静岡に引っ越して早くも2ヶ月。生活も落ち着いてきて、平和な日々を過ごしております。



さて、そろそろ新しいことを始めようかなと、これまでは感じることのなかった余裕をごくごく自然に感じるようになり、ぺらぺらと静岡の催しをチェックしたり「とびっきり!しずおか」(岐阜でいう「長良川情報局」のような地元情報番組)を観たりしておりました。そこで知ったのは、今年は静岡にとって特別な年だということ。


 

熊本ではブラジル移民100周年、岐阜では織田信長が「岐阜」と命名して450周年と、節目の年に出逢ったことは何度かありましたが、静岡では今年今川義元の生誕500周年とのこと。義元に関する記念行事ももちろん多数行われますが、そこは私は幕末明治の女、なんと偶然すぎる別のものに引っ張られました。

 

静岡県の初代県知事・関口 隆吉(せきぐち・たかよし、1836~1889)です。



関口 隆吉が静岡県でどの程度の知名度の持ち主なのか、私には全くわかりません。静岡と縁もゆかりもない人間なので(爆)

ただ、故郷熊本で考えても初代県令が安岡 良亮ということは知っていますが、これは神風連の乱というショッキングな事件があったからで、その後の県知事が誰かなんて全く知らないです。


その関口 隆吉の銅像が建てられる関係で劇と講演が通年で行われるということで、その第1回を観に
菊川駅に降り立ちました。
(?菊川?どこ?という反射的な言葉は飲み込んで(笑) 菊川は、静岡市と浜松市のちょうど中間にある市です)
 

 

当然、菊川駅に降りたのは初めてですが、「この駅は昭和31年まで堀之内停車場と呼ばれていて(菊川駅一帯は明治時代まで『堀之内村』という村であり、現在も『菊川市堀之内』という地名)、静岡-浜松の東海道本線開業の時に他の村とのせめぎ合いの中、関口 隆吉が誘致してくれたからあるんだよ」「鉄道開通の際、東京-熱海と名古屋-神戸は優先して造られたけど、それらの間にある静岡-浜松は山の険しさがあって分断されてしまい、置いていかれていたのを関口 隆吉が推し進めてくれたんだ」初っ端からディープな話を聞いてしまいました。なんかよくわかんないけど岐阜にしろ静岡にしろ東海道から少し外れていると外れているなりの苦労があるんだなと漠然と思いました。そんなに東海道が最強だったとは、東海道を五十三次やら膝栗毛やらの教科書の世界としか感じていなかった私は知りませんでした(爆
 

 

 

菊川市にも赤レンガ倉庫があり、国の登録文化財に指定されています。茶工場として使用されていた建物で、現在でも静岡茶の一つ「菊川茶」が地域の名産です。登録文化財の割に、この中で演劇や演奏が行われるかなりフランクな取り扱い。贅沢な気持ちになります。


まず、「江戸」というものがどういうものなのかを神奈川時代にうっすらと感じながらも、やはり幕末明治の関東事情にはどうしても疎いので、徳川 慶喜が水戸謹慎後に静岡のここ菊川に身柄を遷されていたことはこの講演を聞いて初めて知りました。

 

 

関口 隆吉は慶喜のこの静岡謹慎時代を支えた人で、幕末期は幕臣でありながら尊皇攘夷の志が強かったそうです。同じ幕臣である勝 海舟を暗殺しようとして斬りつけたこともあり、結局勝に丸め込まれて暗殺を取り止め、親友どうしになったとのこと(ん?どこかで聞いたことのある話だな?)。勝からは「鐙斎(とうさい)」というあだ名で呼ばれていたそうです(「鐙斎」の由来は、隆吉が勝を襲撃した際、勝は馬上におり、隆吉の刀の刃先が鐙(あぶみ)に当たっただけだったからというすごい皮肉!)。
 

また、山岡 鉄舟とは親友であり、勝・西郷会談である江戸城無血開城に先んじて行われた山岡・西郷会談の折には鉄舟を精神的に支え、鉄舟に大小「会津兼定」を渡したとのこと。


ところで、隆吉の生まれは静岡ではなく江戸ですが、父が御前崎市の神社出身で関口家に養子として入ってきた関係から、父の故郷である静岡には子どもの頃からよく訪れており、静岡の地理には詳しかったのだそう。このことがあって、静岡の開拓には隆吉が適任であろうと、隆吉が静岡県令・県知事になる実に14年前の明治3(1870)年に木戸 孝允が彼を推挙し先んじて静岡の開拓に赴いています(木戸こと桂 小五郎は隆吉が神道無念流・練兵館に入門した時の塾頭で、見知った仲)。この“静岡の開拓”がいわゆる牧之原市にある牧之原台地の開拓で、木戸の人選と隆吉の知識、当時静岡藩政に関わっていた山岡 鉄舟、そして勝 海舟のその時の機転により、明治維新によって失職した大量の幕臣たちが牧之原に入植して茶業を開始したとのこと。私もこの前偶然にも牧之原市の大茶園の傍を通りましたが、あの広大な茶園と静岡茶の全国的な広まりには、こういった裏のドラマが隠されていたのですね。知らなかった。


なお、この牧之原台地に入植した一人に坂本 龍馬暗殺の下手人として有名な今井 信郎がいます。龍馬暗殺の罪で今井に言い渡されたのは「静岡どまり」の刑。「静岡どまり」とはどうも「静岡から出てはいけない」刑罰のようなのですが、そう考えると静岡は流刑地の一つだったのでしょうか?教えて偉い人ー。
今井は牧之原に入植するとそのまま帰農、榛原郡初倉村(現・島田市初倉)の4代目村長になり、榛原高校の創立に関わります。その後、クリスチャンとなり、これまでの行いを恥じて襟を正して生きたとのことです。

話を元に戻して、牧之原台地の開拓に尽力した隆吉はその後、三瀦県(みずまけん、福岡県筑後地方および佐賀県一部)権参事、置賜県(おきたまけん、山形県置賜地方)参事、山形県令を経て、山口県令になります。山口県令時代は
萩の乱が起きますが、見事これを鎮圧。「山口の賢県令」と呼ばれます。その後、東京に移住して元老院議官になりますが、牧之原台地の開拓から東京に移住するまで、家族はずっと菊川市におり、単身赴任という形を取っていました。そのため、菊川市民にとって関口 隆吉は特に思い入れがある人なのですね。


元老院時代の後は静岡市に移住し、静岡県令、途中で制度が変わり静岡県知事となります。静岡県知事として行ったのは、先述した静岡-浜松の東海道本線開通の他、治山治水事業、「久能文庫」の創設、静岡県初の女学校の創設。東海道本線の開通に際しては、試運転を見届けたいあまりに車などを使っての移動ではなく貨物用のトロッコに乗り込み、しかもそのトロッコが交通事故に遭って隆吉も負傷、それが原因で亡くなってしまいます。

亡くなるまでの間に書いた遺言状には「自分、明治生命と契約してるから・・・葬儀関係もろもろのことは200圓以内に抑えろ・・・」とあったそうで、思わず「・・・明治生命か・・・」と呟いてしまいました。

貨物用のトロッコに乗って死んじゃうてどゆこと??ツッコんでほしいのかな??ギャグでなくても出来すぎな感じかな??といろいろと思うところありましたが、「ヘーソウナンダー(∂ω∂)」とうっすい反応をしときました。なんかこういうわけわかんない死に方、歴史ではよくあるもんね!(爆


それにしても、静岡県にはこういった静岡の偉人をテーマにした劇を定期的に行う劇団があるようです。今年は隆吉らが先導した牧之原台地入植150周年に向けて、そして2020年1月に菊川駅にて行われる関口 隆吉像の除幕式に向けて、関口 隆吉をテーマに1年かけて活動していくそうです。ふふ、上塚 周平の活動を思い出すよう。とても面白いですね。