7月7日は七夕照れ

笹の葉さ~らさら~♪

のきばにゆれる~♪

 

七夕伝説では織姫と彦星が1年に一度会う事ができる日。

そんな夜空に展開されるロマンチックな出来事を見たい!爆  笑

 

しかし、7月7日の夜空が見えた年ってあまりありませんえーん

もしかすると、二人を引き離した天帝が人に見られないように情けをかけているのかもしれませんね爆  笑

 

見られたくない情事は逆に見てみたいゾ!

という煩悩丸出しの私は撮影を計画。

そして7日の夜、相変わらず曇ってはいましたが、所々に雲の切れ間があります。

これはワンチャンあるかも!?びっくり

と思い、撮影に出かけました。車

 

 

現地に到着。

気温は深夜なのに29℃と暑いあせる

空を見上げるとやはり雲が多く、織姫と彦星を探すのも難しい状況あせる

眼を慣らしても肉眼では織姫(ベガ)と思われる星しか見えません。

ポカリを飲みながら半分諦めモードでカメラをセッティングニコニコ

セッティングしている間にもどんどん雲が多くなってくる笑い泣き厳しい~っ

そして、たぶんここだろうという場所にカメラを向けてインターバル撮影。

 

天帝よ、今少し我に力を!

 

FZ1000m2  f/2.8 30sec ISO6400 プロソフトン[A](W) ポタ赤

何枚か撮った中で一番良かったのはこれかな照れ

 

 

たぶん、こんな感じです照れ

今年も二人は出会えたようですね!

 

さてさて、生きている間にあと何回七夕の織姫と彦星を見れるかな~。

 

またねー!

 

 

 

江戸時代末期に学者の細野要斎が執筆した『名古屋叢書三編 第二十巻 感興漫筆』。

日記調で書かれたこの文献のp304に、杉屋佐助さんと思われる記載がありますニコニコ

この情報もフォロワーさんより教えて頂きました!ありがとうございます爆  笑

 

『感興漫筆』は前回のブログ記事の上長瀬の茶所(安政5年)でも引用しましたが、今回は安政4年の寺社参詣の話です。

ここに「杉屋佐助」さんの名前が登場します。

 

丁巳四月廿日、一徳と共に登詣せんと、巳の刻過る頃より家を出、
出来町を出はなれ鉈薬師堂の前を過、末森村古城趾の傍を過、高針村に至て小憩し、
午の半刻頃岩崎村に至り、まづ六坊が滝を見る。
瀑布の高さ七間許、東向に下る岩角に不動の小石像を置く、近来新に彫刻すと見ゆ、
基石に 松屋久左衛門 杉の屋佐助 と彫たり、六坊が池その西にあり。
池心に小嶋ありて樹木生たり、景色よし、矚目了りて古城趾を尋ぬ。 

 

<意訳>

安政4年の4月20日、長男と一緒に参詣しようと午前10時頃に家を出発。

出来町を出て鉈薬師堂末森城址の傍を通って高針村で休憩、13時頃に岩崎村に着く。

最初に六坊が滝(現:菊水の滝)を見る。

滝の高さは12mほど、東に下る岩角に新しい不動明王像があり、台座には「松屋久左衛門 杉の屋佐助」と刻まれている。

滝の西側に六坊が池(現:弁天池)がある。

池の中に小島があって景色が良い。

堪能したので古城趾(現:岩崎城)を訪ねる。

 

 

 

という事で、

※GoogleMapより引用・加工

行程を地図にマッピングすると上記のようになりました。

往復20Km以上の道のりを普通に出掛けて行く感じが凄いびっくり

 

 

ちなみに

 

「松屋久左衛門」

「杉屋佐助」

 

と刻まれているようですが、これは

 

「松屋久左衛門」

「杉屋佐助」

 

と考えて良さそうですね!爆  笑

」を入れる位置が逆でしょ!とツッコミたくなりますが、当時ではよくありそうです。

 

 

という訳で、六坊が滝に来てみました!照れ

現在では菊水の滝と言われています。

 

奥まで入っていくと、細~い滝がありました!

しかし、高さは12mもありませんあせる

 

これは『尾張名所図会』 前編 巻5に描かれている「六坊が滝」です。

ここでは「岩崎瀧」と名付けられています。

水の量も景観もずいぶんと変わってしまったようで残念ですが、残っているだけ良かったとすべきでしょうねニコニコ

 

滝のある方向が北です。

滝には4基の石造物を確認できました。

 

先ずは滝の傍にある2つの石造物から見ていきましょう。

 

 

<1つ目の石造物>

右側の小さな石造物です。

『感興漫筆』には「小石像」とあるのでこれかもしれません。

三体八王龍王」と刻まれているような気がします。

「八大龍王」という不動明王の化身と関係があるのでしょうか。

台座に何か刻まれているような気がしますが、彫が薄く全く読み取れませんでしたあせる

 

 

 

<2つ目の石造物>

左側の少し大きめの不動明王像です。

台座にビッシリ何か刻まれており、もしてかしてコレ!?びっくり

 

10名ほどの商人(屋号)と思われる名前が刻まれています。

近寄れないためズームで狙いますが、薄暗さもあってなかなかくっきりとした写真が撮れませんえーん

暗いのでシャッター速度が稼げず、息を止めないとブレてしまいます。

撮影設定を変えたり、動画で撮ったりして、画像を解析してみたところ、なんとかこれだけ解読できました。

 

平松屋□□
□子屋(?)□□
□□屋松助
□□屋久七
□□市□門
□□屋利助
林仙吉
袋屋兵七
亀田屋弥七
平野屋吉助
加(?)藤秀秋

 

この滝の近くにあるお寺「妙仙寺」の文字が刻んであるように見えたのですが、よくよく見ると「林仙吉」でしたあせる

 

また、台座の左側面には年号または2名の名前と思われる文字が刻まれていましたが、解読は難しかったです。

ただ「杉の屋佐助」「松屋久左衛門」は無いと判断しました。

 

 

 

<3つ目の石造物>

滝の西側の中程に不動明王像がありましたが、これは台座が薄くて何も刻まれていませんでした。

 

 

 

<4つ目の石造物>

3つ目の像の上には、顔が取れた不動明王像がありました。

ちょっと触ったら落っこちそうです。

 

取れたと思われる顔は、台座の上に立て掛けてあります。

 

 

その台座の右側面に何か刻まれています。

位置的に正面から撮れないため、文字判別が難しいですあせる

なんとなく尾州の「」と「□町」という文字が刻まれているような気がしますが、どうなんでしょうあせる

少なくとも見えている範囲で佐助さんや松野屋さんの文字は確認できませんでした。

うーん、厳しいえーん

 

※2024/07/05追記

「菊水の滝」がある場所は尾州のようなので寄進物に「尾州」とは刻まないと思います。なので「尾」は尾州ではなさそうですね~。

 

という事で、残念ながら佐助さんの不動明王像を確認する事はできませんでしたえーん

 

 

ところで、なぜ滝のところに不動明王像があるか不思議に思って少し調べてみました。

大日如来でお馴染みの密教や御嶽信仰など山岳信仰で行う修行の一つに「滝行」があり、滝に打たれながら唱えるのが不動明王(大日如来の化身)の教えのため、滝と不動明王の関連性が高いようです。

確かにここの岩崎山には岩崎御嶽社がありますねニコニコ

 

 

 

少し時間が余ったので観光がてら周辺を散策してみましたよニコニコ

復元された岩崎城

織田信秀(信長の父)が建てたそうです。

 

併設された資料館の壁に置かれた「御嶽信仰」と思われる瓦。なぜここに?

 

さらにその横には岩崎城古墳。6世紀前半の円墳だそうです。

 

石室は復元です。

見晴らしの良い高台にある古墳です照れ

 

最後に岩崎御嶽(おんたけ)社

ここにはビックリしましたびっくり

 

拝殿。

 

不動明王と龍。

 

区画毎に石碑が所狭しと並ぶ。

 

 

山全体が完全なる異世界!

山岳信仰の凄さに感銘を受けました。

 

伊藤萬蔵さんが大正元年に寄進した香台を発見照れ

萬蔵さん、コンニチワ!爆  笑

 

 

残念ながら、佐助さんの不動明王像は見つかりませんでしたが、興味深い歴史探訪となりましたニコニコ

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

 

 

 

 

 

※Yahooオークションから引用・加工

杉屋佐助さんの大黒様から始まった謎解き散策爆  笑

 

私が疑問に思ったことは以下の3点です。

 

①上長瀬の茶所と正受寺は同一?

②上長瀬の茶所はどこにあったのか

③名古屋の商家が寄進した石造物はどうして消えたのか?何処へ行ったのか。

 

 

※あくまでも素人の考察ですので、的外れな点も多々あると思います。

 

  上長瀬の茶所と正受寺は同一?

 

私を悩み続けさせたのは正受寺の存在でした。

【谷汲長瀬①】上長瀬渡船場跡 記事でも書きましたが、閲覧した文献は『感興漫筆』を除いて上長瀬谷汲山茶所について触れられていないからです。

逆に『感興漫筆』は正受寺について触れていない。

これこそが、上長瀬谷汲山茶所と正受寺が同一ではないか?と、最後まで悩み続けた問題点でした。

 

『揖斐郡志』、『谷汲村史』、『長瀬誌』を何回読んでも上長瀬谷汲山茶所について載っていない。

おかしいな~。私の目が節穴なのか!?

 

はい、節穴でした!w

 

実は『長瀬誌』『谷汲村史』にはちゃんと上長瀬谷汲山茶所が載っていましたあせる

それぞれ該当部分を引用してみます。

 

・長瀬誌 p37 谷汲街道

 
されば谷汲街道には「是より何町」と切り石刻まれたる指導標を建て、里程を旅人に示し、三十六町目即ち一里に当る上長瀬旧舟場近くに燈明があり、亦善光寺街道とも云うので「是より谷汲へ一里、善光寺へ七十三里」と刻んだ石柱が今も建っている。
こゝに谷汲山茶所も設けられてあった。
斯く上長瀬にては旅人のため民宿を営む者多く渡舟の収益も多かった。

・谷汲村史 p548 上長瀬渡船場

 
上長瀬旧船場近くに燈明があって、石柱に「是より谷汲へ一里、善光寺へ七十三里」と刻んであり、ここに谷汲山茶所も設けられていた。

・谷汲村史 p549 武田耕雲斎通過の事

 

水戸浪人いよいよ長瀬を通過の趣を伝へ聞くや、上長瀬の接待所(岩崎にあり)に村民集合し、鉄砲等の武器を取り集め、浪人を打取る協議をなし一方四、五名の斥候を出して様子を伺はしむ。

なぜ見落としていたか?

 

それは思い込みでした笑い泣き

 

「上長瀬谷汲山茶所」の事を脳内では「上長瀬茶所」としていたため、文献に載っている「谷汲山茶所」を勝手に「正受寺」の事と思ってしまったのです。

 

よくよく見たら大黒様の厨子に刻まれた「上長瀬谷汲山茶所」という文字の中には「谷汲山茶所」が含まれているではありませんかびっくり

まぁそれにしても文脈からわかりそうなものですが、なんでわからなかったのかなぁ。

お恥ずかしい限り...ランニング

※文献では正受寺の事を「長瀬茶所」とも表記されています。

 

谷汲村史のp549の水戸浪人(天狗党)の話については完全に見落しでしたあせる

というか、「谷汲山茶所」が理解できてから見えるようになりました笑い泣き

 

という訳でこの件は、

「上長瀬の茶所と正受寺は同一ではない

が結論で無事解決!花火

 


謎が解けると新たな謎が生まれるあせる

なぜ茶所名を華厳寺の山号である「谷汲山」と名付けたのか。名付ける事ができたのか。華厳寺との関係は!?

 

また、「上長瀬村の接待所(岩崎にあり)」の「岩崎」は、上長瀬の対岸の木知原村(現在の本巣市木知原あたり)にあった岩崎のことと思いますが、そうすると「上長瀬」と名付けるのはおかしなことに!?水戸浪人の話は元治元年(1864)なので、その頃は岩崎に移転したという事でしょうか...(なので敢えて「上長瀬」と付け加えたとか?)。

 

 

 

 

  ②上長瀬の茶所はどこにあったのか

 

 

杉屋佐助さんが上長瀬谷汲山茶所に寄進した大黒天様に記載された内容と、長瀬渡船場跡の石造物に刻まれた内容、そして『名古屋叢書三編 第二十巻 感興漫筆』『谷汲村史』『長瀬誌』に記載された内容の共通点をまとめると上記のようになります。

 

 

キーカギとなっているのは、接待所を開いたと思われる曹洞宗(※)の僧侶「般山」さんですねニコニコ

※洞上...曹洞宗、沙門...正式な僧侶、として解釈しています。

 

これにより、上長瀬谷汲山茶所は谷汲山(華厳寺)から一里の岸上にあると言えます。

一里は約4Kmです。

 

 

谷汲山華厳寺から長瀬郵便局を経て渡船場に向けて岸上まで4Km進むと、根尾川の樽見鉄道鉄橋の右岸側になります。

長瀬郵便局からの道は当時と違っている可能性が高いですが、概ねこの辺りと言えると思います爆  笑

 

という訳で、佐助さんが大黒様を寄進した上長瀬谷汲山茶所は、

※GoogleMapから引用・加工

上差しこの辺りにあったはずだ!(キリッw)

 

というわけで、この件も解決!花火

 

※「是より谷汲へ一里、善光寺へ七十三里」の石柱が現存するのかは宿題として残しますてへぺろ

 

 

 

  ③名古屋の商家が寄進した石造物はどうして消えたのか?何処へ行ったのか

 

毎度お馴染みの『名古屋叢書三編 第二十巻 感興漫筆』のp452から引用です。

 

川を越て長瀬村なり、岸上に接待茶所あり、渡しを越て長瀬村、尾張の商家の寄進する物多し。
後これを聞くに、庵主の僧、常に名古屋に出て商家など勧進す、故に名古屋人の寄附物多しと云。

安政5年に書かれたこの日記には、長瀬村には尾張の商家の寄進する物が多いと記載されています。

この『感興漫筆』を書いた細野要斎という学者は、道中に見かけた碑文などをマメに記録しているため、ここらへん(長瀬村)は名古屋の商家の寄進物が多いなぁと気づいたのでしょうね爆  笑

 

さて、その細野要斎さんが見た長瀬村から166年後、私は上長瀬、下長瀬、岐礼を散策しましたが、名古屋の商家が寄進した江戸時代の石造物は一つも見つけることができませんでした。

今回の散策で捜索範囲を全てカバーしたわけではありませんが、文献には「寄進する物」「寄附物」と記載されているので寺社をメインで散策しました。

実際、散策してみると神社と墓地以外ほんと石造物が無いのです。

そして訪れた寺社での石造物の年代は大正から昭和がほとんどです。

うーんあせる

 

それでいくつか理由を考えてみましたニコニコ

 

 

【理由①】廃仏毀釈により、お寺に在った石仏などが破壊された。

 

確かにどのお寺さんも境内はさっぱりとしていました。

この地区がどこまで徹底してやったか...ですが、お寺は残っているし全滅とは考えにくい...かなぁ。

 

 

 

【理由②】明治24年(1891)に発生した濃尾地震で全て倒壊、破棄された。

 

寺社ともに寄進物が新しいのはこれが要因かもしれません。

しかし、上長瀬渡船場や岐礼に江戸時代の石造物が一部残っているので、全滅というのは考えにくい。

 

 

 

【理由③】実はある屋敷の敷地内、または華厳寺に全て移された。

 

確かに華厳寺には杉屋佐助さんや柴山藤蔵さんの寄進物があります。

安全面等で管理できなくなったため、管理できる場所へ移したというのはありうる話だとは思いますが...どうでしょうかね~あせる

華厳寺の大捜索が必要ですな笑い泣き

※ヤフオクに出てた杉屋佐助さんが寄進した大黒様の流出経路も気になるところ

 

 

 

という訳で、この謎は解けないまま。

残念!

 

 

 

  おまけ

長瀬村の西側、巡礼街道沿いにも渡船場と接待茶所があるとの事で行ってみましたニコニコ

 

深坂渡船場跡

奥に広がる農地は、かつては湿地帯で雨が降ると湖のようになって不便だったそうです。

現場に行くと、なるほど!とイメージしやすかったです照れ

嘉永年間に松永要助という人が水路改良に成功し、渡船場は役目を終えたようです。

 

 

 

巡礼街道沿いにある「自性院」。

こちらも接待茶所のようで、「小野接待所」とも呼ばれているそうです。

住職さんはご不在のようだったので硝子越しに本堂を覗いてみましたが、茶釜は見えませんでしたあせる

本堂の隣りの建物が接待所だったのかもしれません。

この写真が「在りし日の自性院の写真」とならないよう、末永く残ってほしいと思います。

 

 

  おわりに

 

佐助さんの石造物が見つからなかったのは残念でしたが、

この謎解き散策は

とてつもなく面白かった!!花火

あれこれと推測するのがこれまた楽しい照れ

そして、数々の情報をご教示くださったフォロワーさんにもお礼申し上げます。

 

最後に散策で集めた谷汲山町石コレクションをご紹介して終わります。

 

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

【参考文献】

・揖斐郡誌

・揖斐川町史

・谷汲村史

・長瀬誌

・いび郡の地名

・谷汲の文化をたずねて

・谷汲村 ぶらり歴史散歩

・谷汲山門前街並マップ

・名古屋叢書三編 第二十巻(感興漫筆)

・マッピング谷汲

・こちぼらぼ

 

 

今回は長瀬村の北にある岐礼(きれ)を散策しますニコニコ

 

※GoogleMapより引用・加工

岐礼村は横に長いですが、ほとんど山で根尾川沿いと谷沿いに集落がある感じです。

 

最初に訪れたのは「稲荷神社」ですニコニコ

見るからに神聖な領域を感じさせます。

大垣藩主より本殿を奉納されたという。

 

拝殿前の大きな常夜燈です。

江戸時代かなと思いきや、「紀元二千六百年」記念行事で建立したようです。

紀元二千六百年記念行事とは、昭和15年(1940)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事で、当時盛大に行われたようです。

神社を10カ所ぐらい巡れば1つは出会うというぐらい爆  笑

次の紀元二千七百年記念は2040年。あと16年後です。

 

 

続いて「新宮神社」にきてみましたニコニコ

 

火袋以外は自然石で造られた燈籠。

絶妙なバランス!びっくり

無骨なところがカッコイイ!

なんとも良い味を出していますね~爆  笑

 

新宮神社の御神木であり、岐阜県天然記念物の「伊野一本スギ」。

樹齢は1000年以上らしく、平安時代に木の芽が出たというから凄いびっくり

木にはモミジやネムの木が宿っているそうです。

いやはや、木って地球上で一番不思議な生物かも。

 

なお、この新宮神社の「伊野」地区にも根尾川に渡船場があったそうです。

 

 

少し戻って岐礼谷方面へ向かいます。

岐礼観音堂入口の少し先に大きな常夜燈を見つけました!

なんと嘉永年間の常夜燈です!爆  笑

岐礼では初の江戸時代の寄進物!

 

[正面]
萬民安全
大神宮
左 谷汲道


[右面]
嘉永三庚戌年
三月吉旦造立


[裏面]
現住梅翁□
 

[左面]
右 ゑちぜん道 十り
 

 

嘉永三年(1850)に建てられた石燈籠です。

左 谷汲道、右 越前道と道標も兼ねています。

こちらもほぼ自然石で造られており、非対称感がなんとも良い感じですね照れ

「大神宮」と刻まれていますが、この理由について『谷汲村 ぶらり歴史散歩』によると、

当時、お伊勢参りが大流行しましたが、誰もが行けるわけではなかったため、この燈籠を建てて伊勢神宮の仮の宮としてお参りするようになったそうです。(大神宮=伊勢神宮)

 

※GoogleMapより引用・加工

谷汲から伊勢神宮までのルートは、大垣まで徒歩、大垣から桑名までは大垣市内を流れている水門川を船で下り、桑名からは伊勢湾を二見浦まで船で行って伊勢に上陸したそうです。

伊勢街道を使ってないのは意外でしたびっくり

ちなみに片道一週間ほどだそうですグッド!

 

そして「岐礼観音堂」へ向かいます。

 

動物除け柵を越えていきます。

 

観音堂の寺標でしょうか。

 

参道には西国三十三所札所の石仏が並んでいました。

 

やはり注目するのは八番札所の長谷寺。

長谷院の三十三所燈明は杉屋佐助さんの銘がありますからね爆  笑

しかし、施主は確認できず...残念あせる

 

本堂です。静かな佇まいです。

少し休憩させて頂きました照れ

 

 

続いては「法雲寺」です。

が、ここでトラブル発生!

ヒルにやられました笑い泣き

岐礼観音堂の参道でやられたのかな。

力強くしがみついているヒルをはがすと血が出てきました。

ティッシュで押さえますが血が止まりません。

 

道端は暑いので法雲寺の山門の日陰をお借りして、処置と休憩。

持ってて良かった絆創膏グッド!

 

いやはや参りました笑い泣き

はじめてヒルにやられました。

みなさんも注意してください照れ

 

という所で、これにて岐礼散策は終了です。

 

散策の締めとして最後に「華厳寺」にやってきましたニコニコ

 

杉屋佐助さんと佐太郎さんの供養碑。

佐助さん、佐太郎さん、コンニチワ!爆  笑

もちろん、伊藤萬蔵さんの寺標と柴山藤蔵さんの常夜燈も見てきましたよ!

 

と、そういえば行ってみたいところを思い出しました。

 

佐助さんと佐太郎さんの供養碑から「ため池」の方に降りていくと「妙法ヶ滝」があり、そこに不動明王が祀られているそうなので来てみました。

しかし、杉屋佐助さんかどうかは確認できず...。

 

 

杉屋佐助さんの大黒様から始まった謎解き散策爆  笑

 

次回は最終回、まとめ編です。


つづく。

 

 

今回は巡礼の人々をお茶でもてなしたと言われる「正受寺」を訪ねますニコニコ

 

下長瀬の六社神社から谷汲街道を西(華厳寺方面)へ少し行くと町石があります。

コレヨリ 谷汲山 二十九丁

 

※今昔マップ(国土地理院地図)より引用・加工

最初に正受寺の場所を確認しておきます。

現在は廃寺となっているようですが、地理院地図には正受寺の地図記号が残っています(という事は廃寺ではない?)。

航空写真で見ると空き地を指しています。

 

※国土地理院地図から引用・加工

こちらの昭和50年(1975)の航空写真には正受寺がしっかり写っています。

 

※Googleストリートビューから引用・加工

これは2014年に撮影されたGoogleストリートビューです。

この頃には既にお寺は無く、道路工事の車両置き場となっているようです。

 

 

そして現在の正受寺跡です。

かつて大きな茶釜で巡礼者を接待した正受寺も、今は草っぱらとなってしまいました。

『長瀬誌』によると休息石や日陰の松があったそうですが、それらしきものは見当たりませんえーん

 

※マッピング谷汲から引用・加工

これは「マッピング谷汲」というサイトに掲載されていた「正受寺」の写真です。

撮影は2000年頃と思われます。

大きな寺標っぽい石造物が気になりますが読めませんあせる

 

散策中3人の方に出会う事ができたので「正受寺」の事を聞いてみましたが、一人目はお若いためか聞いたこともない感じで、二人目は地元で無いためわからないとおっしゃっており、三人目で「住職さんがお亡くなりになり、しばらくはあったけど、その後無くなってしまった」というお話を聞くことができましたニコニコ

 

 

正受寺から南(管瀬川)方面には、名鉄谷汲線の「長瀬茶所駅」があったそうです。

wikiによると、「お茶所さん(正受寺)」の参詣客を見込んだものの、利用者が少なかったため昭和33年に廃止となってしまったそうです。

谷汲街道を歩きなら茶所に寄るのはありそうですが、電車だったら途中下車せずに華厳寺に最も近い終点の谷汲駅に行くかなぁあせる

 

ネットで調べると具体的に「長瀬茶所駅」がどこにあったのかはよくわかっていないようです。

wikiによると長瀬駅から700m先とありますので、ちょっと見に行ってみましょうニコニコ

 

 

とりあえず長瀬診療所裏に来ました。

線路跡が残っています。

これは長瀬駅方面の写真です。

線路はこの先緩い右カーブを描いて長瀬駅へと続いていました。


地面には線路に敷き詰めるバラスト(小石)らしきものがありました。

 

ここから反対側の谷汲駅方面へと歩いて行きますニコニコ

 

変わったマークの杭があり、後から調べると名鉄(名古屋鉄道)の旧社章のようです。

なるほど、確かにここは線路だった爆  笑

 

マンホールには「ギフチョウの里 たにぐみ」照れ

 

長瀬診療所から谷汲駅方面は線路跡が舗装されており、かつての線路上を歩いて行けます照れ

 

 

だいたいこの辺りが長瀬茶所駅じゃないかなぁとカメラ

何か残っていないかと探しましたが、素人目には何もみつからず。

なるほどわかりません!

 

 

「稲が風になびいて皆同じ方向を向く」の図カメラ

 

 

上長瀬、下長瀬と長瀬村を散策しましたが、尾張の商家の寄進物を見つけることができませんでしたあせる

次回は、何か無いかと更に足を伸ばして岐礼の方を巡ります。

 

つづく。