先日の集まりでの会話 その続き

「一番下の娘が免許を取った。横に乗ったらスリルだった。犬のほうは うなだれその後 吐いていた。」

「お前ところの家族は?」

腹の立つこともあるが


息子「おね-ちゃん、このちりめんじゃこの産地 知ってるか?」

姉「さあー?。」

息子「俺も ちりめん。」

娘「おもいろー!。この駄洒落パクルで。」

娘「きょう、 ふの味噌汁。怖いわー。」

息子「なるほど!。俺もぱくろ!。」

娘「お父さんの好きなフォーク歌手 吉田パクロー!。」

息子「お父さん リモコンでチャンネルかえて。」

私「ちゃん 寝る。」 そんな家族だといっておいた。爆笑になった。


だが 最高傑作は 聞いたた話だが  以下の中学校の子と祖母の会話であった。

中学生「Do you know me?」

祖母「どーう いう ゆのみ って 花柄の湯呑みだけれど・・・?」


宿ったネフローゼという病いに対して

今までどんな本を どれだけ読んできたか

今までどんな 人々と接してきたか

今までどんな 心的スタンスで病いと向かい合ってきたか

そして これから どんな自分を築こうとしているのかで 各人ネフローゼに対してのスタンスは異なってくる。



再発時 「きっと 快復するんだ。」と心でそう叫んだ時 自分の場合、そう叫びながらも

どこか 心空虚だった。手応えがなかった。

自分の場合 否!。 男性の場合: くすりの量 検査も結果 医師の言質等 客観的なデータ 材料があって

初めて心の叫びも 根拠あるものと化してくるのである。理屈先行なのである。


一方 女性:理由なくして自身に「快復するんだ。」等 言い聞かせることができる部分があると感じる。

繰り返し言い聞かせているうちに 自身 そのように様換っていくことだできるという、人生においての事実を女性は 体自体で知っているように感じる。

それは 生命を産み出し 大半のことを包括的に受容する部分に優れている女という性に生まれつき備わっている部分なのかもしれない。


腎臓を病んでいる人がいたら

音もなく舞い落ちてくる 今の雪のように

「必ず安定してくる。」心静かに 繰り返してみるのがが良いと思う。

今朝も壁塗りの能天気娘を駅まで送っていった。

朝 出かけるときは暗い。道行く車はヘッドライトをつけている。凍結のためそのスピードは緩慢である。

車間距離も広い。


家に戻ってくる頃は 少し明るくなっている。東の空は淡い朱とブルーに変化している。


窓外は雪である。

そういえば 再発の頃 寒さから隔離された部屋から 雪舞いを見続けなければならない日々があった。


自己管理を怠りながら

「早く ステロイドから開放されたい。就労したい。で、ないと差がついてしまう。」

甘い期待感・焦り・疎外感等々 混沌としたそんな思いに心 奪われていたように思う。

気持ちの置き所が定まらず ネフローゼという この病気を憎み 忌み嫌うだけの自身だった。


この病気と正面から向かい合おうとせず 自己逃避するだけの自分がそこにいたように思い返す。


後日 思ったことの1つに

「夜明け前が最も暗い。心も体も最も寒い。」がある。