労働組合の存在意義は?
労働組合というのは、現代においてはいうまでもなく、憲法上も法律上もその存在を認められている労働者の集団である。労働者ひとりでは経営者と対等に雇用条件について交渉できないから、集団となることによって経営者と対等関係に立とうという、労働者の知恵である。また、労働組合が法制化されている現代においては、労働組合は「社会の知恵=社会制度」の一種といえよう(婚姻や登記制度のような…)。労働者が個別バラバラに経営者と労働契約を結ぶようになれば、労働者は雇用を得ようと、より安い賃金を自ら提示して経営者と雇用契約を結ぶようになるのであり、このような賃金ダンピングを防止するためにも、労働者の集団化は重要である。
しかし、日本の労働組合は年々衰退している。戦後しばらくの組織率は50パーセント前後であったのが、今や20パーセントを切っている。実に5人に4人以上は労働組合に加入していない状況なのである。とりわけ非正規雇用労働者については、その組織率は1ケタ台という悲しい状況である。正社員より賃金が低く雇用も不安定で、正社員に比べればより「団結」して経営者と交渉しなければならないはずの非正規労働者のほうが、組織化されていないのである。最近では企業別労働組合の枠を超えたユニオンに駆け込む非正規労働者も多くなっていると聞くが、それも全国的な広がりを見せているというわけではない。また、正社員の労働組合にしても、労働組合とは名ばかりで、いわゆる御用組合になっているものも多いはずだ。また、正社員の「しきたり」で労働組合に加入しているだけで、労働組合の意義も理解せず、主体的意識を持っていない労働組合員も多いことであろう。
このような「労働組合崩壊」「労働者分断」の状況を、どう考えればよいのだろうか。どうして日本の労働組合は衰退傾向にあるのだろうか?
まず、経営者(資本家)が国とグルになって、労働者の集団化を阻んできた、という見方もできるであろう。国鉄や電電公社など、いわゆる公営企業の労働組合が、かつては非常に活発な活動を繰り広げていたのは有名であるが、これらの公営企業の相次ぐ民営化と、それに伴う人員整理などにより、組合組織は大きく弱体化したといえよう。また、バブル崩壊以降、各企業は正社員の募集を控え、非正規社員を増やしてきたが、そしてそれは景気が上向いても続いたが、非正規社員は労働組合に入らない(入ることができない)ことが多いので、結果として労働組合加入者が減ったということもできるであろう。そして、派遣労働の解禁は、同じ企業(同じ屋根の下)で働く派遣労働者と派遣先社員に大きな壁を作るものであり、間接的に労働者の集団化を阻んできたともいえよう。
他方、労働者本人が、そもそも労働組合を必要としなくなってきたという見方もできるであろう。戦後しばらくは多くの労働者が一様に貧しく、まさに生きていくための賃金獲得運動が必要であったが、高度成長時代を経て賃金水準も上がり、毎年のベースアップも慣例化して、正社員は普通に暮らしていくのに十分な賃金を得られるようになったのである。また戦後政府が新憲法の理念に基づき、医療・年金・教育等の社会保障政策を進めていき、労働者の生活が安定するようになった。そして経営側も、労働組合の存在、解雇権濫用禁止法理などの判例の集積、そして労働者保護法制の浸透により、労働者に対し、(少なくとも建前上は)あまり無茶な扱いをしなくなった。このような労働者の生活の向上・安定が、労働者の労働組合に対する関心を薄くしたということができよう。労働組合による賃金・権利獲得の成果が、逆に労働組合の存続を危うくしているというのは皮肉なことであるが…。
さらに、旧来からの労働組合のあり方自体が、労働者の労働組合離れ=敬遠を起こしているという見方もできよう。太平洋戦争を経験した世代は、平和こそが労働者の幸福にとって必要だとして、労働運動の一環として反戦・平和運動に取り組んだという。労働運動=労働組合活動は、そのような政治運動と密接に結びついていたのである。私はそのような運動の方向性を否定はしない。政治体制のあり方によって企業のあり方も変わるのであり、企業別労働組合を離れて活動するときはなおさら、労働運動と政治運動を峻別することはできないと考えるからである。しかし、戦後教育を受けて平和が当たり前と信じている世代は、日米安保反対、日の丸君が代反対、憲法改正反対といった政治的スローガンと、日々の賃金生活とは、何の関係もないと感じることであろう。ましてや、フリーターやパート労働者といった非正規の低賃金労働者にとってみれば、今日の手取り、明日の生活が喫緊の課題である。にもかかわらず、労働組合を訪れてみれば「教育基本法改正反対」などとやっているのであるから、「労働組合は役立たず」「正社員の道楽」と思われるのも無理はない。本当に助けを必要としている労働者が近寄らなくなるのは当然である。また、世俗的な見方ではあるが、旧来の労働組合というと、労働組合の中で活発に議論をし、スポーツから文化活動までともにすることが多かったが、国民の政治離れ、議論嫌い、集団行動嫌い、娯楽の多様化といった社会風潮の中で、労働組合が過去の古臭い、泥臭い集団のようなイメージを持たれてしまったことも、労働組合衰退の要因のひとつであろう。
そして、以上に述べたことと一部重複するが、労働者が多様化したことも、労働組合低迷の一因であろう。労働者といっても、汗と油にまみれた工場労働者ばかりではなくなったということである。雇用上の地位も異なり、職種も多様化し、分業化が進み、成果主義の導入も相まってそれぞれ賃金水準も異なり、労働者が一丸となって経営側に対抗する素地、基盤が薄くなってしまったのである。
しかし! 労働組合衰退の現象を上記のように涼しげに「評論」している場合ではない。労働組合が衰退していく中で、長時間労働、過労死、残業代不払い、首切り、生活保護を下回る低賃金、といった問題が噴出しているのであり、「労働者の地位が個別労働契約化していくから、組合が弱くなるのもしかたないよねー」と冷めた見方をしている場合ではないのである。依然として、冒頭に述べたような労働者の集団化の意義は失われていないのである。
とはいえ、具体的にどのような方策で労働者の地位(交渉力)を経営者と対等に近づけていけばよいのであろうか…?
まず、もともと労働組合のない職場で、労働組合結成の動きが最近見られることは、とても喜ばしいことである。そのような「必然」から生まれた新しい労働組合は、きっと新しい労働運動の潮流となるに違いない。
次に、既存の労働組合は、これまでのあり方を見直し、正社員ばかりで構成するのではなく、非正規社員も取り込んでいくべきであろう。サービス業などの一部ではそのような動きが見られる。そもそも非正規社員を組織化しなければ、労使協定締結権を持つだけの「過半数代表労働組合」になれないようなところも増えているので、そのようなところでは非正規社員の組織化は必須である。派遣労働者は雇用関係は派遣元との間にあるが、どこの労働組合に入るかは自由なのであるから、派遣先の労働組合が派遣労働者を招いても差し支えない。
…しかし、非正規社員の組織化については、困難なところが多い。まず、非正規社員が嫌がることがある。そもそも労働組合の意義を知らなかったり、偏見を持っていることもある上、決して安くはない組合費を払って加入したところで、はたして正社員中心の労働組合が非正規社員の雇用条件や不当解雇に取り組んでくれるのか、疑いの目を持っていることもあるのである。また、非正規という、立場の弱い存在ゆえ、組合に入れば会社から報復措置として嫌がらせや雇止めにあうかもしれないという不安も抱えていることがある。
そして次に、正社員組合員が、非正規社員の組合加入を拒む場合がある。いわゆる労々の一つであるが、正社員組合員の中には、「低賃金の非正規社員でいるのは自己責任だ」「われわれは正式な入社試験を受けて入ってきた、非正規労働者より優遇されてしかるべき存在だ」「われわれ正社員の賃金は、低賃金で働く非正規社員を踏み台として成り立っている=つまり、非正規社員の待遇を向上させれば、自分たちの取り分が減る」「われわれ正社員の雇用保障は、非正規社員という緩衝材があることによって成り立っている=つまり、会社の業績が悪くなれば非正規を首切りすることによって自分の雇用を維持してほしい」といった意識が強くあり、正社員労働組合が非正規労働者を排除している面があるのである。
このような状況は、長い目で見れば正社員本人にとっても望ましくないことである。つまり、社会的な現象としてみれば、非正規社員の低賃金は、正社員の賃金の押下げ圧力にもつながるし(分かりやすくいえば、経営者が正社員に「もっと安く使える派遣に置き換えてもいいんだぞ」と脅す)、非正規雇用の増加は、企業存続の前提となる購買力の低下にもつながるし、当の正社員の子が正社員になれず、親のすねをかじり続ける、ということにもなりかねない。しかし当の正社員にとってみれば、明日の夏のボーナス額が大事なのであり、非正規社員の時給を下げてでも、その分ボーナスに上乗せしてほしいと願うのが本音である。当人の属する労働組合が縮小していっても、ひいては過半数代表にならなくても、そんなことに関心はなく、ただ労働組合が正社員の権益維持のための仲良しクラブとして存続すればそれでよい、という意識の正社員労働組合員が、多いのである。
既存の労働組合が、上記のような閉鎖性を自ら改めていくのがもっともよいのだが、それが無理というなら、やはり政府が介入していくしかないであろう。具体策は2つあって、ひとつは、労働組合法を改め、労働組合がいわゆる「特権」を享受するための要件を厳しくすることが考えられよう。組合内の民主性要件はすでに法律で定められているが、これを組合勧誘などの組織化の過程においても及ぼし、正規、非正規の区別に関わりなく組織することを法律で要求するべきである。現在、パートやアルバイト、有期雇用労働者の就業規則を定めたり変更したりする場合、それが適用される当の本人ではなく、過半数代表としての正社員労働組合員が会社側に意見聴取されるという妙ちくりんな状況になっているのが現状であるが、民主的な組織化により、非正規労働者も組合員になれば、このような珍現象も解消される。
もうひとつの策は、ここしばらくすでに言われているように、労働組合に代わる労働者代表制度=従業員代表制度を法定することである。上記の厳格な要件を満たす民主的な労働組合が存在しない場合は、法定された従業員代表制度のもと、労働者が経営側と労働条件その他について交渉するのである。その法定のしかたは様々なものが考えられるが、やはり会社に設置義務を課し、会社の一制度、一機関として設置させるのが妥当といえようか。このような従業員代表制度が、本来の労働組合潰しにつながると批判されることは承知している。しかしこれは既存の労働組合が組織を拡大してこなかったことのツケでもある。従業員代表制度は、現在のように労働組合のない職場の労働者が、あるいは労働組合員でない非正規労働者が、経営側に対し圧倒的不利な立場に立たされている現在の状況をグンと改善することにつながるはずだ。
労働者の自主性に任せていれば既存の労働組合が正社員の「仲良しクラブ」になり、阻害された非正規労働者から見れば単なる特権集団、利権集団としてしか見られなくなったというのは、悲しい話である。
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しかし、日本の労働組合は年々衰退している。戦後しばらくの組織率は50パーセント前後であったのが、今や20パーセントを切っている。実に5人に4人以上は労働組合に加入していない状況なのである。とりわけ非正規雇用労働者については、その組織率は1ケタ台という悲しい状況である。正社員より賃金が低く雇用も不安定で、正社員に比べればより「団結」して経営者と交渉しなければならないはずの非正規労働者のほうが、組織化されていないのである。最近では企業別労働組合の枠を超えたユニオンに駆け込む非正規労働者も多くなっていると聞くが、それも全国的な広がりを見せているというわけではない。また、正社員の労働組合にしても、労働組合とは名ばかりで、いわゆる御用組合になっているものも多いはずだ。また、正社員の「しきたり」で労働組合に加入しているだけで、労働組合の意義も理解せず、主体的意識を持っていない労働組合員も多いことであろう。
このような「労働組合崩壊」「労働者分断」の状況を、どう考えればよいのだろうか。どうして日本の労働組合は衰退傾向にあるのだろうか?
まず、経営者(資本家)が国とグルになって、労働者の集団化を阻んできた、という見方もできるであろう。国鉄や電電公社など、いわゆる公営企業の労働組合が、かつては非常に活発な活動を繰り広げていたのは有名であるが、これらの公営企業の相次ぐ民営化と、それに伴う人員整理などにより、組合組織は大きく弱体化したといえよう。また、バブル崩壊以降、各企業は正社員の募集を控え、非正規社員を増やしてきたが、そしてそれは景気が上向いても続いたが、非正規社員は労働組合に入らない(入ることができない)ことが多いので、結果として労働組合加入者が減ったということもできるであろう。そして、派遣労働の解禁は、同じ企業(同じ屋根の下)で働く派遣労働者と派遣先社員に大きな壁を作るものであり、間接的に労働者の集団化を阻んできたともいえよう。
他方、労働者本人が、そもそも労働組合を必要としなくなってきたという見方もできるであろう。戦後しばらくは多くの労働者が一様に貧しく、まさに生きていくための賃金獲得運動が必要であったが、高度成長時代を経て賃金水準も上がり、毎年のベースアップも慣例化して、正社員は普通に暮らしていくのに十分な賃金を得られるようになったのである。また戦後政府が新憲法の理念に基づき、医療・年金・教育等の社会保障政策を進めていき、労働者の生活が安定するようになった。そして経営側も、労働組合の存在、解雇権濫用禁止法理などの判例の集積、そして労働者保護法制の浸透により、労働者に対し、(少なくとも建前上は)あまり無茶な扱いをしなくなった。このような労働者の生活の向上・安定が、労働者の労働組合に対する関心を薄くしたということができよう。労働組合による賃金・権利獲得の成果が、逆に労働組合の存続を危うくしているというのは皮肉なことであるが…。
さらに、旧来からの労働組合のあり方自体が、労働者の労働組合離れ=敬遠を起こしているという見方もできよう。太平洋戦争を経験した世代は、平和こそが労働者の幸福にとって必要だとして、労働運動の一環として反戦・平和運動に取り組んだという。労働運動=労働組合活動は、そのような政治運動と密接に結びついていたのである。私はそのような運動の方向性を否定はしない。政治体制のあり方によって企業のあり方も変わるのであり、企業別労働組合を離れて活動するときはなおさら、労働運動と政治運動を峻別することはできないと考えるからである。しかし、戦後教育を受けて平和が当たり前と信じている世代は、日米安保反対、日の丸君が代反対、憲法改正反対といった政治的スローガンと、日々の賃金生活とは、何の関係もないと感じることであろう。ましてや、フリーターやパート労働者といった非正規の低賃金労働者にとってみれば、今日の手取り、明日の生活が喫緊の課題である。にもかかわらず、労働組合を訪れてみれば「教育基本法改正反対」などとやっているのであるから、「労働組合は役立たず」「正社員の道楽」と思われるのも無理はない。本当に助けを必要としている労働者が近寄らなくなるのは当然である。また、世俗的な見方ではあるが、旧来の労働組合というと、労働組合の中で活発に議論をし、スポーツから文化活動までともにすることが多かったが、国民の政治離れ、議論嫌い、集団行動嫌い、娯楽の多様化といった社会風潮の中で、労働組合が過去の古臭い、泥臭い集団のようなイメージを持たれてしまったことも、労働組合衰退の要因のひとつであろう。
そして、以上に述べたことと一部重複するが、労働者が多様化したことも、労働組合低迷の一因であろう。労働者といっても、汗と油にまみれた工場労働者ばかりではなくなったということである。雇用上の地位も異なり、職種も多様化し、分業化が進み、成果主義の導入も相まってそれぞれ賃金水準も異なり、労働者が一丸となって経営側に対抗する素地、基盤が薄くなってしまったのである。
しかし! 労働組合衰退の現象を上記のように涼しげに「評論」している場合ではない。労働組合が衰退していく中で、長時間労働、過労死、残業代不払い、首切り、生活保護を下回る低賃金、といった問題が噴出しているのであり、「労働者の地位が個別労働契約化していくから、組合が弱くなるのもしかたないよねー」と冷めた見方をしている場合ではないのである。依然として、冒頭に述べたような労働者の集団化の意義は失われていないのである。
とはいえ、具体的にどのような方策で労働者の地位(交渉力)を経営者と対等に近づけていけばよいのであろうか…?
まず、もともと労働組合のない職場で、労働組合結成の動きが最近見られることは、とても喜ばしいことである。そのような「必然」から生まれた新しい労働組合は、きっと新しい労働運動の潮流となるに違いない。
次に、既存の労働組合は、これまでのあり方を見直し、正社員ばかりで構成するのではなく、非正規社員も取り込んでいくべきであろう。サービス業などの一部ではそのような動きが見られる。そもそも非正規社員を組織化しなければ、労使協定締結権を持つだけの「過半数代表労働組合」になれないようなところも増えているので、そのようなところでは非正規社員の組織化は必須である。派遣労働者は雇用関係は派遣元との間にあるが、どこの労働組合に入るかは自由なのであるから、派遣先の労働組合が派遣労働者を招いても差し支えない。
…しかし、非正規社員の組織化については、困難なところが多い。まず、非正規社員が嫌がることがある。そもそも労働組合の意義を知らなかったり、偏見を持っていることもある上、決して安くはない組合費を払って加入したところで、はたして正社員中心の労働組合が非正規社員の雇用条件や不当解雇に取り組んでくれるのか、疑いの目を持っていることもあるのである。また、非正規という、立場の弱い存在ゆえ、組合に入れば会社から報復措置として嫌がらせや雇止めにあうかもしれないという不安も抱えていることがある。
そして次に、正社員組合員が、非正規社員の組合加入を拒む場合がある。いわゆる労々の一つであるが、正社員組合員の中には、「低賃金の非正規社員でいるのは自己責任だ」「われわれは正式な入社試験を受けて入ってきた、非正規労働者より優遇されてしかるべき存在だ」「われわれ正社員の賃金は、低賃金で働く非正規社員を踏み台として成り立っている=つまり、非正規社員の待遇を向上させれば、自分たちの取り分が減る」「われわれ正社員の雇用保障は、非正規社員という緩衝材があることによって成り立っている=つまり、会社の業績が悪くなれば非正規を首切りすることによって自分の雇用を維持してほしい」といった意識が強くあり、正社員労働組合が非正規労働者を排除している面があるのである。
このような状況は、長い目で見れば正社員本人にとっても望ましくないことである。つまり、社会的な現象としてみれば、非正規社員の低賃金は、正社員の賃金の押下げ圧力にもつながるし(分かりやすくいえば、経営者が正社員に「もっと安く使える派遣に置き換えてもいいんだぞ」と脅す)、非正規雇用の増加は、企業存続の前提となる購買力の低下にもつながるし、当の正社員の子が正社員になれず、親のすねをかじり続ける、ということにもなりかねない。しかし当の正社員にとってみれば、明日の夏のボーナス額が大事なのであり、非正規社員の時給を下げてでも、その分ボーナスに上乗せしてほしいと願うのが本音である。当人の属する労働組合が縮小していっても、ひいては過半数代表にならなくても、そんなことに関心はなく、ただ労働組合が正社員の権益維持のための仲良しクラブとして存続すればそれでよい、という意識の正社員労働組合員が、多いのである。
既存の労働組合が、上記のような閉鎖性を自ら改めていくのがもっともよいのだが、それが無理というなら、やはり政府が介入していくしかないであろう。具体策は2つあって、ひとつは、労働組合法を改め、労働組合がいわゆる「特権」を享受するための要件を厳しくすることが考えられよう。組合内の民主性要件はすでに法律で定められているが、これを組合勧誘などの組織化の過程においても及ぼし、正規、非正規の区別に関わりなく組織することを法律で要求するべきである。現在、パートやアルバイト、有期雇用労働者の就業規則を定めたり変更したりする場合、それが適用される当の本人ではなく、過半数代表としての正社員労働組合員が会社側に意見聴取されるという妙ちくりんな状況になっているのが現状であるが、民主的な組織化により、非正規労働者も組合員になれば、このような珍現象も解消される。
もうひとつの策は、ここしばらくすでに言われているように、労働組合に代わる労働者代表制度=従業員代表制度を法定することである。上記の厳格な要件を満たす民主的な労働組合が存在しない場合は、法定された従業員代表制度のもと、労働者が経営側と労働条件その他について交渉するのである。その法定のしかたは様々なものが考えられるが、やはり会社に設置義務を課し、会社の一制度、一機関として設置させるのが妥当といえようか。このような従業員代表制度が、本来の労働組合潰しにつながると批判されることは承知している。しかしこれは既存の労働組合が組織を拡大してこなかったことのツケでもある。従業員代表制度は、現在のように労働組合のない職場の労働者が、あるいは労働組合員でない非正規労働者が、経営側に対し圧倒的不利な立場に立たされている現在の状況をグンと改善することにつながるはずだ。
労働者の自主性に任せていれば既存の労働組合が正社員の「仲良しクラブ」になり、阻害された非正規労働者から見れば単なる特権集団、利権集団としてしか見られなくなったというのは、悲しい話である。
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労働法制はそれほど規制緩和されていない?
衆議院はようやく解散されて、次の選挙では民主党が第一党になることが予想される。民主党はこれまで労働法制に関しては、労働者の保護に重点を置いた法案や修正案を出してきており、政権与党になったからといって直ちに有権者を裏切るわけにもいかないであろうから、当面は労働法制に関し、これまでの路線をとり続けるであろう。このことは、私が理想とする「福祉国家」にとってよいことである。
さて、いわゆる「小泉改革」によって規制緩和が進み、労働法制においても規制緩和が行われ、それが「格差社会」の原因となった、といわれることがある。私もこの説明のしかたは便利なので、使ったことがあるかもしれない。しかしよくよく考えてみると、小泉政権時代(その前後を含めて)、労働法制の規制緩和が劇的に行われたとは、必ずしもいえないということが分かる。
例えば労働基準法における有期雇用期間の規制について、従来1年だったのが3年に緩和されたが、もともと有期雇用は3か月契約などの短期契約を何年も繰り返す方式が圧倒的多数であり、(製造業はともかく)この改正が有期雇用労働形態に大きなインパクトを与えたかといえば、それほどでもないというのが実情であろう。また、製造業派遣の解禁など、派遣労働の規制緩和も進んだが、派遣労働者が増えたとはいっても、非正規労働者のうち派遣労働者は10パーセントにも満たないのであり、派遣業の規制緩和が直ちに貧困層を生み出したというわけでもないことが分かる。小泉政権下では、むしろ解雇権濫用禁止法理の明文化が行われるなど、労働法制の規制緩和ばかりでもなかったのである。
もちろん、解雇権濫用禁止法理の法文化は、その法理の前進も後退も(裁判所ではなく)立法機関の手に委ねられることになったという意味で危うい側面もあるし、労働法制と密接不可分な社会保障法制については、小泉政権下で後退に次ぐ後退が行われたことは百も承知である。しかし、労働法制に限っていえば、さほど劇的な規制緩和が行われたというわけではないのである。
私はここで、小泉政権下の労働政策が誤っていなかったなどという気はさらさらない。私が言いたいのは、「小泉政権下で労働法制の規制緩和が行われた、けしからん」と書いたり述べたりしていると、「そうでもないじゃないか」と反論されてしまう可能性があるので気をつけよう、ということである。小泉政権下で労働法制の規制緩和に着手される以前から、各企業では正社員を非正規社員に置き換えることによって、人件費を削り、次世代育成を怠るというモラル破壊を始めていたのである。規制緩和前から、原則的には正社員を有期雇用労働者に置き換えていっても違法ではなかったのであり、派遣労働者の割合をどれだけ増やそうとも違法ではなかったのである。したがって、労働法制の規制緩和という作為が問題ではなく、このような企業のモラル破壊を放置していたという不作為が問題だったのである。
政府が雇用政策を怠れば、各企業は短期的利益を求めて人件費削減に向かう。その結果労働者の質が落ちて製品やサービスの質が下がったり、国民の購買力が長期的に落ちていくとしても、各企業はそのような全体的なことには興味はない。また憲法の定める生存権や勤労の義務・権利にも興味はない。そこで、長期的・全体的視点から労働政策を行うのが政府の役割であるが、これを怠り続けてきたのが小泉政権とその前後の政権ということになる。例えばいわゆる「専ら派遣」が横行して正社員の代替が行われている事態があれば事業許可を取り消したり、偽装請負をどんどん摘発したり、あるいは法改正によって有期雇用契約締結に制限を課すなど、労働モラルの破壊を食い止める義務が政府にはあったのに、それをしなかったのである。小泉政権の労働法制における罪は、不作為の罪であるといえる。
自民党は衆議院選挙の票稼ぎのため、解散寸前まで、場当たり的な雇用対策を最近になって打ち出してきていたが、これらの政策は基本的に「バラマキ」であり、財政負担を増やして国民にツケを回すだけである。むしろ、労働関係法令の違反やその脱法的行為に対し、指導や助言や監督などを現行法令に基づいて行い、悪質企業は罰則に基づいて摘発するなど、警察的取締りだけでも相当の効果があるはずである。そして職業教育・職業訓練に予算を多く配分し、労働者を「育てる」ための政策をとるべきである。これまでの自民党の「不作為」の罪はあまりにも重く、今頃あわててももう遅い。
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さて、いわゆる「小泉改革」によって規制緩和が進み、労働法制においても規制緩和が行われ、それが「格差社会」の原因となった、といわれることがある。私もこの説明のしかたは便利なので、使ったことがあるかもしれない。しかしよくよく考えてみると、小泉政権時代(その前後を含めて)、労働法制の規制緩和が劇的に行われたとは、必ずしもいえないということが分かる。
例えば労働基準法における有期雇用期間の規制について、従来1年だったのが3年に緩和されたが、もともと有期雇用は3か月契約などの短期契約を何年も繰り返す方式が圧倒的多数であり、(製造業はともかく)この改正が有期雇用労働形態に大きなインパクトを与えたかといえば、それほどでもないというのが実情であろう。また、製造業派遣の解禁など、派遣労働の規制緩和も進んだが、派遣労働者が増えたとはいっても、非正規労働者のうち派遣労働者は10パーセントにも満たないのであり、派遣業の規制緩和が直ちに貧困層を生み出したというわけでもないことが分かる。小泉政権下では、むしろ解雇権濫用禁止法理の明文化が行われるなど、労働法制の規制緩和ばかりでもなかったのである。
もちろん、解雇権濫用禁止法理の法文化は、その法理の前進も後退も(裁判所ではなく)立法機関の手に委ねられることになったという意味で危うい側面もあるし、労働法制と密接不可分な社会保障法制については、小泉政権下で後退に次ぐ後退が行われたことは百も承知である。しかし、労働法制に限っていえば、さほど劇的な規制緩和が行われたというわけではないのである。
私はここで、小泉政権下の労働政策が誤っていなかったなどという気はさらさらない。私が言いたいのは、「小泉政権下で労働法制の規制緩和が行われた、けしからん」と書いたり述べたりしていると、「そうでもないじゃないか」と反論されてしまう可能性があるので気をつけよう、ということである。小泉政権下で労働法制の規制緩和に着手される以前から、各企業では正社員を非正規社員に置き換えることによって、人件費を削り、次世代育成を怠るというモラル破壊を始めていたのである。規制緩和前から、原則的には正社員を有期雇用労働者に置き換えていっても違法ではなかったのであり、派遣労働者の割合をどれだけ増やそうとも違法ではなかったのである。したがって、労働法制の規制緩和という作為が問題ではなく、このような企業のモラル破壊を放置していたという不作為が問題だったのである。
政府が雇用政策を怠れば、各企業は短期的利益を求めて人件費削減に向かう。その結果労働者の質が落ちて製品やサービスの質が下がったり、国民の購買力が長期的に落ちていくとしても、各企業はそのような全体的なことには興味はない。また憲法の定める生存権や勤労の義務・権利にも興味はない。そこで、長期的・全体的視点から労働政策を行うのが政府の役割であるが、これを怠り続けてきたのが小泉政権とその前後の政権ということになる。例えばいわゆる「専ら派遣」が横行して正社員の代替が行われている事態があれば事業許可を取り消したり、偽装請負をどんどん摘発したり、あるいは法改正によって有期雇用契約締結に制限を課すなど、労働モラルの破壊を食い止める義務が政府にはあったのに、それをしなかったのである。小泉政権の労働法制における罪は、不作為の罪であるといえる。
自民党は衆議院選挙の票稼ぎのため、解散寸前まで、場当たり的な雇用対策を最近になって打ち出してきていたが、これらの政策は基本的に「バラマキ」であり、財政負担を増やして国民にツケを回すだけである。むしろ、労働関係法令の違反やその脱法的行為に対し、指導や助言や監督などを現行法令に基づいて行い、悪質企業は罰則に基づいて摘発するなど、警察的取締りだけでも相当の効果があるはずである。そして職業教育・職業訓練に予算を多く配分し、労働者を「育てる」ための政策をとるべきである。これまでの自民党の「不作為」の罪はあまりにも重く、今頃あわててももう遅い。
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宮台真司教授の不愉快さ
私は読んだ本の感想文などはこのブログに書かないが、読んでいてあまりにも不愉快になったので、宮台真司著「日本の難点」について記しておこうと思う。
私はもともと宮台氏の専門とする社会学に興味がなく、興味がないので社会学の本もほとんど読んだことがなく、当然宮台氏の書いた本も、おそらくこれまで読んだことがない。しかし彼は90年代、マスコミでもずいぶん注目を集めていたので、彼の発言やエッセー的なものは見聞きしていた。この「日本の難点」は、宮台氏の直近の考え方がコンパクトにまとめてありそうだったので、「どれ宮台真司先生というのはいったいどんな考えの持ち主なのかいな」と思って、今さらながらだが、手にとってみたのである。
私が社会学に興味がないのは、大学で社会学の講義を少し受けて、「なんでもありじゃん、こんなの学問なのか?」と思ったからである。本当はその感情を我慢してじっくり講義に聞き入れば、社会学の学問としての価値が分かったのかもしれないが、私はその社会学に対する第一印象をいまだ忘れられず、今でも「社会学なんて評論家やエッセイストが書く読み物と同じ」「社会学なんて多数の目を引くことを書けば勝ちという何でもありの世界」だと思っている。本当の社会学はそうでないのかもしれない。私が大学で受けた講義がたまたまよくなかったのかもしれない。しかし、この宮台氏の「日本の難点」については、私の社会学に対する第一印象がそのまま当てはまると感じた。
宮台氏は結局のところ、世間に「ある論調」が広まり出し、その論調が7,8割方認知されてきたところで、「反対のこと」を言ってみて注目を受けることが好きなのである。かといって、その広まってきた論調に反対する一団と歩調を合わせるのではなく、「似ているようだけどあいつらとは違うよ」というスタンスをとってみせることが好きなのである。彼の論理の特性はこれに尽きる。これは彼の自己愛と幼児性の表出とみることもできる。
彼は「平和主義を守るために重武装化が必要であり、そのために憲法改正が必要」という。戦前の日本の軍事力強化が侵略戦争を招いたこと、冷戦下のアメリカとソ連の軍拡競争で代理戦争が行われていたこと、憲法9条の地域安定化機能を無視する暴論である。しかし、彼は実際どのような武装が必要なのかということについて、本気で興味はないであろう。専守防衛堅持、平和主義堅持、9条改正反対という多数の世論に反対することが好きなだけである。そして彼と同じ重武装化を志向する人々に対しては、「軍事オタク」「馬鹿保守」などと罵っているだけである。もちろん、彼は安全保障は軍事面ばかりではないことを強調する。その点は正しい。しかしそれはまだそのような考えが世間の多くに認知されていないからだけであって、認知されるようになれば彼はまた反対のスタンスをとってみせるであろう。
彼は「ナンパ」「セックス」「ヤクザ」についての語りを各所にちりばめている。これは彼がいわゆるエリートコースを歩んできたことに由来する。すなわち、彼のようなエリートコース出身者に対して世間は、「きっとお坊ちゃんで、精神的にもろく、女性経験も少なく純朴」などというイメージを持ちそうなところ、彼は「そうではない」ということを顕示したいのである。そして世間から彼と同類とみられる人々に対しては「ガリベン君」などと罵ってみせる。ヤクザの大半は暴力団であり、暴力団は犯罪行為を主な資金源とする反社会的集団である。ヤクザの子に罪はないが、ヤクザの子と付き合っていたことが糧になっているというのは何事か。
世界的不況の到来により、規制緩和や経済のグローバル化といった理念が急速に信頼を失いつつある。そしていわゆる格差社会は好ましくないという認識が広まりつつある。ところが宮台氏は、経済のグローバル化や金融資本主義化は避けられず、それゆえに格差の進行もやむを得ないという。ここでも彼のパフォーマンスが光っている。そして必然的に生じる格差は、道徳、宗教、家族などで「包摂」して救えというのである。かといって彼は一種の復古主義は役に立たないという。しかし彼のいう「包摂」と、旧来からある(そして過去のものとなりつつある)道徳、宗教、家族関係の違いは、全然明らかではない。ちなみに、労働者のいわば包摂体である労働組合を、彼は毛嫌いしているようであるが、包摂を唱えることとの矛盾はどのように説明されるのであろうか。
地球温暖化防止に関する国際的な取組みについても、彼は見解を述べているが、上に記したことと同じようなパターンの論理を踏んでいるだけなので、あえてここに書くまでもないであろう。
彼は「包摂」を構築すべきだというが、結局のところそのために具体的にどのような社会の制度設計をすればよいというのか、さっぱり明らかではない。資本主義といえども資本主義のルールに支えられており、国内においては富の偏在の解消が、国際的には国家間の協調により資本主義の暴走を止めることが大事であり、いくらでも具体的な政策があるにもかかわらず、彼はその点には触れない。そもそも、包摂関係の国民への強制は不可能である。経済的に発展していけば、国民一人一人は共同体に依存しなくても生きてゆけるようになるため、個人が独立・自律してゆく。それは不可避であるし、個人の尊厳を確立していくために必要である。格差社会は道徳や宗教でごまかされるものではない。宮台氏は、格差社会が進んで弱者が寄り集まったところに一種の「包摂」を見出すとでもいうのであろうか。それは包摂ではなく貧困を再生産するスラムである。
彼は秋葉原事件について、世間で言われているような、犯人の置かれていた労働環境は問題ではなく、「誰か何とか言ってやれよ問題」であると片付けている。たしかにこの事件の犯人だけを個人的に観察してみればそうであろう。しかし秋葉原事件はこの犯人だけのものではない。労働環境の悪化や、非人間的な扱いを受けることにより自暴自棄になっている犯罪予備軍が、秋葉原事件の背後に潜んでいることが問題なのである。その何万、何百万の自暴自棄者に対し、「何とか言ってやる」ことで救うことができるのか。そもそも宮台氏が「誰か…」と言っている時点で、人任せの無責任さが露呈しているではないか。
彼は、法制化もなされている解雇権濫用禁止法理をなくせと述べているが、もはやここまで来れば私も反論する気が失せる。数多くの紛争を通じてここまで解雇権濫用法理が確立されてきたことの意義、そして労働者が安心して働ける環境を作ることが生産性を上げることにつながるという意義、さらに解雇規制が賃金ダンピングを防ぎ、国民の購買力を維持するという意義などを忘却した見解であり、取るに足らない。正規雇用と非正規雇用の垣根を低くすることは大事であるが、それは非正規雇用の待遇を向上させることによって実現すべき事柄である。
彼は「包摂」を構築する手段も具体的に考えられないまま、挙句の果てにゲバラを持ち出し、その利他的性格をほめたたえ、今後は「社会を変える英雄待ち」をすることにしているようである。「日本の難点」の最後がそれで終わる。何の救いもない本である。ゲバラに申しわけないではないか。人の役に立たない学問は存在価値がない。言葉遊びのパフォーマンスである。
以上のように、彼はパフォーマンスに終始しているだけであり、そのパフォーマンス力には脱帽するし、知識の吸収力、またそれをポンポン吐き出す力にも感心するが、それは芸能人でも評論家でもフリーライターがやっても不思議ではない。彼が大学に職を持ち、世間に訴える力(ステータス)を持っていることは一種の害悪といえよう。上記のように、彼は表面ではどの立場とも徒党を組まないように振舞っているが、その「結論」は財界や一部の右翼志向の政治家の見解と同じことが多いので、利用される危険性が極めて高い。彼に罪の意識があるのかないのかは知らないが、しばしば大学の研究者は、自分なりに論理一貫性を図ることができた場合、その結論の妥当性や現実社会での適応性を忘れてしまい、政治的に利用されてしまうことが多いので要注意である。
これら宮台氏への批判はほかにも山ほどあるが、実は彼の論理は世の中の空気にあわせてコロコロ変わるものかもしれず、私が血圧を上げて腹立たしく思わなくてもよいのかもしれない。私が不愉快なのは実は彼の論理なのではなく、態度そのものなのかもしれない。つまり…
まず、「日本の難点」を論じているにもかかわらず、自分の娘がかわいいからといって何ページも割くのはおかしい。そして娘が祖母の幻覚を見たことを思わせぶりに書くのは非科学的である(社会学も社会科学だ)。そして、誰かにインタビューされたのならともかく、50歳になろうとしているオッサンが、自分の生い立ちがいかに自分の人格形成に影響を与えてきたかということをくどくど真面目に語るのは滑稽である。同じく、50歳になろうとしているオッサンが「セックス、セックス」を連発するのも見苦しい。さらに、宮台氏は、高校生や大学生のコミュニケーションなどが、80年代、90年代に比べて変わってきていることをあちこちで書いているが(否定的なニュアンスで)、変わってきているのは宮台氏本人も同じだということを自覚すべきである。50歳近いオッサン(今の彼)より、30代の兄貴分(過去の彼)に若者が心を開くのは当たり前であろう。若者に意思が通じなくなった気がしているのは、実は自分の年齢が彼らと離れすぎてしまい、かつ老化で鈍感になってしまっていることが原因と自覚すべきである。物事を相対的にとらえられない人が「学者」というのは一体…?
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私はもともと宮台氏の専門とする社会学に興味がなく、興味がないので社会学の本もほとんど読んだことがなく、当然宮台氏の書いた本も、おそらくこれまで読んだことがない。しかし彼は90年代、マスコミでもずいぶん注目を集めていたので、彼の発言やエッセー的なものは見聞きしていた。この「日本の難点」は、宮台氏の直近の考え方がコンパクトにまとめてありそうだったので、「どれ宮台真司先生というのはいったいどんな考えの持ち主なのかいな」と思って、今さらながらだが、手にとってみたのである。
私が社会学に興味がないのは、大学で社会学の講義を少し受けて、「なんでもありじゃん、こんなの学問なのか?」と思ったからである。本当はその感情を我慢してじっくり講義に聞き入れば、社会学の学問としての価値が分かったのかもしれないが、私はその社会学に対する第一印象をいまだ忘れられず、今でも「社会学なんて評論家やエッセイストが書く読み物と同じ」「社会学なんて多数の目を引くことを書けば勝ちという何でもありの世界」だと思っている。本当の社会学はそうでないのかもしれない。私が大学で受けた講義がたまたまよくなかったのかもしれない。しかし、この宮台氏の「日本の難点」については、私の社会学に対する第一印象がそのまま当てはまると感じた。
宮台氏は結局のところ、世間に「ある論調」が広まり出し、その論調が7,8割方認知されてきたところで、「反対のこと」を言ってみて注目を受けることが好きなのである。かといって、その広まってきた論調に反対する一団と歩調を合わせるのではなく、「似ているようだけどあいつらとは違うよ」というスタンスをとってみせることが好きなのである。彼の論理の特性はこれに尽きる。これは彼の自己愛と幼児性の表出とみることもできる。
彼は「平和主義を守るために重武装化が必要であり、そのために憲法改正が必要」という。戦前の日本の軍事力強化が侵略戦争を招いたこと、冷戦下のアメリカとソ連の軍拡競争で代理戦争が行われていたこと、憲法9条の地域安定化機能を無視する暴論である。しかし、彼は実際どのような武装が必要なのかということについて、本気で興味はないであろう。専守防衛堅持、平和主義堅持、9条改正反対という多数の世論に反対することが好きなだけである。そして彼と同じ重武装化を志向する人々に対しては、「軍事オタク」「馬鹿保守」などと罵っているだけである。もちろん、彼は安全保障は軍事面ばかりではないことを強調する。その点は正しい。しかしそれはまだそのような考えが世間の多くに認知されていないからだけであって、認知されるようになれば彼はまた反対のスタンスをとってみせるであろう。
彼は「ナンパ」「セックス」「ヤクザ」についての語りを各所にちりばめている。これは彼がいわゆるエリートコースを歩んできたことに由来する。すなわち、彼のようなエリートコース出身者に対して世間は、「きっとお坊ちゃんで、精神的にもろく、女性経験も少なく純朴」などというイメージを持ちそうなところ、彼は「そうではない」ということを顕示したいのである。そして世間から彼と同類とみられる人々に対しては「ガリベン君」などと罵ってみせる。ヤクザの大半は暴力団であり、暴力団は犯罪行為を主な資金源とする反社会的集団である。ヤクザの子に罪はないが、ヤクザの子と付き合っていたことが糧になっているというのは何事か。
世界的不況の到来により、規制緩和や経済のグローバル化といった理念が急速に信頼を失いつつある。そしていわゆる格差社会は好ましくないという認識が広まりつつある。ところが宮台氏は、経済のグローバル化や金融資本主義化は避けられず、それゆえに格差の進行もやむを得ないという。ここでも彼のパフォーマンスが光っている。そして必然的に生じる格差は、道徳、宗教、家族などで「包摂」して救えというのである。かといって彼は一種の復古主義は役に立たないという。しかし彼のいう「包摂」と、旧来からある(そして過去のものとなりつつある)道徳、宗教、家族関係の違いは、全然明らかではない。ちなみに、労働者のいわば包摂体である労働組合を、彼は毛嫌いしているようであるが、包摂を唱えることとの矛盾はどのように説明されるのであろうか。
地球温暖化防止に関する国際的な取組みについても、彼は見解を述べているが、上に記したことと同じようなパターンの論理を踏んでいるだけなので、あえてここに書くまでもないであろう。
彼は「包摂」を構築すべきだというが、結局のところそのために具体的にどのような社会の制度設計をすればよいというのか、さっぱり明らかではない。資本主義といえども資本主義のルールに支えられており、国内においては富の偏在の解消が、国際的には国家間の協調により資本主義の暴走を止めることが大事であり、いくらでも具体的な政策があるにもかかわらず、彼はその点には触れない。そもそも、包摂関係の国民への強制は不可能である。経済的に発展していけば、国民一人一人は共同体に依存しなくても生きてゆけるようになるため、個人が独立・自律してゆく。それは不可避であるし、個人の尊厳を確立していくために必要である。格差社会は道徳や宗教でごまかされるものではない。宮台氏は、格差社会が進んで弱者が寄り集まったところに一種の「包摂」を見出すとでもいうのであろうか。それは包摂ではなく貧困を再生産するスラムである。
彼は秋葉原事件について、世間で言われているような、犯人の置かれていた労働環境は問題ではなく、「誰か何とか言ってやれよ問題」であると片付けている。たしかにこの事件の犯人だけを個人的に観察してみればそうであろう。しかし秋葉原事件はこの犯人だけのものではない。労働環境の悪化や、非人間的な扱いを受けることにより自暴自棄になっている犯罪予備軍が、秋葉原事件の背後に潜んでいることが問題なのである。その何万、何百万の自暴自棄者に対し、「何とか言ってやる」ことで救うことができるのか。そもそも宮台氏が「誰か…」と言っている時点で、人任せの無責任さが露呈しているではないか。
彼は、法制化もなされている解雇権濫用禁止法理をなくせと述べているが、もはやここまで来れば私も反論する気が失せる。数多くの紛争を通じてここまで解雇権濫用法理が確立されてきたことの意義、そして労働者が安心して働ける環境を作ることが生産性を上げることにつながるという意義、さらに解雇規制が賃金ダンピングを防ぎ、国民の購買力を維持するという意義などを忘却した見解であり、取るに足らない。正規雇用と非正規雇用の垣根を低くすることは大事であるが、それは非正規雇用の待遇を向上させることによって実現すべき事柄である。
彼は「包摂」を構築する手段も具体的に考えられないまま、挙句の果てにゲバラを持ち出し、その利他的性格をほめたたえ、今後は「社会を変える英雄待ち」をすることにしているようである。「日本の難点」の最後がそれで終わる。何の救いもない本である。ゲバラに申しわけないではないか。人の役に立たない学問は存在価値がない。言葉遊びのパフォーマンスである。
以上のように、彼はパフォーマンスに終始しているだけであり、そのパフォーマンス力には脱帽するし、知識の吸収力、またそれをポンポン吐き出す力にも感心するが、それは芸能人でも評論家でもフリーライターがやっても不思議ではない。彼が大学に職を持ち、世間に訴える力(ステータス)を持っていることは一種の害悪といえよう。上記のように、彼は表面ではどの立場とも徒党を組まないように振舞っているが、その「結論」は財界や一部の右翼志向の政治家の見解と同じことが多いので、利用される危険性が極めて高い。彼に罪の意識があるのかないのかは知らないが、しばしば大学の研究者は、自分なりに論理一貫性を図ることができた場合、その結論の妥当性や現実社会での適応性を忘れてしまい、政治的に利用されてしまうことが多いので要注意である。
これら宮台氏への批判はほかにも山ほどあるが、実は彼の論理は世の中の空気にあわせてコロコロ変わるものかもしれず、私が血圧を上げて腹立たしく思わなくてもよいのかもしれない。私が不愉快なのは実は彼の論理なのではなく、態度そのものなのかもしれない。つまり…
まず、「日本の難点」を論じているにもかかわらず、自分の娘がかわいいからといって何ページも割くのはおかしい。そして娘が祖母の幻覚を見たことを思わせぶりに書くのは非科学的である(社会学も社会科学だ)。そして、誰かにインタビューされたのならともかく、50歳になろうとしているオッサンが、自分の生い立ちがいかに自分の人格形成に影響を与えてきたかということをくどくど真面目に語るのは滑稽である。同じく、50歳になろうとしているオッサンが「セックス、セックス」を連発するのも見苦しい。さらに、宮台氏は、高校生や大学生のコミュニケーションなどが、80年代、90年代に比べて変わってきていることをあちこちで書いているが(否定的なニュアンスで)、変わってきているのは宮台氏本人も同じだということを自覚すべきである。50歳近いオッサン(今の彼)より、30代の兄貴分(過去の彼)に若者が心を開くのは当たり前であろう。若者に意思が通じなくなった気がしているのは、実は自分の年齢が彼らと離れすぎてしまい、かつ老化で鈍感になってしまっていることが原因と自覚すべきである。物事を相対的にとらえられない人が「学者」というのは一体…?
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