが大好きで、実の娘の様に思っていました。

さくらも旦那が大好きで、いつも

「抱っこ、抱っこ」と甘えていました。

その後よく観察すると、さくらは、他の人間はダメなので、

お店の人混みは苦手、その時は旦那の腹中に隠れて、

尻尾も隠します。旦那も楽しくて、さくらも楽しいときは、

尻尾を出して、ブルンブルン降ります。

おっさんの御尻に尻尾が付いていて、振り回している光景、

想像してみてください、参考画像↓

 

     

 

ワンコが亡くなり、抱っこしたり、

触ったりできないのは辛いですが、

憑依して、いつも一緒になりました。

ワンコの心の動きや、感情も直接伝わり、

生活に張りが出てきたそうです。

 

柴犬男!めでたしめでたし!

 

かな、、、

 

私的には、ワンコは旦那の番犬、見張り、フフフ。

今までは、高橋君、ポンタ、どらちゃんと、

ねいぐみに宿った精霊が旦那を番していましたが。

柴犬さくらは、犬神候補生でしょうか。

犬神は、稲荷系の精霊とは違い、真面目なガードマンです。

ポンタやどらちゃんは、旦那と一緒に遊んじゃいましたから。

さくら、しばらくは旦那の事をよろしく!

 

 

 

 

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 私は、人はありのままに生きれば良いと思っています。空だとか、無だとかこだわる必要は無いです。もし間違ったなら、素直に謝ってより良い行動ができるように努力するだけのことですから。お釈迦様はそれを「無」と言いいます。無かどうかは別にして、とりあえず謝る、のが私流です。人生に無は無いです。助け合って、心を通わせて、より良い世界を作る努力をします。それが人間本来の生きる意味で、無ではないです。分からないので反論はしません。でも、仏教の教えはよくわかりません。。。。そう、モヤモヤしていたら、また唐突にお釈迦様が現れました。

 

≪修行者は独善に陥りやすいものだよ≫

 

「久美子さんは、物質の世界が無であることと、人の心の在り方を同一視しているようです。良心や思いやりという、人を人足ら占める精神性は、無の対象ではないのです。無になるものは、物質とともに動く情動ですね。欲望や執着です。もっと欲しい、自分だけ楽になりたい、という」

 

「折を見て、少しずつ真実を語りたいと考えています。  現世では、ブッダの説く理法として、多くの教えが流布していますが、 ほぼすべてが間違いです。それを批判するつもりはありません。それぞれの立場で、修行者が精進して現わしたものだから。 しかし、私自身については、真偽を明らかにしなければならない。 私には責任があるのですから」 

 

★出家の理由は政治のため 

 

「私の思考の出発点は、「人間とは何か?」「世界とは何か?」を視る事でした。 視るという意味は、超能力的な霊視では無く、見通す眼力のようなもの。 私は、自分自身、人間、世界を見通しました。 その時点(出家時)で、明らかなことは、私には限界があったということです。 自分は、一族の主としては無力な人間でした。 私の一族は、当時社会的に非常に複雑な状況にあり、私が身を引くべきと決断しました」 

 

「出家についても伝説がありますが、単純に政治的な判断です。 家の後を継がなければ、出家の道に進みます。 出家し政治から離れると、世界に向き合う時間が訪れました。 しかし、それは本来果たさなければならない職責から逃げただけなのです」

 

 「日本の神道は¨真¨を重んじますが、私にはその真がありません、弱い人間だったのです。 私は、聖者と言われていますが、間違いです。 生れた時に、「唯我独尊」と話したという伝説もありますが、それも間違いです。 解脱は出来ませんでした。というより、解脱は無いのです。解脱は、人間の思い込みです。 何か霊的な特権を持つ人間が解脱するのではなく、世俗の一般人も、 人として生まれてくることそのものが、解脱しているのです。 (動物たちも人間と同じ尊い命があります。命を持つという意味で、動物も人間も同じです)」 

 

★私は超能力など無い普通の人間でした 

 

「解脱とは、あらゆる執着を消し去り、輪廻の世界から脱することですが、 それはあり得ないのです。霊界に来て分かりましたが、宇宙は一つの生命ですから、 自分だけを切離し存在することはできません。輪廻は、宇宙の一部の状況で、 私はその一部分に注視して、宇宙全体を認識しなかったのです」 

 

「そうです、宇宙の内面を、幽霊や迷信として切り捨てていました。 久美子さんは、「お釈迦様って鈍感だったのね?」と言いますが、その通りです。 私は、ありのままの世界を探求することを信条としていますが、 生きていた時それは、目前の事実しか受け入れなかったのです。 ですから、他人の心の中にある思いは、執着に類すると考えていました。 行為として表出されるものは有意味ですが、だからこそ、正しい行いをしよう、 という訳ですが、他人の心の中にあるものは表れないなら意味は無いので、 煩悩や執着と断定して、無視しました。冷たい人間であったのです」 

 

「私は、積極的に聖者になりたかったのではなく、政治から離れて、生き延びたいという 保身から、出家の道を選びました。前述しましたが、真からは離れていたのです。 スピリチュアルの世界は¨真¨を問われますが、それが分かったのは、 霊界に来てからのことです。生前は、聖者の道を選んだからには、 聖者として悟りを得ようと精進しました。それについては、伝説の語る通りです。  常に、ありのままの世界、ありのままの人間を探求しました。 目の前に展開する出来事に思いをこらし、真実を得たいと欲しました」 

 

「そんな私なのですが、人々は信じてくれました。聖者だと、救ってくれるとね」 

 

「現世で釈迦国が滅んだ時、私は全く気付かなかった。  私は、霊界の行場で池を見ながら過ごしていました。前述した涅槃の池です。  これが悟りの境地。そして完全なる無に参入する、と信じていました」

 

★仏の悟りは簡単なものだが、独善に陥りやすい

 

「現世の仏教の教えは、妙に哲学的になり難しいものになっていますが、仏陀の悟りの境地はとても簡単なものです。要点は二つあります。第一は、心の平安。そしてその心の平安の為に、第二はとして、心が乱れる原因となる物事を退けよう、という提案なのです。悟るために、厳しい修行をしたり、専門的な学問をする必要はないのです」

 

「現世では、人は独りでは生きてはいけない、と言います。それは当然のことで、現代の人間は、高度に組織化された社会に依存して生きているから、衣食住は、他人の手を経るしかないし、自分の労働は社会に還元されて、間接的に誰かの役に立っているはず。それは理屈では分かっているだろうけれど、たまに頑固者が居て、「私は誰の世話にもならない」と我を張るものが居る」

 

「自分は誰にも迷惑を掛けていない、と信じているものは、自身でそう思い込んでいるだけだよね。傍目から見るとよくわかる。同様の事は、仏教の修行者にも言える。修行者は、私も含めて、小さな頭の中で独善的に思い込んで、悟ったつもりになっているんだよ」

 

「涅槃は無為の世界、涅槃には現世的な取り組みは無意味です。無になるためになにかするものではい。無になるために食事制限する必要は無い。無になるために禁欲する必要もないのです。食事をすることで、元気に仕事をして、社会貢献する。欲があふれて男女の行為をして、夫婦仲が良くなり、家庭が纏まり、子供が健やかに育つならそれでよいのです」

 

「現世には、自己グレクトという言葉があるが、修行者も用心して取り組まないと、そのような精神状態になる。捨てて捨てて捨てきり、後は死ぬだけ、となった時にそういう自分に満足してしまうが。。。」

 

「世俗から隔離することが涅槃の目的ではありません。悟りは世俗から隔離されて自覚するものでも無い。ありのままに世界を知り、ありのままの自分を見つめるための場が、この現世で在り、人間社会という世俗です。世俗を否定せず、世界と社会に涅槃を見出すのです。それが悟りです。そして、私(仏陀)の真の教えであります」

 

 

≪涅槃の池、新たなる悟りの境地へ≫

 

★池の底を見て涅槃を知る

 

「あるとき、池の側で瞑想をしていました。その池はとても綺麗で穏やかな表情をしています。私は、しばらく池を堪能しました。水は透明で、底が見え、石が転がっている様子や、水草がゆらゆら揺れておりました。その揺れが突然止まり、まるで時間が消えたかのように、池は透明で綺麗な姿のままたたずんでいました。その時。「これが涅槃の境地だ!」と観じました。その直感は急激に確信になりました」

 

 

「私は、時間を忘れ、池が創る涅槃の世界に浸っておりました。すると、突然、水滴が一粒、水面に落ちました。雨が落ちたようです」

 

 

「水滴は一粒落ちると、同心円状に波打ち広がり、水面を乱しました。そうすると、水の中の静寂の世界が乱されて、水草も、石ころも見えなくなりました。その後、次第に雨が多くなり、気が付くと、池はかき乱されて、涅槃は消えていました」

 

「私は、そこで、何故涅槃が消えてしまったのか考えました。単純に、雨が降ってきたから、と言えばそれまでですが、そうではなく、もっと深い意味があるのです。涅槃の世界がそこにあるのに、雨と言う自然の力が、それを無意味にするのである、と解釈しました」

 

「つまり、自然の力は雨という形で、涅槃を阻害するものである、と。静寂な池の世界は涅槃の境地でしたが、自然の力は雨を降らせ、涅槃を乱します。雨が止むと、池にはまた涅槃が訪れます。それが、私が観じた輪廻です。生き物の生まれ変わりではありません。涅槃の境地を中心にして、それを繰り返し乱す自然の力を、輪廻と見ました」

 

「そしてその後、私は¨縁¨を発見しました。それは、霊的存在が気付かせてくれたものですが、霊感の無い自分には、それを悟りと解釈しました。今思うと愚かな思い上がりですね」

 

「次の日、涅槃の池を観じておりますと、また雨粒が、ポツリと落ちてきました。雨粒は、今度は、ハスの葉に落ちました。その雨粒は、水面には落ちずに、葉の上に留まり、涅槃を乱す波紋は起きません。それから私は、池の中に入りました。入ると、水面は大きな波が起きさらに、池の底には砂が舞い上がり、対流になり、水の中は何も見えなくなりました」

 

★縁の発見

 

「しばらくと、水中の濁りは無くなり、元の美しい静寂が戻りました。私は、心を統一し、じっと立位のまま、輪廻(自然の妨害)が巡り去るのを待ちました」

 

「どのくらい時が過ぎたのか、雨がぽつりぽつりと落ちてきます。それを私は、手のひらで受けます。いくつかの雨粒は私の掌に落ちますが、その下の水面には、波紋は起きず静寂を保ちます」

 

「もっとたくさんの雨粒が落ちてきました。池の水面には無数の波が立ち、涅槃は破られました。しかし、私の掌の下の水面と、私の身体の周囲の限られた範囲の水面は、波は立たず静寂のままです。そう、これが¨縁¨です。私が理解する縁というものです」

 

「縁は、涅槃を助け、維持するものです。現世の仏教では、因縁生起の教えを、物質現象を中心に考えますが、真の因縁生起とは、物事の始まりは、涅槃の状態であり、それを自然の動きが、天体の運動のように、周期的に乱すことが輪廻です。その輪廻の状態に対して、涅槃を保つための働きが¨縁¨なのです」

 

 

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「いつもお世話様です。

 印象的な夢なので判断よろしくお願いいたします。

 私と、息子の周りを沢山のツバメがものすごいスピードで、

 ぶつかる事なくすれすれの間合いで飛び回っている夢です。

 何かの知らせでしょうか?よろしくお願いいたします」

 

 いつもありがとうございます!

また良い夢を見ましたね。ツバメの夢は、良い知らせがあります。息子さんの進学のことかも知れません。たくさん飛んでいるのは、皆さんに祝福されるという意味です。でも、小鳥の夢は口論の意味もあるので、良いことが続いても調子に乗らないようにしましょう。

 古来から鳥は、天の神と地上の人間を結ぶメッセンジャーでした。死者の魂の象徴です。ですから、夢の中の鳥は、霊的な意味合いが強いです。燕は、遠来の渡り鳥で、軒先に巣を作るとその胃が栄えると言われています。夢判断では家内安全商売繁盛の象徴です。

 類魂の世界では、燕は人々の側に飛んできては巣を作り、いつも、懸命に子育てをしています。神様はその様子を見て、平安に満たされます。福の神としての役割とも言えますね。

 現世の人間も、動物たちの幸せな様子を見て癒されますよね。例えば、ママ猫に毛づくろいをしてもらい、気持ちよさそうな顔をしている子猫や、ナデナデして褒めてあげると、笑顔になるワンコとか、見ている人間も幸せになりますね。それは、類魂全体を統一して守っている神様も同じで、現世の人間たちが元気で幸せに営んでいると、その温かい波動で神様も癒されています。

 神様も、類魂の動物たちのように人間にも一生懸命幸せになって欲しいのです。神様は苦しんでいる人間の魂に、類魂を通じて光のメッセージを送ります。

 

「人間の家族の幸せは、霊界の幸せ。家庭運営は大変ですが、自信をもって取り組みましょう。いつも神と類魂の仲間が側に居ます」

 

¨同行二人¨の教えですね。

 

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★動物の魂と人間の精神の関わりについて=小松の類魂論

・動物は、他人の魂の一部を作る類魂の仲間です。
・地球生命の長い進化の歴史の中で、

 生き物たちは魂の中で互いに役割を分担して、
 地球の現世と霊界を含めた、地球全体の生態系を維持している。
・夢は、類魂たちが対話する境域です。

 動物の魂も人の自意識に上がってくる。
 夢の中の動物たちの様子は、人間の魂の状態を表しています。

 魂の世界では、その世界を作る意識達が一つに結ばれていて、人の魂(自我)に投影されています。その投影の場に受精卵が出来て、人体が形成され脳も出来ます。実は、魂の中の人魂の投影と、受精卵の発生は同時並行に起きています。魂と人体の同時並行論!


 しかし、人間は、自分の側からしか見えないので魂の様子は分かりません。魂は精神、想念の世界ですから、相手の心は見えないので、自分の意識しかないように錯視します。自我は類魂ですから、無数の魂で出来ているのです。ですから、夢の中に現れる他の生き物の存在は重要です。私(小松左京)は、現世で戦争経験があります。太平洋戦争ですね。身体が弱かったので招集は無かったのですが、若者はみな出兵して日本の為に戦い戦死しているのに、生き延びている自分に負い目を感じていました。


 南方の凄惨な戦いは伝説となっていますが、ほぼ本当のことです。生き延びるために、足手まといな怪我をした同胞を殺害するとか、食料が底をついたので人間を食べたとか、、、


でもね、飢えて命が惜しくて人を食べるのではないです。追い詰められて、何時死ぬか分からない極限の状況なのに、本土からは「生きて帰るな!」と命ぜられていて。その中で自分だけ生き延びたいとは思いませんよ。だから、他人を食べたというのは、食べさせていただく、という事です。自分はもうだめだから、死んだらの自分を食べて、あんたは生き延びてくれ、という自己犠牲の精神です。
 

 戦争中の食人はともかくも、私たちは生き物を食べて生きています。食材として捉えると実感が無いですが、相手を食べると考えてみると分かりやすいでしょう。単なる生き物ではなく、相手。


 霊界に来てから、生きることと死ぬことについて、深く考えるようになりました。特に、人間の肉食ですね。生きるために他の命を食べなければならない、という宿命、原罪のようなものですね。自分が生きるために相手の命を貰うことには、どのような霊的意味があるのでしょう。テレビなんかの動物番組では、弱肉強食と言って、強者が弱者を捕食するワイルドな場面を強調して、暗に強者の論理を肯定している感があります。懸命に生きて、命をつないでギリギリで頑張っても、最後は誰かに食べられるという動物の運命は、感情的に納得できませんよね。自分が彼らの境遇なら、と。しかし、それは地球の生物たちが、30億年かけて作り上げたシステムです。相手の命を奪って、自分が生きることは正しいのでしょうか?


 すると、久美子さんの指導霊のお釈迦様が現れました、「涅槃ですよ。生態学的涅槃です。涅槃を食べているのです。生命活動は涅槃の実現ですから、人は相手の涅槃を食べて生きています。キリスト的に言うなら愛ですね。生き物は、無為に命を守る行動をしますが、愛と言い換えることが出来ます。この世界は神の愛に満ち、無数の命に溢れています。そうです、他の生き物を食べて生きるというのは、神の愛を直接食べることでもあります。キリスト的に言うなら、神の身体を食すということですね」お釈迦様は、イエス様の代弁者?


 そうかぁ、合点がいきました。涅槃で愛!戦争中あった食人の真相。食べる側も、食べられる側もどう思っていても、「愛」のやり取りなのです。自分だけ助かりたいから、逆に君は助かってくれ!当事者たちの気持ちは同であっても、愛が在るから命が繋がるのですね、なるほど!
という事は、地球生命の30億年の歴史は、愛が在るから繋がって、人類が居るのか?


 久美子さんが、「動物が出てくる夢占い」を執筆していますが、類魂の中での動物霊の役割を探求しています。類魂の中では、動物たちは他の家族と共に平穏に生きています。動物たちの平穏は、人間の社会に良い影響を与えています。人間は動物を食べて生きていますが、神の元では人間を恨んでいません。神の眷族にもなり、人間を導く手伝いもしています。現世の人間は、自身の在り方を反省し、動物たちに愛のまなざしを向けるべきです。食品の技術が進み、人間が動物たちを食べなくても、生きて行ける未来が来ることを祈っています。


 愛犬さくら 17歳

 

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