静岡県知事との交流からみるけーき様②~栄誉回復~ | 植民所在地3丁目

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かふにっき記事、第2弾ですウシシ

前回、「ツレナイけーき様にデレの兆し!」みたいな予告をして記事を終えましたが、今回取り上げる明治21年は、けーき様が公式的にデレられるようになる記念すべき年になります。

この年、慶喜は従一位の官位を拝受。また、前年である明治20年の明治天皇の行幸の際には四男の厚が列席できたこと、皇后から慶喜に銅花瓶が贈られたことから、天皇と徳川家の和解が公的なものになったと考えられています。20年の時を経て、慶喜はようやく素直な気持ちを表出することを許されたのです。

 

そのためか、この年は心なしか、慶喜自身が行動を起こした記述が多くみられるような気がします。

 

明治21年

1月13日:関口隆吉へ、約束の鷺一羽、真鴨一羽を、家丁、窪田道徳が届けた。

5月12日:関口隆吉へ、種々尽力のお礼に刀および金五十円を贈る。新村猛雄が関口邸へ代参。

5月16日:午後二時より、関口隆吉、出頭。二階奥座敷に招待す。

7月13日:関口隆吉と二階で酒肴を交え囲碁、小笠原抽先も観戦。隆吉は廿日まで東京に滞在するので山岡鉄舟への手紙を依頼。

 

※7月13日の記録の続報が後日あり、

 

7月16日:関口知事、明日出張(山岡鉄太郎病状悪化のため)、東京に三日滞在とのことで、慶喜から山岡への伝言を聞くため出頭。

 

山岡 鉄舟はそれほど多くは家扶日記に記述はないようですが、静岡県の権大参事や関東近辺に赴任されていたこともあってか、隆吉が訪れていなかった期間も短いスパンでちょこちょこ慶喜邸を訪れ(というか寄り)、陶器を献上したり、書画を献上したり、水牛細工のコップを持参したり(もはや旅行の土産レベル)しています。慶喜も山岡の訪問には喜んでいた記述があるだけに、山岡の病には気持ちを隠せないところがあったのでしょう。

7月19日に山岡は亡くなり、葬儀、初七日法事などの記録も家扶日記には記載されていますが、慶喜はいずれも参列を控えています。

 

 

ここから話は一変します。

 

10月19日から11月2日までは非常に事細かに記録されています。けーき様が従一位を拝受し、栄誉回復したことで、東京へ移住していた徳川宗家(家達)が静岡に直々に旧家臣や町の人々に礼を言いに来たのです。その乙女のトキメキお祝いセレモニーお祝い乙女のトキメキの模様です。

 

10月19日:午後八時過ぎ、先発の湯浅貫一郎(徳川宗家の家扶)、到着。

 

10月21日、新村猛雄、三島まで出迎え。吉松為三郎、湯浅貫一郎、静岡停車場まで出迎え。

家達はこの日、午後九時三十分に静岡に到着したそうです。官吏や市中有志、同胞会員らは、かつての静岡藩主(徳川を封じ込めるために明治初期に立藩され、廃藩置県まで存在した藩で、家達が藩主および藩知事を担っていました)を大歓迎し、午後一時からずっと待っていたそうです。その面々の中には、牧之原台地の開墾者である中條 金之助(景昭)や大草 高重もいたのだとか。

 

10月22日:午前七時過ぎ、蜂屋定憲、袖山正志、吉松為三郎、川村一先導にて、家達が久能宮(久能山東照宮)参詣。

午後四時から奏任以上の役人招請、謝恩会を開く。列席者は関口隆吉(県知事)、伊志田友方(県書記官)、安原吉政(静岡始審裁判所長)、鈴樹忠告(静岡警察署長)、村田豊(県書記官)、相原安次郎(県警部長)、杉山叙(県収税長)、梅沢敏(県議会議員)、近藤弘(久能与力・有渡安倍郡長)、蜂屋定憲(静岡師範大学校長)、上田敏郎(県技師)。

 

10月23日:午前九時三十分過ぎ、師範学校、病院巡視。

午後より、宝台院、浅間社、臨済寺へ。供、溝口、湯浅、川村、滝村、新村、関口隆吉、相原安次郎。

浅間神社にはこのとき二千余名の士族が集合し、慶喜と家達の御詞を聞いたそうです。

 

10月24日:午前七時、御前(慶喜)も同道、汽車にて大井川辺へ行く。案内役、関口隆吉、供、小栗尚三、梅沢覚ほか宗家用人五人。停車場より相原安次郎先導、帰邸午後六時。

 

10月25日:午前八時過ぎから、慶喜と家達は、午後五時半まで旧幕臣と立食歓談。

多くの元家臣と会見したのはこのときが維新後初めてだったそうです。

 

10月26日:午前八時過ぎより、家達は県庁で関口知事、村田書記官に面会。

午前十時半、慶喜と同道華陽院へ。それより汽車で清見寺へ行く。その後、海辺を散策、漁夫を集めて網を引かせたのち、海水浴場に赴かれ、海水楼にて小休止、菓子料として千円被下。慶喜公とともに夕方帰邸。案内役、関口知事、供、溝口勝如、湯浅貫一郎、滝村小太郎、新村猛雄、吉松為三郎、梅沢覚、久貝正路(いずれも宗家と慶喜家の用人)。

午後七時過ぎより「従一位様(慶喜)御初、三位様(家達)より御饗応被進表奥一同下に迄御酒肴被下候事。柏原(学而)御招被下候事」。

 

10月27, 28日:写真師(徳田孝吉か)出頭、記念写真を撮る。

 

10月28日:家達、久能宮へ参詣。先導、関口知事、相原警部長、袖山警察署長。供、近藤郡長、蜂屋師範学校長、伊志田書記官、溝口家令、川村家扶、湯浅家従、当家家扶吉松為三郎。

同日、勝海舟より慶喜へ掛軸が贈られる。この日は西洋料理が振舞われ、関口知事も陪食。

 

10月29日:家達、慶喜と同道で吐月峰から徳願寺へ行く。供、平石波三郎、原七九郎、相原警部長、袖山警部ほか宗家用人四人。吐月峰に次ぎ、片桐且元の墓へ詣でる(静岡市駿河区丸子の誓願寺?)。

 

10月30日:午前八時過ぎ、家達、関口隆吉邸へ。供、久貝正路と行く。

両替町(静岡駅周辺)にある芙蓉楼に県庁の官吏一同が招待し、厚志のお礼と送別のための懇親会が催されたと当時の新聞(「静岡大務新聞」)は報じているらしい。

 

10月31日:午前六時出立、箱根へ一泊。関口知事、新村猛雄、箱根まで見送る。

ルートとしては、倉沢→鈴川村→原宿→沼津→三島→箱根だったようです。

 

11月1日:三位殿出迎え、新橋へ行く。

 

11月2日:関口知事に世話のお礼として紅白七子織、白七子織、加茂川染縮緬(ちりめん)各一反ずつを新村猛雄が届ける。

同日、相原安次郎が水戸光圀公筆額を慶喜に献上。

 

以上が乙女のトキメキお祝いセレモニーお祝い乙女のトキメキの内容になります。なんだか読みながら、どちらが礼を受けているのかわからなくなってきましたが、静岡県と徳川家の絆が深くなったことは確かでしょう。

セレモニーの余韻ともいえる記述が、この後の日付で見ることができました。

 

11月11日:千駄ヶ谷(宗家)、小梅(水戸家)、松戸(昭武)に、過日の写真および椎茸一箱ずつを通運便で送付。

11月12日:慶喜、家達二方の写真を、関口隆吉、相原安次郎、蜂屋定憲、梅沢敏、前田五門へ送呈。

11月30日:伏島近蔵(横浜実業社)、神代杉と桧を献上。取り次ぎの関口知事より受け取る。
12月13日:関口知事、明日上京のため暇乞いに来邸。
12月24日:関口殿(隆吉)、近藤殿(弘)、袖山殿(政志)、相原殿(安次郎)へ、歳暮として反物一反ずつ遣いに持参させる。

 

そうして静かな日常に戻ってゆき、年も暮れてゆきます。西草深町の新居も完成し、慶喜自身も、静かな環境へ移ってゆくのでした。

 

 

さて、次回がかふにっき記事最終回。明治22年の記録を紹介します。慶喜を残していろいろな人がいなくなる、寂しい時代に突入します。