シイタケのブログ -35ページ目

パート労働法の施行

 パート労働法の改正法が昨年成立し、今年4月から施行されている。待遇の悪いパート労働者の雇用環境を改善するという目的の改正であったが…はたして、この法律の施行によって何かよいことがあっただろうか。パート労働者が「法律が施行されてよかった! 正社員と同じくらいの待遇にしてもらえました!」と言っているのを、私は見たことも聞いたこともない。法案審議の段階から批判されていたとおり、やはり雇用主には痛くも痒くもないザル法だったということがわかる。会社は勝手に「うちの会社にはこの法改正の趣旨が当てはまるような、正社員と同視すべきようなパート労働者はいません」と言ってしまえばそれでよいのだから。そもそも今の与党に待遇改善を期待するほうが間違っている。

 このパート労働法の改正の主眼は、新第8条「通常の労働者と同視すべき短時間労働者に対する差別的取扱いの禁止」であった。この「正社員と同じくらい働いている人」という基準がザルの原因で、この法改正で救われる人は、審議段階の政府の見通しでも数パーセントだったし、現実ではゼロパーセントに近いと思われる。ただ、このような趣旨の条文を新設したということ自体は、百歩譲って「評価」したい。本当に待遇が悪く労働組合もない職場では意味がないかもしれないが、労働組合がそこそこ正常に機能していて、かつパート従業員も組合に加入しているような職場であれば、この規定を武器に待遇改善の交渉を進めることもできるだろう。
 しかし、問題はさらにもうひとつある。いわゆる「フルタイムパート」と呼ばれる労働者の待遇の問題だ。要するに正社員ではなく契約期間が3ヶ月とか半年とか決まっているが、正社員と「同じ時間」働いている労働者のことだ。「契約社員」「有期雇用」と呼ぶこともある。このフルタイムパート労働者は、パート労働者よりも就労形態が正社員に近いことが多いにもかかわらず、パート労働法の守備範囲外であり、今回のパート労働法改正の審議でも放置されたままなのだ。パート労働法の審議と並行して「労働契約法」も審議されたが、実はこの労働契約法の原案には長期間雇用されている有期雇用者(フルタイムパートを含む)の正社員化を促す規定も盛り込まれていた。しかし法案提出前に経済界の反発で削除され、「有期雇用者に対して不必要に短い期間を定めてはならない」などのあいまいな規定が残るだけとなってしまったのである。ようするにフルタイムパート労働者はどの法律によっても保護されない法律の抜け穴状態にあるのだ。

 さあこの状況をどう考えるか。フルタイムパート労働者の待遇改善を求める根拠をどう見つけるか。私はパート労働法改正が審議されている段階から注目していたが、委員会の審議で政府参考人から、「雇用している労働者全体の納得性、公平性を考えれば、法律によって措置を求められていないフルタイムの有期契約社員の雇用管理に当たっても、当然この改正パート法の考え方が配慮されるべき」という答弁が引き出された。次に、参議院厚生労働委員会の採決(平成19年5月24日)において附帯決議がなされ、その四として「いわゆるフルタイムパート(所定労働時間が通常の労働者と同じである有期契約労働者)についても本法の趣旨が考慮されるべきであることを広く周知し、都道府県労働局において、相談に対して適切に対応すること。」が盛り込まれた。さらに、改正パート労働法の施行に合わせて出された告示「事業主が講ずべき短時間労働者の雇用管理の改善等に関する措置等についての指針」において、先の付帯決議に呼応するように、「所定労働時間が通常の労働者と同一の有期契約労働者については、短時間労働者法第二条に規定する短時間労働者に該当しないが、短時間労働者法の趣旨が考慮されるべきであることに留意すること。」という一文が設けられた フルタイムパートについても法律で保護するにこしたことはない。しかし当面、待遇改善の交渉をするときは、上記の告示を武器にしていくしかないだろう。また、今後労働事件の裁判で、パート労働法の趣旨をフルタイムパートにも類推適用する、という法理が生まれることを期待したい。

本記事に興味をもって下さった方に、クリック1回お願いします(ブログ人気投票)
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

国益

 最近、「国益」という言葉をよく耳にする。「国益のためにイラク派遣」「国益のために核保有議論を」「国益のためにアメリカと協調路線を」といった具合だ。政治家だけではなく、一般市民までもがこの語を使う。この「国益」という言葉、どうも怪しい。太平洋戦争のスローガン「お国のため」という言葉を連想させるのもその一因だ。しかしそれより、「国益」とはいったい誰の利益かはっきりしないところに、違和感を覚える。国はそれを構成する国民ひとりひとりによって成り立っている。「国」という抽象的な存在が、国民の利益を踏みつけて一人歩きしてはならない。「国」が「国民」より優先した結果、これまで戦争をはじめとして国民の権利が侵害されてきた。したがって、国益=国の利益というのは、結局国民ひとりひとりの利益と直結していなければならない。…しかし、最近、「国益」という言葉を用いた言説をあちこちで見る限り、本当に国民のためを思っているとは思えない。アメリカと軍事行動を共にして多くの国から反感を買うことが、果たして国民の利益になるだろうか? 核保有議論などを打ち上げてアジアに軍事的緊張をもたらし、日本を脅威にさらすことが、果たして国民の利益になるだろうか? 一部の人たちの都合や経済的利益(利権)を、「国益」とすり替えた議論がまかり通っているのではないだろうか? 「国益」というあいまいな言葉、本当に国民の利益のことを語っているか、要注意である。

本記事に興味をもって下さった方に、クリック1回お願いします(ブログ人気投票)
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ

今の平和な日本はたくさんの犠牲があったからこそ?

 「今の平和な日本はたくさんの犠牲があったからこそ…」という新聞の投書の一文があった。このようなフレーズ、ときどき目にする。たくさんの兵隊さん(または民間人)の犠牲のおかげで今の平和な日本がある、と。しかしこの言い回しには違和感を覚える。このような言い方は、たとえば、民主国家を築くために市民が団結して独裁政権を倒した場合や、他国の侵略から郷土を命がけで守ったような場合に当てはまるのではないだろうか。果たして太平洋戦争で、日本軍は、そしてその兵士は、「日本の平和を築くため」という意思をもって戦争しただろうか?そうではないはずだ。日本軍は侵略目的で戦争を始めたのであり、日本の平和のためではない。「アジアの共栄」のためというならそれは口実だ。日本兵の多くも、ただ「国のため」という抽象的な名目で戦場にかり出されたのであり、いわば誤った政治の犠牲者だ。兵士個人は、「自分の戦いが家族を守ることになる」という思いを抱いていたかもしれない。しかし家族を守るために本当に闘うべき相手は、実は当時の日本の戦争指導者であった。太平洋戦争で犠牲となった兵士や民間人は、死ななくてもよいのに死んだ。戦わなくてもよかったのに戦って死んだ。言葉は悪いが、いわば「無駄死に」させられたのだ。敗戦の結果、逆にそれまで敵として戦っていたアメリカから、新憲法を提示され、平和国家を目指すこととなった。長い目で見ればたしかに今の日本は多くの犠牲者の上に成り立っているが、犠牲者が必要だったわけではない。「今の平和な日本はたくさんの犠牲があったからこそ」という言い回しは、過ちを犯した過去を美化するようで不適切だと思う。それに…今、日本は平和だろうか?

本記事に興味をもって下さった方に、クリック1回お願いします(ブログ人気投票)
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ