最近こちらに出てくる余裕が出てきました~でもたぶん痩せたゲラゲラ

静岡県の天気は雨、その上気圧急降下で、も~完全に自律神経失調してます傘

不謹慎かもしれませんが、コロナで様々なものが自粛されているなかで重なったのが救いですうーん

 

 

さて、嫌な現実を忘れたいのもあってここ最近意識を150年前の静岡に飛ばしているのですけど(爆)

徳川家が保管している史料で徳川慶喜『家扶日記』というものがあり、原本は千葉県の松戸市戸定歴史館にあるらしいのですが、それは明治5年から大正元年までの実に41年間にわたり、徳川 慶喜の家扶(かふ:使用人)であった小栗 尚三、新村 猛雄、松平 勘太郎の3人によって記録された日記です。慶喜が静岡にいたのが明治元年から明治30年までの30年間なので、家扶日記の大半が静岡時代のものになります。また、静岡時代の記録については郷土史家である前田 匡一郎さんというかたが解読し、『慶喜邸を訪れた人々』の著書名で出版されています。

 

私は以前調べた関係で、その資料から関口 隆吉の名前が見つからないかと思い、探してみたら、結構な分量で、かなり詳しく記録がされていました。しかも、隆吉自身が県の重要人物なのもあって慶喜が朝敵から従一位に栄誉回復した際の詳細な出来事や、隆吉が列車事故に遭い死に至るまでの期間の慶喜の様子がわかる超貴重なラインナップ。渋沢 栄一など、旧家臣でもごく限られた者しか相手にしなかった慶喜の隆吉に対する信頼の高さや、日記にも殆ど描かれない慶喜の心の機微が珍しく読み取れる箇所になっておりました。今回は、『家扶日記』における静岡時代の、更に関口 隆吉にまつわる記述を抜粋し、隆吉と慶喜の関係、そして当時の慶喜を取り巻いていた状況について、複数記事に跨いで紹介したいと思います。

 

 

関口 隆吉が初めて日記に登場するのは、明治8年5月30日の「関口隆吉御機嫌伺い来邸」で、以降は

明治17年10月8日の「関口隆吉、県令に赴任。殿、御逢」までは全く出てきません。その理由は、隆吉が明治政府に登用され、他県の県令として飛び回っていたからですが、その詳細はこちらの記事にまとめてあります。その間の慶喜についてまとめますと、主に狩猟や謡、囲碁に没頭しながら、鉄炮の試し撃ち、清水湊(港)での投網、放鷹、釣りと趣味の範囲を広げ、一方で廃藩置県による静岡藩の消滅に伴う人員整理で失職した用人(旧家臣)たちの訪問を受けています。行動範囲も、明治一桁代は静岡駅周辺にあたる自宅近辺(紺屋町)や安倍川、遠くてもたまに三保、清水にとどめていましたが、将軍が遠い存在となった明治十年代になると岡部、藤枝、榛原(はいばら)、蒲原(かんばら)と広がっています。これが、明治22年に東海道本線が開通すると浜松、沼津、そして東京と更に広がるわけですね。

 

慶喜には(あつし:1874(明7)~1930(昭5))という四男がおり、明治16年には完全に隠居し、表向きの用件には厚が応対していたようです。隆吉が県令に赴任し、慶喜邸を訪問したときも、厚が対応していたようです。また、明治18年1月1日の「関口隆吉、永峰彌吉、梅沢敏、同胞会の者、年頭の御祝儀に来邸。殿、御逢」も、殿とは厚を指しています。

 

翌明治19年からは、隆吉に関する記述が増えていきます。

 

明治19年

1月12日:関口隆吉、蜂屋定憲が年頭の挨拶に来邸。支那(=中国)より到来の筍を献上。殿(=厚)、御逢。

8月13日:関口知事(隆吉)、碁盤献上。素読教師の小笠原袖先、碁拝見す。

10月18日:先般、関口知事に碁盤をいただいた礼として黒羅紗を吉松為三郎(新村らと同じ家扶の一人)を使いとして届けさせる。

12月21日:前田五門、蜜柑献上。関口隆吉出頭。

 

 

 

 

明治20年

1月14日:「笹間洗耳所有地の分買上、代理関口知事宅に於いて相渡候事」

 

※補足しますと、明治22年に東海道本線が開通し、静岡停車場(=現・静岡駅)ができるにあたり、汽車の騒音を懸念した慶喜は、静岡駅から離れた新居を探すこととします。その際の宅地譲渡の交渉の窓口および邸地取りまとめの代理人は当時の県知事である隆吉が担当していました。

新居は静岡浅間神社の近所にあたる西草深町。当時は笹間 洗耳(ささま・せんじ)という人が所有していたみたいです。その人から土地を買い取る交渉をしていたということですね。ちなみに笹間は東京目黒区の新富士も所有していたという記録が残っているみたいですよ。隆吉の墓がある臨済寺の墓碑の建立や、興津清見寺咸臨丸乗組員殉難碑の設立にも関わった人でもあり、更に静岡学問所(=徳川幕府崩壊後、駿府に移封された徳川氏が藩の建て直しや旧幕臣らの人材育成を意図して明治元年に開設した学校。駿府城内にあった)の教科書である「四書白文」「小学白文」の著者でもあるなど、恐らくたぶんかなりスゴイ人です。

 

話は戻して。

 

2月10日:関口隆吉、宗家宛代金の受取書を持参、来邸、新村猛雄と面接。新村猛雄と成田金吾(同じく家扶)は庭木をどうするかで草深の邸地を巡見。

7月14日:新邸につき、世話の礼金として十五円を戸長佐倉信武(=隆吉の父の生まれである御前崎市佐倉の池宮神社の神職。のち、「静岡大務新聞」を発行。その後、宝台院境内の静岡高等英華学校→静岡女学校(現・静岡英和女学院)校長)へ贈るため、新村猛雄、関口邸へ持参。

10月14日:草深邸の事で色々世話になっていた戸長佐倉信武へ十五円渡すよう、関口隆吉に依頼。新村猛雄が持参。

12月15日:西草深邸地の譲り受け手続き完了。関口知事より地権証受け取る。登記は殿が代理として水野静恵に依頼。

12月31日:関口隆吉へ、世話礼として浅機織一反。樹木の礼として尾崎伊兵衛(製茶貿易を行った実業家。Wikiにも記事あり)へ金十五円賜る。

 

このように、明治20年の隆吉に関する記事は新居の手続きに関することに終始しています。しかし、これが慶喜の隆吉に対する信頼を確実なものにしたのでしょう。明治21年より、慶喜は隆吉を自ら招待するようになり、好意を表にあらわすようになるのです。

明治21年の記録については、また次回ニヤ