タイトルは、熊本弁で『彦斎の生誕地を歩く』という意味です。
だうも!GW毎日更新を3日坊主で終了したでうくです!
昨日の夜中に神奈川のおうちに戻ってきたのですが、箱根山が何やらぷすぷすいっているんですって?
やーですよーもー帰省中阿蘇の火山灰を浴びてきたっていうのにぃ!
なんでそんなに山、おこなの?
という訳で、まだ堂々とお休みをもらえているうちに、ちゃっちゃと記事でもあげましょうかね。
はぁ・・・小説書きたい・・・・・・
5月4日は、彦斎の生誕地である 新町(しんまち) に行ってきました。
ん~と、この地図が一番見やすいかな。
by google先生。右上の熊本城周辺から左下の九州新幹線熊本駅までを貼ってみました。
最も栄えているのはっぽいマークの通町筋(とおりちょうすじ)、熊本城・市役所前、花畑町、辛島町辺りで、(
っぽいマークはJRではなく市電です)、九州新幹線熊本駅とは3kmくらい離れています。
熊本は盆地で、ここいら辺りもアップダウンの激しい地形なので散歩がてら熊本城や繁華街へというのはちょっとおすすめしません。照り返しが激しいし、見るものも特に何もないのでぜひ公共交通機関を使ってください。JRの出番こそないものの、タクシー、市電、バス、(市電、バスは熊本駅からならどの系統の何に乗ってもヨシ!)のどれかが常にいる状態なので、便利は悪くないと思います。運賃もそんなに高くはないはず。
ただ、これが 新町(赤い枠の中っすね) になると、ほぼ市電一択となるのが世知辛いところ(いや、他もあるけどよくわかんない・・・)。
市電の本数も減り、私の時は20分くらい待ちましたかねぇ。
辛島町で路線が分岐しているので、熊本駅から直接新町へ行くこともできないんですよね。
彦斎は熊本城城下町の新馬借町(しんばしゃくまち、現在の熊本市中央区新町3丁目)に生まれました。そこはまさにドンピシャリで 熊本市立一新(いっしん)小学校 となっておりまして、最寄りは市電「蔚山町(うるさんまち)」停留場。
「蔚山(うるさん)」とは韓国南東部に現在もある「蔚山広域市」のことで、加藤 清正が文禄・慶長の役で連れ帰った朝鮮人たちをここに住まわせ、熊本城築城の労働力とした、と伝えられているんですね。この地域は「唐人町(とうじんまち)」もあり、即ち中国人も住んでいたそうで、細川氏が入国して武家屋敷が広がる前はそういった外国人や職人たちの居住地だったようです。
何だかんだで中韓との繋がりを感じずにはいられぬ熊本。九州だしね・・・・・・
空気を読んでか、その日の昼食はコレ!
春雨が入っています。
太平燕の「太平」は本場中国・福建省や台湾で「天下太平」を示し、たいそう縁起のいい食べ物らしいですよ。
さて、寄り道が過ぎました。
(おまんじゅうやさんの掛け軸)
ほほう。気分が盛り上がってきた。
新町は熊本の町並みとしては珍しく、京のような「碁盤の目」の造りになっています。
そこに城下町の名残がありますね。
おおっ!!

これです!生誕の碑!なんたるもろ小学校!!(爆)
一新小の子どもたちはぜひとも誇りにしてください!しかし、新暦でクリスマス生まれだったり誕生地が小学校だったり彦斎ってなんかファンシーでないですか?そう思うのは私だけかな・・・
この新馬借町、新町にできた馬借町という意味で(新町そのものが「新しくできた町」という意味なのですが、清正や当時の細川にとって「新しくできた」町なので、今となっては「最も古めかしさの残る」町です

※馬借とは馬に積み荷を載せて運ぶ運送業者のことで、要はトラックの運転手なのねと友人Nが言っていましたが、言い得て妙だと思いました。
では、彦斎の生きた幕末はというと、徒刑屋敷があり、市中引き回しや処刑が行われていたなかなかシビアな場所だったそうです。彦斎も時習館や熊本城に通っていた以上、目にする機会は多かったと思われ(勢屯(せいだまり)という広場が通り道にあり、そこで処刑執行されていた)、彦斎が人の生き死にに淡々としているイメージがあるのはこういうことがあってのものかもしれないですね。
ところで。
私「えっ、これだけ??」
友人Y(尾形さん小説の原作漫画の作者)「ん?」
私「えっ、だって・・・」
(周囲の風景)
私「えっ、何もなくね?武家屋敷どころか、現代人一人見当たらんのだけど?
これじゃ写真載せても明和不動産の宣伝にしかならないじゃん!」
Y「宣伝・・・してやったらええやん。新町の風景はこんなもんだぜ」
私「はあっ!?」
Y「いや、こんなもんだろ。どんなのイメージしよったん」
私「城下町っつったら萩だろ!」
Y「萩並みだったら県やら国やらの指定受けてるだろ!新町は殆ど焼けとるわ!」
私「あぁん!?」
Y「70年前を思い出してみろこのすかぽんたん!」
私「・・・・・・あ」
・・・・・・そうでした。70年談話の年ということで触れておきますが、熊本も太平洋戦争中にB29の空襲を受けて一面焼野原になったのでした。
私の祖父が宇土(熊本市の南隣の市)の人間で、爆撃機の音が聞こえ、熊本市方面が燃えているのを見たと聞いたことがあります。私の親族は皆全てを墓に持っていってしまうので、たった一言漏らしただけですが貴重な体験談だと思いました。
私「・・・・・・アメリカめ!」
Y、N「今更!?」
そういう訳で、町並みとしては城下町の風景は殆ど残っておりませんでした。。。
しかし、全てがなくなった訳ではない。
碁盤の目もそうですが、京チックにお寺や地蔵が多いのもこの町の特徴です。
彦斎の碑の前にも、こんな地蔵が。
どこかに連れて行かれそうだ・・・・・・
そして、こちらが彦斎の菩提寺・妙立寺。
この寺に彦斎の過去帳があるそうです。そんなに大きい寺ではなく、門と墓があるくらい。
寺の他には、このような建物が残っています。
吉田松花堂。シーボルトの弟子であった吉田 順碩(よしだ・じゅんせき)が文政年間に開いた薬屋で、現在も営業中。
内部の見学はお断りしているそうです。
長崎次郎書店。地元の人のための補足をすると、上通(かみとおり、市電の最寄は通町筋)にある長崎書店の本社です。明治7年に創業。創業者の長崎 次郎さんは森 鷗外のお友だちなんですって。
1階が書店、2階が喫茶店となっており、喫茶店で水出しコーヒーをいただいて帰りました。
とても美味しかったです。帰省したらまた来ようかな。
彦斎を巡る散策のつもりでしたが、彦斎より更に深い歴史を感じるものでした。
先の戦争のように、失うことで得る歴史もありますよね。
最後に、清正治世の時代から明治初年まで建っていたという 高麗門 の石碑をパシャリ。
こちらも朝鮮の高麗門に準じており、熊本城の通用門として使われていました。
高麗門の前にもお地蔵さんがあったよ!