明けましておめでとうございます。

年明け最初の記事は前回年末からの続きで、遊郭の番外編ですニコニコ

 

六所神社 鳥居と石灯籠

いつものように「ぶらり散策」で名古屋市西区比良にある六所神社に行った時の事です。

 

石碑に刻まれた早川鎌治郎の名

これまたいつものように、鳥居の寄進者を調べていると....

 

大正四年十一月
献主 名古屋市中區常盤町
両川楼 早川鎌次郎

 

「両川楼」と刻まれている事に気づき、住所を読むと「中区常磐(トキワ)町」とあります。

もしかして?びっくり

と名古屋で明治から大正にかけて賑わった遊郭「旭廊(あさひくるわ)」の地図をみると...

 

ありました!爆  笑

 

 

 

しかも第二まである爆  笑

こんなところで楼主に出会うとは!!照れ

 

両川楼 早川鎌治郎 旭廊

※『大阪を中心とせる近県電話帳 大正12年用』国立国会図書館デジタルコレクションより引用・加工

例によって電話帳を調べると、大正12年(1923)の電話帳に載っていました。

「両川楼」に「早川鎌治郎」、そして「中区常盤」。

おおぉ間違いない照れ

 

別の電話帳『名古屋・愛知県・岐阜県・三重県職業別電話名簿 大正12年版』をみると、中村遊郭の賑町にも移転しているようです。

しかし『歓楽の名古屋』の地図には載っていませんでしたあせる

昭和12年までにお店を辞めちゃったのか、名前を変えたのか・・・分かりません。

 

まぁとりあえず、鳥居が楼主の寄進物である事がわかって

めでたしめでたし!爆  笑

 

....とはなりませんでしたあせる

次に着目したのが寄進者の苗字が「早川」ということです。

 

 

六所神社の住所は「名古屋市西区比良(ひら)」です。

ここ(比良)には、戦国武将の佐々成政(さっさ なりまさ)の父成宗(なりむね)が築城した「比良城」がありました。
 

 

比良城・佐々成政と「早川」の繋がりとは?

 

六所神社 本殿と黄色い葉の木

その碑が光通寺にあります。

 

比良城跡の解説板

お寺の入口に解説板があります。

比良城跡

比良城は、天文年間(一五三二~一五五五)に佐々成政の父成宗が築いたもので、東西六十八メートル、南北七十二メートル、二重堀が周りを囲んでいたといわれる。
南は庄内川を臨み、清須城を守る重要な城であったが、天正三年(一五七五)廃城となった。
成政は織田信長の家臣で、朝倉攻め、長篠の戦などの功により、越前(福井県)小丸の城主となり、その後、越中(富山県)に移った。
天正一五年(一五八七)肥後(熊本県)の領主となった。

名古屋市教育委員会

 

 

佐々成政城址の石碑と木々

佐々成政城址 愛知懸 大正4年建立

この碑は偶然なのか先ほどの鳥居と同じ大正4年に建立されています。

 

佐々成政はこの地で生まれ育ち、やがて織田信長に仕えて25歳で家督を継いで比良城主となりました。

その後、越中や肥後に赴任するのですが、側室(早川主水の娘)との間で三男(雄助)が生まれていました。

その三男は成政と共に北陸に行くこと無く、母方の姓(早川)を名乗りながら何故かこの地にとどまったという。

その後も子孫は比良に住み続け、「早川」姓を名乗る人は皆成政の末裔との事です。

そしてその早川家は土地改良や治水など、この地に尽力されてきたのも見逃せません。

 

以上の話から、もしかすると鳥居を寄進した「早川鎌治郎」さんは、その早川家一族、つまり佐々成政の子孫の可能性が高いのではないか!?びっくりと思ったのです。

しかし今のところ早川鎌治郎さんが比良出身かどうかの裏取りはできていませんあせる

ただ、六所神社に鳥居を寄進したのは、「早川」の氏神様だからじゃないかな~と思っています。

いや~まさか戦国武将につながるって、なんかワクワクしますねー!爆  笑

 

※「早川」姓については「成政ファン」というブログの内容を参考にしました。

 

佐々成政城址の碑と庭園

光通寺の墓地には確かに「早川」姓のお墓が多かったのですが、もっと興味深いものが「佐々成政城址」の碑の横にありました花火

 

佐々系統早川氏の石燈籠

一見すると自然石でできた石燈籠のような気がしますが、よくみると...

 

石灯籠に刻まれた梵字と早川姓

何か梵字のようなものが刻まれています。

更に横を見てみると...

 

佐々系統 早川源六 碑文

※暗くなってきたのでライトを照らしています。

の文字が刻まれていますびっくり

つまり、「佐々氏」って事でしょうか??

そして数名の名前が刻まれています。

 

 

可能な限り読み取った内容を記します。

 

[正面]
梵字?早川?

[右面]
佐々系統

早川源六
早川銀蔵
早川太蔵

早川音三郎
柴田直七
早川金五郎


[裏面]
早川新次郎
早川亀之丞

早川友七
早川喜重
早川時次
早川鍬吉

水野治良兵エ
早川
三郎
早川平八
早川

早川昌重
早川治助
早川勝次


[左面]
石工 早川新次郎
 

 

碑の横にひっそりと建つ石燈籠。

そこには「佐々系統」と共に「早川」の名前がビッシリと刻まれていました。

建立理由はわかりませんが、いろいろな訳あっての事と察します。

 

残念ながら年号は刻まれておらず、いつ造られたのかわかりません。

『山田村誌』と照らし合わせると何人か名前が載っているので大正から昭和初期あたりでしょうかキョロキョロ

もしかするとこの石灯篭も大正4年の建立かもしれません。

 

欲を言えば、ここに「早川鎌治郎」さんの名前が刻まれていれば、もっとスッキリワクワクできたのですけどね~笑い泣き

まぁ、多少もやもや感が残った方がアレコレ想像できて面白いという話もあるし爆  笑

とりあえず良しとしておきましょう照れ

 

またねー!

 

今回は林政治郎さんのまとめですニコニコ

 

林政治郎 寄進の石柱

林政治郎さんは、およそ明治後期から昭和の初期まで名古屋旭廊、そして移転先の中村遊郭で妓楼を2店舗(中嶋楼、政中嶋)経営していました。

 

 

林政治郎寄進の石碑と仏像
そんな中、堀江山 長谷院に「西国三十三所巡道標柱(大正5年)」や「西国三十三観音 第3番(大正3年)」を寄進しました。

 

林政治郎 寄進 手水鉢

そして長谷院境内にある西堀江神明社には「手水鉢(明治45年)」を寄進しています。

 

以前の記事でも触れましたが、林政治郎さんと長谷院と何か関係あるのでしょうか?

確証が無いので大きな声では言えませんが、ひょっとしたら関係あるのではないか、それも杉屋佐助さんと関係しているのでは!?と。びっくり

ただ、あまりにも確度が低いと思うので先日の記事には書きませんでしたが、あくまで一つの可能性としてウインク

 

「堀江山 長谷院」墓地の田内家分家領域(杉屋佐助塚)に、田内源太郎さんという方が昭和2年に建立されたお墓があります。

そこには大正13年に亡くなられた「 林次郎」さんという名前が刻まれているのです。

ということは、田内家(一族)の中に「林」姓の人がいるということになります。

ただそこに林政治郎さんの名前は無いので、政治郎さんと田内家を結びつける証拠はありません。

 

・長谷院境内に寄進物が多い

・田内家区画の墓石に「林」姓あり

この2つの事実から、林政治郎さんは杉屋佐助さんと繋がりのある人物か??と考えました。

しかしまぁ、世の中に「林」姓は多いですからなんとも言えません...あせる

 

 

花火花火花火花火花火

 

さて、林政治郎さんの寄進物は長谷院だけでなく、先人達によって他所でいくつか発見されています照れ

 

林政治郎の寄進物、甚目寺、中之坊寺

私は長谷院の他には愛知県あま市の「甚目寺」と愛知県常滑市の「中之坊寺」で林政治郎さんの寄進物をみましたが、どちらも大正6年(1917)5月に寄進されていました。

 

甚目寺の四国八十八カ所札所巡道内の寄進物も確認してみました。

第5番の寄進は中嶋楼の林政治郎さん。

 

第11番の寄進には政中嶋とありますが、林政治郎さんの寄進ではないようでした(「林」姓は同じですが、下の名前は判読できません)。

 

 

「林政治郎」さんをネット検索すると神社よりもお寺がメインで名古屋市内や知多半島などでも発見されているようです!

※神社は西堀江神明社の手水鉢のみ?

※もしかすると林政治郎さんは知多に別荘を持っていたかもしれない。

 

 

林政治郎さんは、このように篤い信仰心をお持ちの方で、中でも巡礼(西国三十三、四国八十八、阿弥陀如来四十八願所など)に重点をおかれているように思えます。

 

寄進有名人を年代別にみると、杉屋佐助さんが江戸末期、柴山藤蔵さんが江戸末期から明治時代、林政治郎さんが明治から大正時代、伊藤萬蔵さんが明治から昭和。

煌めく偉人達のおかけで江戸末期から昭和まで万遍なく、楽しく勉強させてもらってます照れ

 

今回は林政治郎さんのおかけで、名古屋の遊郭について勉強させてもらいました爆  笑楽しいな!

 

花火花火花火花火花火

 

という訳で、林政治郎さんという人は、

 

・明治後期から昭和初期まで旭廊と中村遊郭で2つの妓楼(中嶋楼、政中嶋)を経営していた。

・遊郭には同姓(「林」)の楼主が何人かいるが関連は不明。

・長谷院、甚目寺をはじめ、知多四国巡礼などに石造物を寄進している篤志家でもある。

・寄進は明治後期から大正時代。

・長谷院の三十三観音の発起は林政治郎さんかもしれない。

です。

結局、新事実はほぼないです笑い泣き

昭和(中村遊郭に移ってから)の寄進物はあるのでしょうかね~??

 

それにしても林政治郎さんの寄進物一覧をまとめている方がいないのが残念です。

どれぐらいの寄進物があるのでしょうね爆  笑

 

 

花火花火花火花火花火

 

ところで平成寄進王っているのでしょうか?キョロキョロ

 

それがいるそうなんです!びっくりマジで!?

 

それは堀健一さん(通称:ホリケン)だそうです。

中之坊寺に訪れた時、たまたま出会った大先達さんから教えて頂きました照れ

ありがとうございますお願い

こういう出会いもまた楽しいものですね。

 

林政治郎 寄進の仏像と灯籠

※Googleストリービューより引用・加工

これは名古屋市昭和区八事にある興正寺の入り口にある大きな石造物で、堀健一さんが平成24年に寄進されています。

 

寺社巡りをするうちにウォッチする人物がどんどん増えていき困っている今日この頃あせる

 

またねー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今回は中村遊郭跡を散策しますニコニコ

 

中村遊郭跡のマンホール蓋、大門

大正12年(1923)に移転した中村遊郭は戦争を挟んで形態を変化しながら続けていましたが、昭和33年(1958)4月に売春防止法(罰則規定含む)が施行される事となり、「中村遊郭(名楽園)」の閉園となりました。

その際、中村遊郭は全国に先駆けて昭和32年12月末に一斉に転廃業へと踏み切ったそうです。

 

それから約70年近くになりますが、数年前までは遺構が結構残っていたようですびっくりオドロキ

今行っても、ほとんど取り壊されて見どころはあまりないかと思いますが、探してみましょう照れ

 

ちなみに「中村遊郭」でネット検索するとたくさん記事や動画が出てきますあせるので、"なるべく"被らないような内容としました。

 

 

やはり最初に訪れるのは林政治郎さんのお店、「中嶋楼」と「政中嶋」ですね!爆  笑

 

中村遊郭の地図と史跡

 

 

 中 嶋 楼 

中村遊郭跡の建物と看板

中村遊郭跡 地図「中嶋楼」

羽衣町の「中嶋楼」跡。

今はマンション(黒色)と駐車場とシャッター付きの建物、そして二階建ての建物があります。

一応、中嶋楼だったと思われる敷地の一部に二階建てのそれらしい建物が残っていますが...どうなんでしょうか。

 

 

 政 中 嶋 

ネパール料理屋「ネパールキッチン」の外観

中村遊郭地図 政中島と撮影方向

賑町の「政中嶋」跡。

今はネパール料理屋と旅館になっています...。

 

 

次はピアゴ中村店の南側に少し遺構が残っていたので見てみましょうニコニコ

 

中村遊郭跡の地図


① 牛 若 楼 

中村遊郭跡:旧中嶋楼や庭園

牛若楼」は、今は「伊とう」という蕎麦屋さんになっています。

リノベーションされていますが、面影は残ってるいると思います照れ

遊郭の中で唯一、家の中を見る事ができる建物となってしまいましたあせる

 

 

② 森 田 楼 

中村遊郭跡:福岡楼の看板

「牛若楼」の右隣に建っています。

モダンなタイルの壁と和の丸い窓が特徴的です照れ

屋根の瓦に「森田」と、かつて森田楼であった名残を見る事ができます。

 

 

③ 福 岡 

中村遊郭跡「福岡」

「牛若楼」の左隣に建っている「福岡」です。

売春防止法で転業して現在まで続いている数少ないお店といえるでしょう。

建物(の表面)は現代風な造りに変わっていますが、中村遊郭の初期から営業しているという証拠(?)がありました。

 

「SINCE 1923」の文字。

1923年は大正12年で、旭廊の各お店が中村遊郭へぞろぞろと移転した年です照れ

名古屋旭廊では若松町に「福岡楼」として存在していますので、あくまでも中村遊郭に移転してからの1923ですね。

それとも旭廊の「福岡楼」とは別なのでしょうか。

突撃して話を聞いてみたいところですが...入りづらいあせる笑い泣き

 

 

 

中村遊郭跡地の地図

※GoogleMapより引用・加工

中村遊郭の北東の端に「素盞男(スサノオ)神社」があります。

祭神は素盞男尊、安永3年(1774)現在の千種区に創建され、昭和8年(1933)にこの地に遷座されたそうです。

遊郭が繁盛している時にできた神社ですウインク

ただ、鳥居は何故か大正13年(1924)と遷座前の年号が刻まれています。

元の場所から移設でしょうか。


中村遊郭跡 素盞男神社 鳥居と社標

ここは中村遊郭の楼主(オーナー)からの信仰が厚く、多くの寄進物があります照れ

遊郭の守り神ですね!

 

中村遊郭地図

 

先に神社に寄進した楼主の位置関係を示します。

 

 

①社標(大萬・金水楼)

素盞男神社 昭和十二年三月建之

素盞男神社
昭和十二年三月建之
金水 近藤重太郎
大萬 横山かぎ

※「大萬」と「金水楼」は同じ賑町。

 


②玉垣(和合楼)

中村遊郭跡の碑と植栽

奉納主 和合楼 松本清二
※「和合楼」は大門町筋にあり、別館が大門町の西角にあります。
 

 

③常夜燈(第二自由亭楼)

第二自由亭楼の常夜燈 奉納

廊内安全
奉納 第二自由亭楼 山田英夫

※「第二自由亭楼」は寿町筋の角にあり、自由亭は賑町、別館は寿町筋にあります。
 

 

④手水舎(本家長寿楼)

素盞男神社 手水舎と鳥居

昭和十二年七月建之
奉納 本家長寿楼

※「本家長寿楼」は日吉町に4軒分の広さを持ち、中村遊郭最大級。
 

 

⑤燈籠1(稲本別館)

稲本別館の石碑と緑葉

献燈 稲本別館 仲居中

※「稲本別館」は正式には「稲本楼別館」。日吉町の長寿楼の前にあります。
※「仲居中」と女性従業員?による寄進は珍しいのかもしれない。
 

 

⑥燈籠2(中村楼)

中村遊郭跡の石柱と常夜燈

昭和十四年七月
献燈 中村楼 林 久五郎

※「中村楼」は羽衣町にあります。
※同じ姓の林政治郎さんの「中島楼」も羽衣町にありますが関連は不明。
 

 

⑦狛犬(新福楼)

中村遊郭跡の素盞男神社狛犬

昭和十二年三月建之
賑町 鈴木佐治平

※調べると「新福楼」の楼主でした。

 

 

とりあえずザッと調べただけなので、境内にまだあると思います照れ

訪問時は真夏で、長時間の調査は無理でしたあせる

 

昭和12年(1937)の寄進が多いのは、中村遊郭の最盛期で花魁道中も行われたからでしょうか。

個人的には素盞男神社に林政治郎さんの寄進物が見つからなかったのが残念でしたね~えーん

 

中村遊郭跡の古い建物と街並み

以上で中村遊郭は終わりです照れ

 

次回は林政治郎さんについてのまとめです。

 

またねー!

 

 

 

前回の記事で林政治郎さんが名古屋旭廊で2つのお店をやっていた事がわかりました。

そして、大正12年(1923)に街中にあった旭廊が風紀上の問題等から中村遊郭へと移ることになります。

移転に伴ってお店を辞める人も居た中、林政治郎さんはどうしたのでしょうか。

 

名古屋の地図:中村遊郭、名古屋駅、旭廊

※今昔マップから引用・加工

これは大正9年測図の地図です。

密集地帯にある旭廊に対して移転先の中村遊郭は周りに何もない僻地ですあせる

 

中村遊郭の移転先を示す地図

ちょうど大正9年から移転の為の整地が始まったため、中村遊郭の場所には更地と区画を表す堀だけ見えています。

これから大正12年にかけて徐々に独特の雰囲気のある建物が建てられていくことになりますニコニコ

 

まだ名古屋駅から近いのが救いでしょうか。

 

中村遊郭と名古屋駅の地図

※GoogleMapより引用・加工

こちらは現在の地図です。

旭廊より中村遊郭の方が面積が少し大きくなっているのがわかりますニコニコ

移転の理由に旭廊が手狭になったというのもあったそうです。

そして名古屋駅は若干北に移動しました。

 

中村遊郭と名古屋駅周辺地図

※GoogleMapより引用・加工

中村遊郭の拡大地図です。

遊郭の4つ角の入り口は斜めの道となっており、中の様子が見にくくなるよう配慮された設計と思われます。

町の名前がより縁起の良いものになっていますね照れ

 

 

さて、林政治郎さんのお店「中嶋楼」と「政中嶋」はどうなったのでしょうか!?びっくり

 

『歓楽の名古屋』という本に載っていた中村遊郭の地図です。

年代は恐らく本が発行された直前の昭和12(1937)年頃と思われます。

中村遊郭が誕生して約14年後の地図ですが、ちゃんと「中嶋楼」と「政中嶋」がありました!爆  笑

林政治郎さんは無事中村遊郭へ移転できたようですお祝い

良かった良かった照れ


林政治郎 新加島樓 加島樓

※『名古屋・愛知県・岐阜県・三重県職業別電話名簿 大正12年版』国立国会図書館デジタルコレクションより引用・加工

こちらは大正12(1923)年版の電話帳で、中村遊郭移転の年の情報となります。

ただ、店名が「中島楼」が「新加島楼」、「政中嶋」が「加島楼」に変わっていますびっくり

両店舗とも町名は羽衣町と賑町で同じです。

オーナーも「政中嶋」の方が変わっていますね。同じ"林"姓なので親族でしょうか。

 

それで、なぜ電話帳と名前が違うのかという理由ですが、移転する時は心機一転で新しい屋号にしようと電話帳に登録したけど、お客さんから前の馴染みのある名前のがいいと言われて、もとに戻した...とか?てへぺろ憶測です。

 

次回は、現在の中村遊郭を見に行った様子です。

はたして遺構は残っているのでしょうか?あせる

 

 

以下、余談です。

花火花火花火花火花火花火

昭和12年の名古屋

 

歓楽の名古屋』という本は昭和12年(1937)3月に発行されています。

時は中村遊郭の最盛期(貸座敷138軒、娼妓2000人)で、花魁道中が開催された年でもありました。

名古屋駅が北側へ少し移動したのもこの年です。

 

本の内容は前半は昼間のデパートや寺社などの名古屋観光、後半は夜の観光...という構成となっています。

これは丁度この年の3月から「名古屋汎太平洋平和博覧会」が熱田神宮の南側で開催されるため、来場客を取り込めるよう観光ガイドブック的な本にし、博覧会に合わせて発行したようです。

持ち歩きしやすいよう、本のサイズも小さめに作られていますグッド!

当時の遊女名鑑も掲載されており、『吉原細見』ならぬ『中村細見』ウインク

林政治郎さんの中島楼は14人、政中嶋は19人の遊女が紹介されています照れ

 

しかし、「平和博覧会」とした平和の願いも届かず、この年の後半から日中戦争が始まり、いよいよ日本は戦争一色に染まっていく...。

昭和12年はそんな年だったんですね。

 

 

 

 

またねー!

 

 

これまで堀江山 長谷院林政治郎さんの寄進物を見てきました。

 

名古屋旭廊 中嶋楼 林政治郎 寄進碑

そこには「名古屋旭廊」、そして「中嶋楼」と「政中嶋」と刻まれています。

 

まず「名古屋旭廊」を調べると、明治7年から大正12年(1923)にかけて名古屋市中区大須あたりにあった「遊郭」である事がわかりましたニコニコ

 

「遊郭」というと江戸の「𠮷原遊郭」が有名ですが、名古屋にもあったんですねー!

今回の旭廊は明治から大正時代ですが、名古屋にも江戸時代に遊郭がありました。

 

旭廊の古地図と遊郭の賑わい

※『享元絵巻』名古屋市博物館から引用・加工

今の名古屋市中区橘町や古渡町あたりで遊郭が存在していたそうです。

 

 

 

名古屋の遊郭「旭廊」の地図

※GoogleMapより引用・加工

さて、名古屋旭廊のあった場所を地図でみるとこんな感じのようです。

大須観音の北西側一帯にあったようですね!ニコニコ

 

大須旭廊の風情ある提灯祭の様子

※那古野山古墳公園案内板より引用・加工

大正時代、花園町で行われた「提灯祭」の様子。

いい雰囲気ですね~照れ

 

 

名古屋の街並みと矢印

現在の花園町の様子。往時の面影はありませんあせる

 

名古屋旭廓の地図「大須大福帳」

 

これは『大須大福帳』に載っていた大正12年3月の旭廊の地図です。

よく見ると遊郭の中には遊女屋だけでなく、いろんなお店がありますね爆  笑

寿司屋、床屋、ハリ医者、駄菓子屋、仕出し屋、湯屋、下駄屋、酒屋などなど揃ってます。

 

名古屋旭廊の地図と地名

※Googleマップより引用・加工

GoogleMap地図と無理やり合成するとこんな感じニコニコ

ちょっとわかりにくいですねあせる

ど真ん中を国道22号が南北に通っています。

 

旭廊地図「中島楼」と「政中島」

そしてそして、赤く塗った場所には、「政中島」と「中島楼」がちゃんと載っているではありませんか!爆  笑おぉっ

 

名古屋旭廊 林政治郎 中島楼

※『大阪を中心とせる近県電話帳 大正12年用』国立国会図書館デジタルコレクションより引用・加工

さらに、この大正12年の電話帳に「中島楼」が載っています。

中島楼 林政治郎 中区常盤町16

住所の常盤(ときわ)町も人名も一致しました。

 

これにより、林政治郎さんは旭廊で2軒の貸座敷(遊女屋)オーナーである事が判明しました照れ

 

政中嶋跡、旭廊跡地の現在の様子

現在の政中嶋跡。今は居酒屋さんになっているようです。

政中嶋跡。現在のシブヤパイピング付近

※訂正

よくよく調べてみると若松町通りは当時少し南にありました。

従って、政中嶋は現在の「株式会社シブヤパイピング」が正しいと思います。

 

 

中嶋楼跡:常盤町、建物と車

現在の中嶋楼跡。奥の建築中のマンションと思われます。

間口狭くて奥に長い構造は一緒ですね!ニコニコ

 

 

花火花火花火花火花火

 

さて、大いに賑わった旭廊ですが、大須という街中にあり風紀等の問題で大正12年4月から名古屋市中村区(名古屋駅西側)の「中村遊郭」へと移る事になりました。

そこは周りに何もない僻地!

移転に伴い、客足が遠のくのを恐れてお店を辞める人もいる中、林政治郎さんはどうしたのでしょうか。

 

次回は林政治郎さんと中村遊郭についてです。

 

 

オマケウインク

富士浅間神社鳥居の寄進者名

こちらは大須2丁目にある富士浅間神社の鳥居です。

大正9年の鳥居は旭廊の人達で寄進されました。

 

右側には、若福、玉の家、増相生、美の(野)家、三喜廼恵、喜廼恵、福の家、三国家、福萬、新喜廼恵、新春喜(㐂)、福鶴、新喜月と妓楼と娼妓の名前が並んでいます。

各お店の場所分布をみると、旭廊の東側に集中しているのが興味深いです。

そして鳥居の左側は杵屋の一族(?)11名(全員名前の最初に「三」が付く)。

 

このうち福鶴と新喜月、杵屋は上記の旭廊地図には載っておらず、少し悲しいですえーん

旭廊初期(明治10年)の地図にもありませんでした。

 

 

鳥居に林政治郎氏の寄進銘。大須

こちらは富士浅間神社と同じ区域にある北野神社の鳥居です。

本家長寿楼の林長十郎さんご夫婦で大正4年11月(大正の御大典)に寄進されています。

手水鉢にも壽楼や福岡など楼名が刻まれています。

また、玉垣は長寿楼、福の家、福岡楼、楽長寿、㐂の恵(喜廼恵)、芸者部屋の金波楼などから大正6年に寄進されています。(いずれのお店も旭廊地図に載っています)

 

現在、旭廊の遺構はこれぐらいしか残っていないかもしれません。

興味のある方はぜひ見に行ってみてくださいニコニコ

 

マンション entrance ACCESS 1924

最後に、こちらは大須1丁目の常盤通り沿いにあるマンションです。

エントランスに「ACCESS 1924」とあります。

1924年は大正13年。

これがsince1924のことであれば、旭廊の人達が中村遊郭へ移った翌年ということになりますね!
 

 

 

またねー!

 

 

 

今回も前回に引き続き、愛知県清須市桃栄の「堀江山 長谷院」にある林政治郎さんの石造物ですニコニコ

 

林政治郎 寄進の石造物

林政治郎さんは「西国三十三所巡道」の標柱を大正5年(1916)2月に寄進されました。

これだけかと思いきや、実は長谷院には他にも林政治郎さんの寄進物があったのです。

という訳で、見ていきましょう!ニコニコ

 

  西国三十三観音 第三番

林政治郎寄進の石仏と長谷院の五重塔

 

長谷院の石仏と手水鉢、林政治郎寄進

[花立]
(家紋) 林氏
※2本同じ

[台座正面]
三番 先祖代々

[台座右面]
大正三年七月

[台座裏面]
なし


[台座左面]

名古屋旭廊
中島楼 政中島

 

大正3年(1914)建立の石仏です。

「林政治郎」の名前はありませんが、西国三十三所巡道標柱と同じ「中島楼」「政中島」、花立には「林氏」と刻まれているので林政治郎さんの寄進と考えて問題ないと思います爆  笑

 

林政治郎寄進、西国三十三観音石仏

『新川町史 資料編1』によると、この西国三十三観音は大正2年(1913)から5年(1916)にかけて造立されたとあります。

 

西国三十三所巡道標柱、林政治郎寄進

前回の「西国三十三所札所巡道」の標柱は大正5年に建立されたため、三十三観音すべての石仏が揃ってから寄進されたのかもしれません。

 

 

 

  手水鉢(西堀江神明社)

手水鉢「洗水」 林政治郎寄進 旭廊

長谷院の境内東側にある神明社の手水鉢です。

 

林政治郎寄進の石仏と手水鉢

[正面]
洗水

[右面]
明治四十五年三月


[裏面]
なし

[左面]
寄附人 名古屋廊
中嶋楼 政中嶋
林政治郎

 

手水鉢は明治45年(1912)3月に寄進されています。(※7月30日に大正へと改元)

なお、神明社は手水鉢の他に社標(石工 角田六三郎)と鳥居(石工 荒木弥助)も明治45年(1912)3月に寄進されているので、この年に神社改修が行われたと思われます。

 

さて、そうすると林政治郎さんが寄進した順番は

①手水鉢(明治45年)

②西国三十三観音 第三番(大正3年)

③西国三十三所札所巡道標柱(大正5年)

となります。

 

まさか三つも寄進しているとは驚きですびっくり

ここで気になるのが、林政治郎さんは何故3つも寄進したのでしょうか。

巡礼関係は他所でも寄進されていますが、西堀江神明社に寄進したのは気になりますねキョロキョロ

長谷院あるいは西堀江村と何らか縁があったと思いますが、残念ながらわかりませんあせる

 

 

次回は林政治郎さんが刻んだ「名古屋旭廊」そして「中島楼」「政中島」についてです。

林政治郎さんは何者なのか!?

 

 

またねー!

 

 

 

 

久々の投稿です。

ネタはたくさんあるけど、なかなか書けないというあせる

 

今回は「堀江山 長谷院(愛知県清須市桃栄)」にある西国三十三所巡道標柱についてです。

 

長谷院の西国三十三所巡道標柱

江戸時代末期、名古屋の豪商「杉屋佐助」さんが再興し、菩提寺ともなっている長谷院。

そんな境内には佐助さんに関連する石造物が多数存在し、このブログでもいくつか記事にしていますニコニコ

 

長谷院には佐助さん関連以外の石造物も多数あり、今回の「西国三十三所巡道標柱」もその一つです。

時代は杉屋佐助さんの江戸時代末期から約50年後の大正時代となります。

 

それではみていきましょう!照れ

 

 

  西国三十三所札所巡道標柱

長谷院 政治郎 巡道標柱

[正面]

(梵字) 従是准西國三拾三所札所巡道

[右面]
施主 名古屋市旭廊 政中嶋 中嶋楼 林政治郎

[後面]
なし

[左面]
大正五年二月建之

 

大正5年(1916)に建てられたこの標柱の正面には「これより西国三十三所札所の巡道」と刻まれています。

 

長谷院の林政治郎寄進の石仏群

「西国三十三所」といえば、境内にある三十三所燈明三十三観音石仏と関係がありそうです。

 

長谷院の西国三十三所巡道標柱地図

※GoogleMapより引用・加工

この地図は現在の長谷院で標柱や石仏がそれぞれどこに配置されているかを示しています。

これをみる限り、「これより」とあるにもかかわらず標柱が立っている場所と三十三観音の場所も方向も違います。(反対方向にある)

もともとどこに立っていたのでしょうか?キョロキョロ

 

石造物寄進の生涯 伊藤萬蔵』の「長谷院 西国三十三所第五番札所石仏」の説明に

昭和四十五年、本堂再建時に現在のように祀る

と記載されています。

 

長谷院の西国三十三所巡道標柱

※『尾張名所図会』国立国会図書館デジタルコレクションより引用・加工
ということは、この標柱が立てられた大正5年(1916)当時は絵図のように参道に三十三所燈明と石仏があり、その入口(津島上街道沿い)に西国三十三所巡道標柱が建っていたと考えられなくもないですねニコニコ

まぁ、この方が自然なので、たぶんそうでしょう!

 

長谷院 巡道標柱 寄進者 林政治郎

さて、この標柱を寄進した人はというと、右面に刻まれています。

施主 名古屋市旭廊 政中嶋 中嶋楼 林政治郎

 

林政治郎さんが何者なのかは一旦置いとくとして、

実は 林政治郎さんの寄進物は長谷院境内にまだあったのです!爆  笑

 

次回は他の寄進物について見ていきます。

またねー!

 

レモン彗星と呼ばれる彗星が今見ごろとの事で、撮影にチャレンジしてみましたよ!爆  笑

 

このレモン彗星は今年(2025年)の1月に発見された彗星だそうで、公転周期は約1000年!

前回は約1300年前らしい。

周期にズレがあるのは木星とか惑星の重力の影響を受けるためだそうです。

当時の日本は奈良時代!びっくり平城京。

「お久しぶり~っ!元気だった?」というレベルを超えてますね。

 

さて、そんなレモン彗星が見ごろではありますが、なかなか天候に恵まれませんあせる

それでもなんとか撮れそうな星空になったのでチャレンジ!照れ

 

緑色のレモン彗星と星空

 

 

緑色のレモン彗星の写った星空

緑色した彗星。なんとか尻尾が写っています。

 

緑色のレモン彗星と星々

 

緑色レモン彗星、尻尾写る

FZ-1000M2  f/4  ss 4sec ISO3200 144mm(換算396mm)

ISOを3200まで上げて撮影。そのためノイズ多め。

下側にある白い線は衛星と思われます。

 

去年のアトラス彗星と違ってかなり見え辛いです。

アトラス彗星は双眼鏡でも尻尾がみえましたが、レモン彗星は尻尾まではみえませんでした。

 

 

そして、撮影から30分ほど経つと雲に覆われて見えなくなってしまいましたえーん

 

 

 

次回は約1100年後だそうですびっくりひぇ~っ

その時は宇宙船に乗って彗星の直ぐ傍から観測できそうですねウインク

 

またねー!

 

 

 

 

 

 

 

以前、長谷院の西国三十三所燈明の並び順について考察しましたが断定には至りませんでした。

かつての長谷院の様子を記した文献にもなかなか辿り着けません。

 

そこで、とりあえず古い長谷院の写真があれば何か手掛かりになるのではないかと思い、図書館で写真集を見てみる事にしました。

長谷院は美濃路の近くにあり、津島街道沿い(境内を津島上街道が通っている)にあるので、誰か参道からの写真を撮っている人がいるのではないか!?爆  笑

もし発見できれば燈明の方向がわかるかもしれない!

 

 

いくつか本を見ていると、古い長谷院の写真を見つけました!花火

稲沢・清須の昭和』という写真集のp.32に長谷院の本堂の写真が載っています。

見つけた時は小躍りしました爆  笑

 

昭和初期の長谷院本堂写真

 

堀江の観音さんの旧本堂

 

長谷院は、創建ははっきりしないが、十一面観音立像を本尊とする古刹である。
地元住民から「堀江の観音さん」と呼ばれ親しまれている。
真言宗の学問所でもあった。兵火と清洲越で名古屋大須の浄土寺院に移ったが、
そこで尾張西国三十三観音霊場2番札所として信仰を集めた。
一方堀江の人びとの要望で天保3年(1832)旧地に戻り、元尾張藩主の多宝塔仁王門の寄進や、
名古屋の商人・杉屋佐助らの尽力で再建。
津島街道が境内を通り、石造物が多い。
写真には昭和20年の空襲で失われた本堂が写る。<清須市桃栄・昭和初期・提供=加藤富久氏>

説明によると、この写真は昭和初期、昭和20年の空襲で失われる前の本堂との事です照れ

 

 

長谷院の旧本堂、昭和初期の写真

こちらは現在(昭和45年に再建)の本堂です。

 

長谷院 昭和45年再建 銘板

本堂にある銘板

昭和四十五年十一月八日再建
堀江山長谷院 十四世 誓誉代
堀江山長谷院再建奉賛会

 

二つの写真を比較すると、全然違いますねびっくり

本堂前の2対の常夜燈は笠と火袋があり、奥の方は「永代常夜燈」と刻まれているのがわかります。

この「永代常夜燈」の2基は長谷院の宅地化で掘り起こされた常夜燈かもしれません。長谷院 永代常夜燈 銘板

一つは天保15年の杉屋佐太郎さんと徳蔵さんが寄進したもの。

もう一つは嘉永3年の「為 有縁無縁菩提」で田内氏が寄進したもの。

これ以外に長谷院境内に「永代常夜燈」と刻まれた石造物は現存していません。

構造も基台に乗せるようになっていて写真と同じです。


 

 

写真を見比べて一通り満足すると、一つ疑問が浮かんできました。

この写真の本堂は佐助さんが建てた本堂なのだろうか?キョロキョロ

震災や戦災、火災で本堂はどうだったのでしょうか。

 

一つ発見すると一つ謎が増える笑い泣き楽しいな~♪

という訳で、今まで集めた文献を参考にまとめた長谷院の年表(建物系)をみてみましょう。

 

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■阿弥陀寺末寺時代
尾張三十三観音霊場二番札所となる。


■天保3年(1832)

2月~3月、西堀江の有力者によって長谷院の旧地である観音山に仮堂が建てられ、本尊十一面観音像が安置された。
長谷院(仮堂)の古地図

※『津島の渡り』より引用・加工


■天保4年(1833)
2月18日から4月8日までの50日間、御開帳。


■天保5年(1834)
尾張徳川家下屋敷の多宝塔・仁王門を藩公より下賜され、その運搬費の捻出として「八銭講」を企画するがほとんど集まらず、村民総出で運搬して5月に建立した。


■天保12年(1841)
長谷院本堂の古地図
※『新川町史 資料編 天保12年6月 春日井郡西堀江村』より引用・加工


■弘化2年(1845)
長谷院本堂の古い絵と図
※『新川町史 資料編 弘化2年4月 春日井郡西堀江村』より引用・加工


■弘化3年(1846)
杉屋佐助さんにより本堂が完成する。
長谷院本堂と塔の絵


■嘉永7年(1854)
2月18日から4月8日までの50日間、御開帳。
長谷院の旧本堂と塔の絵

※『尾張名所図会』より引用・加工
9月ごろ尾張名所図会の景観が整ったと推測。



■安政元年(1854) ※11月27日改元

(嘉永7年)11月4日、安政東海地震が発生。

長谷院の被害については不明ですが、『尾張名所図会』の長谷院が明治時代に描かれたものなら大丈夫だったと言えますが、はっきりしません。

 


■明治24年(1891)
濃尾大震災のため庫裡・仁王門・多宝塔・鐘楼等全潰


■明治25年(1892)
5月、被災した仁王門を再建。


■明治27年(1894)
8月、被災した庫裡及び鐘楼堂を再建。


■明治29年(1896)
5月、被災した多宝塔を再建。


■大正12年(1923)

この時点で本堂、庫裡、鐘樓、明王堂、多宝塔、仁王門あり。


★昭和初期

本堂の写真を撮影

昭和初期の長谷院本堂写真

※『稲沢・清須の昭和』より引用・加工

 


■昭和20年(1945)
3月12日の空襲によって、本堂・庫裡・明王堂が失われる。


■昭和27年(1952)
2月28日、仁王門焼失。


■昭和34年(1959)
仁王門再建。
伊勢湾台風で本堂が失われる。


■昭和45年(1970)

11月、現在の本堂を再建。

長谷院 昭和初期 本堂写真

 

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こうしてみると、安政の大地震よりも明治24年の濃尾大震災で本堂がどうなったかがポイントのようです。

『新川町誌』には「鐘楼全潰」とあるので、その時本堂も倒壊してしまったのでしょうか。

ただ、震災後に多宝塔や仁王門の再建について記載はあるのですが、本堂についてはありませんあせる

 

長谷院旧本堂と尾張名所図会の比較

写真と尾張名所図会の本堂を比べてみると、階段や屋根の向き、上部飾り(宝珠)、柱、燈籠の配置など良く似ています爆  笑

もしかすると写真右端の木は図絵にも描かれているかもしれませんニコニコ

ただ、正面の屋根の形状が若干違うような...。

図絵では「でっばり」がありますが、写真の方ははっきりとわかりませんがでっぱりがないような...???

 

震災当時、本堂は潰れたのか、潰れた場合本堂がどのような方法で復元を行ったのかわかりません。

しかし私としてはこの写真は佐助さんが建てた本堂と同じ物と思いたい照れ

 


※参考文献

『西春日井郡誌』

『新川町史 資料編』

『新川町史 通史編』

『新川町誌』

『新川町八十年のあゆみ』

『稲沢・清須の昭和』

『名陽見聞図会』

『尾張名所図会』

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年(2025年)も愛知県名古屋市港区の南陽地区にある「田んぼアート南陽」を観に行ってきましたよ!爆  笑

 

見に行き始めて5回目!

さて、今年はどんな絵が描かれているのでしょうか!?ニコニコ

 

田んぼアート南陽 2025 展望台

今年も無事開催!照れ

 

田んぼアート南陽、協賛企業一覧

協賛企業が毎年増えていっているようです!爆  笑よかった!

 

田んぼアート南陽2025 風神雷神

そして今年は「風神雷神」が描かれているようですヨ!爆  笑

それでは見てみましょう!

 

名古屋南陽の田んぼアート「風神雷神」

ジャジャーーン!!

 

あれれ?

今年は稲の様子がいつもと違う!?

妙に「ふさふさ感」が...びっくり

 

 

名古屋 田んぼアート 南陽地区 稲穂

それもそのはず、見に行ったのは9月下旬あせる

実るほど頭を垂れる稲穂かな」状態上差し

風神はなんとかわかりますが、雷神の方は背負った太鼓はなんとかわかるものの、なかなか厳しいあせる

下部の「名古屋 南陽」の文字も稲が伸びすぎて解り辛くなってしまいました。

 

↓こちらは去年(2024年)の作品

これは2024年の8月中旬だったのでまだ青々として絵柄もクッキリと見えています。

 

この去年の作品は、現在のGoogleマップ航空写真でも見ることができました。

※Googleマップから引用・加工

時期的には田植え直後の航空写真でしょうか。

空から見ると間延びして見えますね。

展望デッキに立つと違和感なく見えるようデザインされているのがよく分かりました。

素晴らしい爆  笑

 

 

ここの田んぼアートの見頃は7月~8月といったところでしょうか。

今年はあまりの暑さに見学を見送っていたらちょっと来るのが遅すぎましたが、思ったよりも絵柄を見ることができました!

なにより今年も田んぼアートを見れたことに感謝感謝です照れ

 

田んぼアート南陽、稲穂の壁

既に一部の稲が刈り取られ、ガードレールに干してありましたニコニコ

 

 

異なる種類の稲を植えることで違った色を表現されています。

↑茶色の稲

 

↑緑色の稲

 

 

 

名古屋の田んぼアート、風神雷神

田んぼアートの刈り取りは10月13日との事です。

 

またねー!

 

 

 

【過去の田んぼアート見学】

 

↓2021年

 

↓2022年

 

↓2023年

 

↓2024年

 

以上