前回のあらすじ
3年ぶりの帰省を控えていた59531(ごるごさーてぃわん)ことでうく西郷のもとに、特命調査の依頼が届く。その内容は、文禄・慶長の役により朝鮮から日本へ来た人たちの扱いについて調査をすること。
用意された期日は1日。
飲んだ勢いで「いーおー(=゚ω゚)ノ」した私は、お酒の力に任せて地元の有志に情報提供の呼びかけをしたのであった。
地元の人たちとしてはやはり、「んん~なんというか、ちゃれんじんぐば超えてハイリスクなこつばしよるばいの~」という反応でした。んなこちわかっとる。
しかし、各方面の視点から、様々な情報をいただくことができました。
お付き合いいただいた皆さま、大変ありがとうございます
収集した情報を、宮城に戻り落ち着いてからまとめてみると、まずは「彼らがひどい扱いを受けていない」とは、どの目線で語るべきなのかを今一度整理すべきだと感じました。
われら地元の心情としては、連綿とした朝鮮との関わりや後ろめたさもあり、朝鮮出兵が罪であるという意識や差別があったという反省がありますが、差別意識というのが文禄・慶長の役直後の時代で土着の熊本人にあったのかは、そういえばナゾです。
当時、朝鮮人が居住していた地域は現在の熊本市中央区新町にあたり、蔚山町(ウルサンまち)と呼ばれていました。
蔚山町はそういや、過去のブログにも取り上げたことがあり、その時は幕末の人斬り・河上彦斎の生誕地との絡みで紹介しました。コレだね
もう8年前になるのか
彦斎の生誕地である新馬借町(馬借:馬に積み荷を載せて運ぶ運送業者の町)と蔚山町は正確には区画を一つ挟んでいます。いずれにしても、徒歩5分くらいの短い距離ですけど。
「熊本城下」というのはこの説明版にある新町と、説明版にはないけれど新町の南にある古町(ふるまち)を含む。古町には、「唐人町(とうじんまち)」と呼ばれる中国人の居住地区もあった。
ピンクの○で囲んでいる部分が今回話題の蔚山町。
この「高麗門」が熊本城下に入る西の玄関口。
高麗門は、清正が朝鮮出兵した際に李氏朝鮮の都・開城(ケソン)にあった門を見て参考にしたといわれています。
なるほど、これだけ見れば、清正は少なくとも朝鮮のものを排除するのではなく取り入れる方向でいたことは間違いなさそうですね。
更に加えて考えてみると、これだけ整備された城下町に私たちのような庶民はまずもっていないだろう。と、いうことを考えると、明治大正昭和平成令和と、その後の歴史の知識がごちゃ混ぜになっている一般市民の私たちの目線で語るのもキケンな気がしてきました。。。
朝鮮出兵により日本に連れてきた朝鮮人は、職人が多かったといわれます。おかげで、日本は、萩焼に有田焼など、特に焼き物文化が大きく発展したといわれていますが、職人たちを奴婢にすることが多かったのは、敢えて職人を欲しがったのか、それとも彼らが李氏朝鮮社会では賤民や白丁(元から奴婢の身分)で不用の者とされていたからか?おしえてえらいひとー。
もう一つ、述べておかなければならないことは、加藤清正にしろ熊本県の南半分を治めた小西行長にしろ、別に熊本の人ではない、というか九州の人ですらない点です。
私たち熊本の民は、つい「清正公さん~むしゃんよか~
」と加藤清正をあげ奉りますが、よくよく考えてみると、朝鮮出兵の少し前には九州平定がありました。要するに、朝鮮出兵と同様に九州出兵があり、言ってみれば九州も本州のやつらに征服され、国をとられてしまったということ(更に熊本の状況をいえば、豊臣の前に既に島津に侵攻され服従状態にあったので、トアル国から解放され別の国の属国になった、というと朝鮮半島の運命と重ねやすいでしょうか)。
ここで、清正や小西行長が「九州の人ですらない」と強調したのは、海を隔てているのといないのとでは、やはり全然感覚が違うからです。
一時期、「フクオ韓国」という言葉がかなり流行りましたが、そう言われるほどの九州と韓国(朝鮮半島)の距離の近さ、そして本州と九州が海を隔てていることを考えると、九州平定したばかりの当時の感覚では、九州も朝鮮半島もさしたる違いはなかったのではないでしょうか。要するに、どちらも殆ど外国であった。
これは、清正にとってもコニシィにとっても、そしてもちろん平定や出兵を指揮した秀吉にとってもそうだったのではないか?
つまり何が言いたいかというと、清正やコニシィにとっちゃ熊本人も朝鮮人も同じで、どっちも海の向こうの外国人という認識に過ぎなかったのではないかと。熊本も、現代より方言がきつくてもはや外国語だったでしょうし。
なんなら自分が海を越えて熊本治めに来ちゃったしなあ的な。
よその国から来たという点では連れてきた朝鮮人の方が感覚が近いかもしれませんしね。
そういう意味では、もちろん清正は朝鮮現地ではひどいことをしたけれど
朝鮮から九州に連れ帰った者たちにわざわざひどいことをする理由がないんですよねぇ。
彼らを手酷く扱うならば、恐らく熊本の人たちに対してもそういう扱いをするでしょうし
そう言えるような一本気な人柄が、清正に関連する資料からは滲み出ています。
そもそも、この時代は下剋上。サルでも天下を統一できるし、男も男の恋人になれるし、外国人とて既に大名の家臣となっていた。
清正だって、デキル者には誰にでも家禄を与えるし、未来ある子どもには優しくする。
そのことがわかるエピソード、清正とゆかりのある朝鮮人について次回は紹介していきたいと思います。