シイタケのブログ -11ページ目

会社の扶養手当はどうなるのか

 子ども手当て支給と、子の扶養控除廃止がほぼ同時期に施行されることになった。企業の中には、これをきっかけに、給与の一部として支払っている扶養手当の類を便乗して廃止するところも出てくるのではないかと思われる。たしかどこかのニュースで厚生労働大臣が、そのような傾向にならないことを望むようなコメントをしたと聞いたが、記憶が定かではない。

 ところで、会社の扶養手当の規定(就業規則)は、「所得税法上の扶養控除を受ける者を養育する社員に扶養手当を支給する」というような規定になっているはずである。つまり、会社の扶養手当は扶養控除と連動している。そうすると、たとえ扶養手当を廃止する意図がなかったとしても、所得税法上の扶養控除の規定の一部が改正で削除されてしまった以上、就業規則は根拠のないものになってしまう。そこでやはり、会社の扶養手当を存続するためには、就業規則改定の手当てをしなければならなくなるだろう。独自の扶養手当支給基準を立てなければならないということである。義務教育の就学中の子に大きな収入がないことは明らかであるから、基準作りはそれほど難しくないかもしれない。

 この問題、見過ごされる可能性は大であるが、いつか会社の経理や総務担当が、「あれ?」と気づくであろう。プチどたばたが日本のあちこちで起きるかもしれない。

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栗東市長と阿久根市長

 いわゆる沖縄返還密約開示命令判決の報道を聞いて、こんな大金をどうやって国家予算に潜り込ませたのか、こんな大金を誰にも疑われることなく予算計上できるのだったら、ほかにも怪しい予算計上がたくさんあるのではないのか、と疑う気持ちになったのは、私だけではないだろう。

 …という先日の感想はさておき、前回の記事「地方分権など必要ない」に関連して、気になる2人の市長について書いてみたい。

 地方の財政難が福祉政策を直撃しており、公立学校の給食にまで及んでいるという。気になってネット検索をしてみたところ、たまたまヒットしたのが滋賀県栗東市で、中学校の給食を廃止したのだそうである。中学生といえばまさに成長期で、バランスのよい食事が欠かせない。親の労働時間が長いこと、親の食事についての知識が乏しいこと、家庭が貧しいことなどから、家庭でバランスのよい食事を取れていない中学生も多いことだろう。そんな中学生の栄養バランスを補完する大事な給食を廃止するというのはどういうことか。

 怒りながら栗東市長國松正一氏のブログを読んでみると、北朝鮮や中国の脅威をあおったり、国民の生命と財産を軍事力で守ることが大事、ととなえるような記事が目に付く。有名な田母神氏のこともお気に入りのようである。国民の生命と財産が大事というのに、中学生の健康は大事ではないというのか。国を守って国民を守らずということか。他国の脅威をあおったり「護国」をとなえたりする人物ほど、実は人の生命や暮らしのことなどどうでもよいと思っているという典型例である。国の政策として「全公立中学校の給食は廃止します」と宣言すれば、政治問題となり、大きな反対運動が起きるであろう。しかし栗東市のように小さな自治体でこっそり給食を廃止することはできてしまうのである。これを地方自治、地方分権というのであれば、とても危なっかしくて地方に権限など与えられない。

 学校給食は地方自治体の一存でどうにでも決められるような軽々しいサービスではない。念のため、ここに学校給食法の重要条文を掲げておく。

(この法律の目的)
第1条 この法律は、学校給食が児童及び生徒の心身の健全な発達に資するものであり、かつ、児童及び生徒の食に関する正しい理解と適切な判断力を養う上で重要な役割を果たすものであることにかんがみ、学校給食及び学校給食を活用した食に関する指導の実施に関し必要な事項を定め、もつて学校給食の普及充実及び学校における食育の推進を図ることを目的とする。
(学校給食の目標)
第2条 学校給食を実施するに当たつては、義務教育諸学校における教育の目的を実現するために、次に掲げる目標が達成されるよう努めなければならない。
 1 適切な栄養の摂取による健康の保持増進を図ること。
 2 日常生活における食事について正しい理解を深め、健全な食生活を営むことができる判断力を培い、及び望ましい食習慣を養うこと。
 3 学校生活を豊かにし、明るい社交性及び協同の精神を養うこと。
 4 食生活が自然の恩恵の上に成り立つものであることについての理解を深め、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
 5 食生活が食にかかわる人々の様々な活動に支えられていることについての理解を深め、勤労を重んずる態度を養うこと。
 6 我が国や各地域の優れた伝統的な食文化についての理解を深めること。
 7 食料の生産、流通及び消費について、正しい理解に導くこと。
(定義)
第3条1項 この法律で「学校給食」とは、前条各号に掲げる目標を達成するために、義務教育諸学校において、その児童又は生徒に対し実施される給食をいう。
2項 この法律で「義務教育諸学校」とは、学校教育法に規定する小学校、中学校、中等教育学校の前期課程又は特別支援学校の小学部若しくは中学部をいう。
(義務教育諸学校の設置者の任務)
第4条 義務教育諸学校の設置者は、当該義務教育諸学校において学校給食が実施されるように努めなければならない。
(国及び地方公共団体の任務)
第5条 国及び地方公共団体は、学校給食の普及と健全な発達を図るように努めなければならない。

 以上のとおり、國松栗東市長の給食廃止の判断は、法律に基づく学校給食実施の努力義務を放棄するものである。なお、学校給食法は戦後の貧しい時代に制定されたものだから古い、という意見に対しては、一昨年に大幅改正があったということを伝えておくにとどめたい。

 気になるもうひとりの市長は、最近有名な阿久根市長竹原信一氏である。有名になった諸事情はたくさん報道されているし、ネット上にも流れているのでここには書かない。議会と対立し、職員労働組合を敵視している人物のようである。私は当初、この竹原市長も栗東市長國松氏と同じく、地方分権してもろくなことがないということを示す典型例としてここに書くつもりでいた。竹原氏の場合はまさにポピュリズムの弊害の象徴であろう。既得権益を攻撃して市民の人気を集めながら、「阿久根市長家族の経営会社、市発注工事を1円差で落札」という報道にもあるように、利権を我が物にしているのである。これも政治家によるあるタイプである。彼の他者に対する潔癖主義は、異常にも思われるものである。

 ただ、竹原市長のブログをつまみ読みしていて、単に竹原氏の市政だけを非難してよいものかふと考えた。阿久根市も例に漏れず、財政難や過疎化に苦しむ市のようである。少ない予算に群がる地元業者と同じように、職員労働組合も利権集団として市民を顧みないことになっていないか。もちろん、私にはそのように考える証拠も何もないのであるが、ふと阿久根市全体の根深く暗い影を、竹原市長のブログに感じた。

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地方分権など必要ない

 いつの間にかここ十数年で、「地方分権」というキーワードが日本中にはびこり、私は厄介なことになっていると感じている(最近は「地域主権」という言葉も浸透しつつある)。「地方分権」は「地方自治」ともつながり、これは日本国憲法が第8章で「地方自治」として定めているとおりである。「地方のことはその地方の住民が民主的に決める」という、その理念自体には異論はない。しかし、「地方分権」の名のもとに、国民生活が破壊されつつあるのではないだろうか。

 「地方分権」の実態のひとつは、教育・雇用・福祉といった、本来国が責任をもって行わなければならない政策が、地方に丸投げされつつあるということであろう。これらの政策は国の将来のためにも重要事項であるにもかかわらず、高コストとみなされ、財政再建の実績を上げたいという中央官庁の思惑もあって、少ない予算付で地方に放り投げられつつあるのである。財政の厳しい自治体は、これらの重要事項に回す予算がなく、したがって国民は住む地域によって受けられる福祉サービスが異なるというわけである。異なるというより、たいていはそのサービスが低下している。これでは憲法25条の理念が損なわれてしまう。

 「地方分権」の実態のもうひとつは、国会議員より性質(たち)の悪い地方議員・首長らが、地方財政を牛耳ることを目論んでいるということであろう。権限とともに予算も地方に回ってくるのであるから、それを我が物にしたい地方議員・首長が取り巻くという構図である。地方議員や地方自治体の首長には、いまだに地元の有力業者(特に土建業者)の役員や関係者が多い。彼らが利益誘導に動き、ひいては住民の福祉にあてるべき予算も奪ってしまうのである。

 われわれは、地方分権のこの2つの実態をよく見極めなければならず、安易に地方分権はすべて正しいなどと思い込んではならないように思う。

 そもそも、地方分権は誰が言い始めたことなのか。少なくとも、地方住民が自ら声を上げたわけではないだろう。「地方自治をわれらの手に」などといったデモも集会も、私は見たことがない。結局、これは先に挙げた政治家や官僚が、演出して盛り上げたことに過ぎない。もちろん、アメリカの軍事基地を沖縄に押し付けるなとか、国が勝手に地方の乱開発を決めるなといった、真の住民自治を求める声もかつてからある。はやりの「地方分権」は、そうした従来からの住民の思いを悪用したキャンペーンといってもよい。

 本当に地方分権は必要なのか。憲法は地方自治を保障しているし、国で一括して決めることが不適切な、住民の声を反映させるべき事柄はあるはずである。国が一定の地域に負担を押し付けるようなことがあった場合に、それに対抗する手段を地方に持たせることも重要である。しかし、かといって国の権限や責任をそぎ落とせばそぎ落とすほどよいというものでもない。「地方分権」の大号令に流されたり、財政上の理由を言いわけにすることなく、この事項は国に、この事項は地方にと、性質に応じて冷静に分権していくべきだろう。

 また、地方自治を推し進めるなら、地方の民主主義が健全に機能していることが大前提となる。この点、中央政府や国会議員に対しては、マスコミが常に注視していることもあり、国民はその動向について見聞きする機会が多いが、地方議員や首長についてはどうだろうか。支持母体の団体なら密接につながっているかもしれないが、そうでない一般市民は、地方議員や首長について見聞きする機会は、国会議員や総理大臣と比べて圧倒的に少ないのではないだろうか。どんな仕事をしているのか、どんな政策を考えているか、知る機会がめったにないといってよい。市民は中央よりむしろ地方の監視が行き届いておらず、地方の民主主義が健全に機能しているとはいえないのである。こんな状況で地方分権を進めることは、政策と民意の乖離を生み、大変危険である。

 さらには、必ずしも現在の行政区画が「市民の一体感」を反映したものでもないこと(例えば兵庫県尼崎市民は同じ兵庫県豊岡市より、大阪市のほうに親和性があるであろう)、情報技術の発展により、必ずしも「分権」しなければきめ細かな行政サービスを提供できないわけでもないということも、地方分権万歳に対する消極要素となろうか。

 かつて株主代表訴訟制度が整備されたころ、「会社は従業員ではなく株主のもの」といわれる機会が増え、その後のいわゆる小泉改革時代にはついに、株主の利益を最大化することが企業の至上命題と当然のようにいわれるようになった。しかし不況期に突入した今では、株主の実態は企業の成長に興味のない投機家であり、企業存続・成長のためには「会社は従業員のもの」という考えがむしろ大事、という揺り戻しが起きている。これは流行のキーフレーズにうかうか乗せられることには要注意という教訓である。「地方分権の時代」というキーフレーズにも要注意だ。

(追記)
 政府・民主党が現在国会に提出している「地域主権改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律案」を見ると、見事なまでに国の責任を放棄して地方に決定権を丸投げしている。例えば保育園の収容人数に関しても、地方に丸投げである。今でさえ詰め込み状態にあるのに、地方に任せればどれだけひどい環境になるかわからない。「地方分権」を「地域主権」と言葉を置き換えているものの、していることは自民党時代の政策と同じである。自民党と民主党が福祉政策の放棄を競っているようなものだ。

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