※Yahooオークションから引用・加工

杉屋佐助さんの大黒様から始まった謎解き散策爆  笑

 

私が疑問に思ったことは以下の3点です。

 

①上長瀬の茶所と正受寺は同一?

②上長瀬の茶所はどこにあったのか

③名古屋の商家が寄進した石造物はどうして消えたのか?何処へ行ったのか。

 

 

※あくまでも素人の考察ですので、的外れな点も多々あると思います。

 

  上長瀬の茶所と正受寺は同一?

 

私を悩み続けさせたのは正受寺の存在でした。

【谷汲長瀬①】上長瀬渡船場跡 記事でも書きましたが、閲覧した文献は『感興漫筆』を除いて上長瀬谷汲山茶所について触れられていないからです。

逆に『感興漫筆』は正受寺について触れていない。

これこそが、上長瀬谷汲山茶所と正受寺が同一ではないか?と、最後まで悩み続けた問題点でした。

 

『揖斐郡志』、『谷汲村史』、『長瀬誌』を何回読んでも上長瀬谷汲山茶所について載っていない。

おかしいな~。私の目が節穴なのか!?

 

はい、節穴でした!w

 

実は『長瀬誌』『谷汲村史』にはちゃんと上長瀬谷汲山茶所が載っていましたあせる

それぞれ該当部分を引用してみます。

 

・長瀬誌 p37 谷汲街道

 
されば谷汲街道には「是より何町」と切り石刻まれたる指導標を建て、里程を旅人に示し、三十六町目即ち一里に当る上長瀬旧舟場近くに燈明があり、亦善光寺街道とも云うので「是より谷汲へ一里、善光寺へ七十三里」と刻んだ石柱が今も建っている。
こゝに谷汲山茶所も設けられてあった。
斯く上長瀬にては旅人のため民宿を営む者多く渡舟の収益も多かった。

・谷汲村史 p548 上長瀬渡船場

 
上長瀬旧船場近くに燈明があって、石柱に「是より谷汲へ一里、善光寺へ七十三里」と刻んであり、ここに谷汲山茶所も設けられていた。

・谷汲村史 p549 武田耕雲斎通過の事

 

水戸浪人いよいよ長瀬を通過の趣を伝へ聞くや、上長瀬の接待所(岩崎にあり)に村民集合し、鉄砲等の武器を取り集め、浪人を打取る協議をなし一方四、五名の斥候を出して様子を伺はしむ。

なぜ見落としていたか?

 

それは思い込みでした笑い泣き

 

「上長瀬谷汲山茶所」の事を脳内では「上長瀬茶所」としていたため、文献に載っている「谷汲山茶所」を勝手に「正受寺」の事と思ってしまったのです。

 

よくよく見たら大黒様の厨子に刻まれた「上長瀬谷汲山茶所」という文字の中には「谷汲山茶所」が含まれているではありませんかびっくり

まぁそれにしても文脈からわかりそうなものですが、なんでわからなかったのかなぁ。

お恥ずかしい限り...ランニング

※文献では正受寺の事を「長瀬茶所」とも表記されています。

 

谷汲村史のp549の水戸浪人(天狗党)の話については完全に見落しでしたあせる

というか、「谷汲山茶所」が理解できてから見えるようになりました笑い泣き

 

という訳でこの件は、

「上長瀬の茶所と正受寺は同一ではない

が結論で無事解決!花火

 


謎が解けると新たな謎が生まれるあせる

なぜ茶所名を華厳寺の山号である「谷汲山」と名付けたのか。名付ける事ができたのか。華厳寺との関係は!?

 

また、「上長瀬村の接待所(岩崎にあり)」の「岩崎」は、上長瀬の対岸の木知原村(現在の本巣市木知原あたり)にあった岩崎のことと思いますが、そうすると「上長瀬」と名付けるのはおかしなことに!?水戸浪人の話は元治元年(1864)なので、その頃は岩崎に移転したという事でしょうか...(なので敢えて「上長瀬」と付け加えたとか?)。

 

 

 

 

  ②上長瀬の茶所はどこにあったのか

 

 

杉屋佐助さんが上長瀬谷汲山茶所に寄進した大黒天様に記載された内容と、長瀬渡船場跡の石造物に刻まれた内容、そして『名古屋叢書三編 第二十巻 感興漫筆』『谷汲村史』『長瀬誌』に記載された内容の共通点をまとめると上記のようになります。

 

 

キーカギとなっているのは、接待所を開いたと思われる曹洞宗(※)の僧侶「般山」さんですねニコニコ

※洞上...曹洞宗、沙門...正式な僧侶、として解釈しています。

 

これにより、上長瀬谷汲山茶所は谷汲山(華厳寺)から一里の岸上にあると言えます。

一里は約4Kmです。

 

 

谷汲山華厳寺から長瀬郵便局を経て渡船場に向けて岸上まで4Km進むと、根尾川の樽見鉄道鉄橋の右岸側になります。

長瀬郵便局からの道は当時と違っている可能性が高いですが、概ねこの辺りと言えると思います爆  笑

 

という訳で、佐助さんが大黒様を寄進した上長瀬谷汲山茶所は、

※GoogleMapから引用・加工

上差しこの辺りにあったはずだ!(キリッw)

 

というわけで、この件も解決!花火

 

※「是より谷汲へ一里、善光寺へ七十三里」の石柱が現存するのかは宿題として残しますてへぺろ

 

 

 

  ③名古屋の商家が寄進した石造物はどうして消えたのか?何処へ行ったのか

 

毎度お馴染みの『名古屋叢書三編 第二十巻 感興漫筆』のp452から引用です。

 

川を越て長瀬村なり、岸上に接待茶所あり、渡しを越て長瀬村、尾張の商家の寄進する物多し。
後これを聞くに、庵主の僧、常に名古屋に出て商家など勧進す、故に名古屋人の寄附物多しと云。

安政5年に書かれたこの日記には、長瀬村には尾張の商家の寄進する物が多いと記載されています。

この『感興漫筆』を書いた細野要斎という学者は、道中に見かけた碑文などをマメに記録しているため、ここらへん(長瀬村)は名古屋の商家の寄進物が多いなぁと気づいたのでしょうね爆  笑

 

さて、その細野要斎さんが見た長瀬村から166年後、私は上長瀬、下長瀬、岐礼を散策しましたが、名古屋の商家が寄進した江戸時代の石造物は一つも見つけることができませんでした。

今回の散策で捜索範囲を全てカバーしたわけではありませんが、文献には「寄進する物」「寄附物」と記載されているので寺社をメインで散策しました。

実際、散策してみると神社と墓地以外ほんと石造物が無いのです。

そして訪れた寺社での石造物の年代は大正から昭和がほとんどです。

うーんあせる

 

それでいくつか理由を考えてみましたニコニコ

 

 

【理由①】廃仏毀釈により、お寺に在った石仏などが破壊された。

 

確かにどのお寺さんも境内はさっぱりとしていました。

この地区がどこまで徹底してやったか...ですが、お寺は残っているし全滅とは考えにくい...かなぁ。

 

 

 

【理由②】明治24年(1891)に発生した濃尾地震で全て倒壊、破棄された。

 

寺社ともに寄進物が新しいのはこれが要因かもしれません。

しかし、上長瀬渡船場や岐礼に江戸時代の石造物が一部残っているので、全滅というのは考えにくい。

 

 

 

【理由③】実はある屋敷の敷地内、または華厳寺に全て移された。

 

確かに華厳寺には杉屋佐助さんや柴山藤蔵さんの寄進物があります。

安全面等で管理できなくなったため、管理できる場所へ移したというのはありうる話だとは思いますが...どうでしょうかね~あせる

華厳寺の大捜索が必要ですな笑い泣き

※ヤフオクに出てた杉屋佐助さんが寄進した大黒様の流出経路も気になるところ

 

 

 

という訳で、この謎は解けないまま。

残念!

 

 

 

  おまけ

長瀬村の西側、巡礼街道沿いにも渡船場と接待茶所があるとの事で行ってみましたニコニコ

 

深坂渡船場跡

奥に広がる農地は、かつては湿地帯で雨が降ると湖のようになって不便だったそうです。

現場に行くと、なるほど!とイメージしやすかったです照れ

嘉永年間に松永要助という人が水路改良に成功し、渡船場は役目を終えたようです。

 

 

 

巡礼街道沿いにある「自性院」。

こちらも接待茶所のようで、「小野接待所」とも呼ばれているそうです。

住職さんはご不在のようだったので硝子越しに本堂を覗いてみましたが、茶釜は見えませんでしたあせる

本堂の隣りの建物が接待所だったのかもしれません。

この写真が「在りし日の自性院の写真」とならないよう、末永く残ってほしいと思います。

 

 

  おわりに

 

佐助さんの石造物が見つからなかったのは残念でしたが、

この謎解き散策は

とてつもなく面白かった!!花火

あれこれと推測するのがこれまた楽しい照れ

そして、数々の情報をご教示くださったフォロワーさんにもお礼申し上げます。

 

最後に散策で集めた谷汲山町石コレクションをご紹介して終わります。

 

 

 

新発見を求めて、佐助さん探しの旅はつづく。

またねー!
 

 

【参考文献】

・揖斐郡誌

・揖斐川町史

・谷汲村史

・長瀬誌

・いび郡の地名

・谷汲の文化をたずねて

・谷汲村 ぶらり歴史散歩

・谷汲山門前街並マップ

・名古屋叢書三編 第二十巻(感興漫筆)

・マッピング谷汲

・こちぼらぼ