厭離庵の紅葉
まだ11月28日の紅葉です。
嵯峨の清涼寺→宝筐院ときて、厭離庵(えんりあん)です。
なかなかわかりにくいところですが、
看板が出ていました。
紅葉の時期のみ一般公開しています。
藤原定家の小倉山荘跡で、百人一首の編纂を行った場所です。
その後冷泉家が修復し、霊元法皇より《厭離庵》の寺号を賜りました。
明治維新後、寺が荒れ、白木屋社長大村彦太郎が仏堂と庫裏を建立
山岡鉄舟の娘が住職につき尼寺となります。
しかし、平成18年男僧が入山。
アタシの友達が住職とおぼしき若い僧に
「尼寺なのに、なんで入りはったんですか?」
と、単刀直入にたずねてました(ノ゚ο゚)ノ
東屋の屋根がおもしろかった。
茶室 時雨亭 大正12年
桂離宮より模す
屋根が高台寺の傘亭みたいです。
広縁
ここでお茶会を催して、ジェーン台風で倒壊した本堂の建設資金にしたとか。
本堂
昭和28年築
聖徳太子作といわれる如意輪観音がご本尊
天井画は西村公朝の飛天
この左手に定家塚があります。
人がいて、なかなか撮りづらかったです。
嵯峨野の紅葉はこれにて終了!
嵯峨の清涼寺→宝筐院ときて、厭離庵(えんりあん)です。
なかなかわかりにくいところですが、
看板が出ていました。
紅葉の時期のみ一般公開しています。
藤原定家の小倉山荘跡で、百人一首の編纂を行った場所です。
その後冷泉家が修復し、霊元法皇より《厭離庵》の寺号を賜りました。
明治維新後、寺が荒れ、白木屋社長大村彦太郎が仏堂と庫裏を建立
山岡鉄舟の娘が住職につき尼寺となります。
しかし、平成18年男僧が入山。
アタシの友達が住職とおぼしき若い僧に
「尼寺なのに、なんで入りはったんですか?」
と、単刀直入にたずねてました(ノ゚ο゚)ノ
東屋の屋根がおもしろかった。
茶室 時雨亭 大正12年
桂離宮より模す
屋根が高台寺の傘亭みたいです。
広縁
ここでお茶会を催して、ジェーン台風で倒壊した本堂の建設資金にしたとか。
本堂
昭和28年築
聖徳太子作といわれる如意輪観音がご本尊
天井画は西村公朝の飛天
この左手に定家塚があります。
人がいて、なかなか撮りづらかったです。
嵯峨野の紅葉はこれにて終了!
ダッハウ収容所
春に日本語を教えていたドイツ人のハンス君が再来日し、
また日本語を教えていました。
リーディングに使ったのはコレ
彼は日系人の松村さんという人に解放されたそうです。
杉原千畝氏も出てくるらしい。
また読んだら、感想を書きます。
また日本語を教えていました。
リーディングに使ったのはコレ
- 桃太郎 (新・講談社の絵本)/齋藤 五百枝
- ¥1,575
- Amazon.co.jp
- なかなかリアルな桃太郎でしょう?
気に入ったようだったので、
「帰国時にプレゼントするわ」
って、言いました。
「何日に帰るの?」
って、尋ねたら、
「29日」
と言うので、
28日に届けようと思っていました。
すると、28日の朝フェイスブックにメッセージが入っていた。
「今成田。あと1時間で出発です。
いろいろありがとう」
え
29日に帰るのでは???
29日にドイツに着くって言うことだったのか!
(あまりうまくない日本語でしゃべっていたので
誤解が生じたらしい。)
ハンス君と話をしていたときに
なぜかダッハウ収容所の話になった。
「あそこを解放したのはアメリカ軍の日系人部隊だ」
と、言うと、びっくりしていました。
ダッハウ収容所をwikiで検索してみると
抜粋
ダッハウ強制収容所はイギリス軍やアメリカ合衆国軍に解放された2番目の収容所であったため、多くの人々にとって重要な場所となっている。従って、西側諸国がナチスの蛮行にじかに接した最初の場所のひとつであった。
なお、実際には日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団所属の第522野戦砲兵大隊が収容所周辺における掃討作戦の中心的存在となっていたが、このことは1992年まで公開されなかった。
この後半の部分は英語版や、やたら長いドイツ語版には
アメリカ軍によって解放されたとしか載っていません。
同じ項目でもいろんな言語で調べてみるとおもしろいです。
このことを検索していたら、
おもしろそうな本があったので、取り寄せました。
- 命のロウソク―日本人に救われたユダヤ人の手記 (祥伝社黄金文庫)/祥伝社
- ¥780
- Amazon.co.jp
彼は日系人の松村さんという人に解放されたそうです。
杉原千畝氏も出てくるらしい。
また読んだら、感想を書きます。
宝筐院2
嵯峨野の宝筐院のつづきです。
きれいでいっぱい写真撮りました。
本堂
一度すたれたので、大正期に建てられたもの
楠正行の首塚が埋もれていくのを残念に思った京都府知事 北垣国道と
実業家 川崎芳太郎が再興しました。
楠木正行(まさつら)の首塚があります。
正平三年・貞和四年(1348)正月、正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦って討ち死し(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺(前身の寺)に葬りました。
後に、この話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒め称え、自分もその傍らに葬るよう頼んだといいます。
足利家の紋と、楠木家の菊水紋
遠目に本堂
よく見ると紅葉もいろいろあります。
葉っぱが黄色くて細長いのとか、
きれいでいっぱい写真撮りました。
本堂
一度すたれたので、大正期に建てられたもの
楠正行の首塚が埋もれていくのを残念に思った京都府知事 北垣国道と
実業家 川崎芳太郎が再興しました。
楠木正行(まさつら)の首塚があります。
正平三年・貞和四年(1348)正月、正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦って討ち死し(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺(前身の寺)に葬りました。
後に、この話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒め称え、自分もその傍らに葬るよう頼んだといいます。
足利家の紋と、楠木家の菊水紋
遠目に本堂
よく見ると紅葉もいろいろあります。
葉っぱが黄色くて細長いのとか、
宝筐院(ほうきょういん)1
今年の紅葉で一番きれいだったのは、
洛北とこの宝筐院(ほうきょういん)でした。
人の多い渡月橋からは少し離れているのですが、
よく雑誌などでも紹介されているので、そこそこ人がいました。
なので、人が写りこんでしまう。
宝筐院は臨済宗の単立寺院で、もとは白河天皇の勅願寺である、
善入寺といい、住持として皇族が入りましたが、すたれてしまいました。
その後夢窓国師の高弟 黙庵周諭禅師が入寺し、
衰退していた寺を復興させました。
黙庵に帰依していた二代将軍足利義詮(あしかが・よしあきら)は、
伽藍整備に力をいれました。
しかし、また幕末に衰退。
楠正成の息子 正行ゆかりの寺として、明治期にまた復興されました。
紅葉がふかふかの苔の上に落葉するのが、また良し。
本堂から外を見ている人が何人かいました。
中から見ると、
一段ときれい
いっぱい撮ったので、つづきます。
洛北とこの宝筐院(ほうきょういん)でした。
人の多い渡月橋からは少し離れているのですが、
よく雑誌などでも紹介されているので、そこそこ人がいました。
なので、人が写りこんでしまう。
宝筐院は臨済宗の単立寺院で、もとは白河天皇の勅願寺である、
善入寺といい、住持として皇族が入りましたが、すたれてしまいました。
その後夢窓国師の高弟 黙庵周諭禅師が入寺し、
衰退していた寺を復興させました。
黙庵に帰依していた二代将軍足利義詮(あしかが・よしあきら)は、
伽藍整備に力をいれました。
しかし、また幕末に衰退。
楠正成の息子 正行ゆかりの寺として、明治期にまた復興されました。
紅葉がふかふかの苔の上に落葉するのが、また良し。
本堂から外を見ている人が何人かいました。
中から見ると、
一段ときれい
いっぱい撮ったので、つづきます。













