静岡県知事との交流からみるけーき様③~知事の死~ | 植民所在地3丁目

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かふにっき第3弾にして最終回。今回は、当ブログのかふにっき記事のもう一人の主人公である関口 隆吉が急死する明治22年について取り上げます。もう一人の主人公の死に伴い、当ブログのかふにっき記事も終了させていただきます。

この年は、東海道本線が遂に開通し、東京が急激に近くなります。2月1日に東京~静岡、遅れること4月16日に静岡~浜松が開通。そして、市制の制定により、4月1日に静岡市が誕生します。当時の静岡市は葵区伝馬町から安倍郡と呼ばれた辺り(葵区の大部分)であったそうです。

 

環境が急激に現代の私たちの時代に近づくことを、慶喜のことだから興味津々で迎えていたことでしょう。

一方で、新たなものとの出会いは、古き良きものとの別れと表裏一体でもあります。

 

 

明治22年の慶喜と隆吉の接触は、おあつらえ向きにも「現代ではね、そういうのは『死亡フラグ』っていうんだよ」と言いたくなるものから始まります。

 

 

明治22年

1月1日:関口知事、伊志田書記官へ年頭挨拶。名代小栗尚三。

1月22日:関口知事来邸、故大久保一翁の遺物の硯、筆二対持参。

 

本ブログでは隆吉の名前が出てくる記述に絞ってまとめているので触れはしませんでしたが、山岡 鉄舟と並んで徳川を、そして明治維新期の静岡を支えた大久保 一翁が、山岡とほぼ同時期に亡くなっています。その記録は家扶日記にも記述されており、明治21年7月31日:午後三時、大久保一翁死去、との電報来る」とあります。その大久保の遺品を、隆吉は自身の死が近いことも知らずに持参するのです。

 

1月23日:庭石、天竜川より買い上げ、代金は関口知事に廻す。

3月20日:関口知事へ酒リッチモンド一ダース、新村猛雄使いにて贈る。

3月28日:徳川 達孝(御三卿・田安徳川家九代目当主)、24日より来邸し、この日、関口宅訪問。八丈縞二反持参。供、溝口勝如、新村猛雄、藤田。

4月1日:鯨ガ池へ銃猟、猟の鴨三番を関口知事へ。一番ずつ袖山署長、三浦弘夫、柏原学而、国友直、蜂屋定憲、鵜殿(長道)。以下、家庭教師四名へ贈る。

 

 

4月11日、隆吉は愛知県で行われる招魂祭に参加するために乗った東海道線のトロッコ(式典に間に合わないと思い、貨物用の列車に乗ったといわれる)が衝突事故に遭い、重傷を負います。場所は、現在の用宗駅付近だとのこと(用宗駅自体は明治42年に開業)。このときの慶喜の様子が日記から滲み出ています。

また、このときの状況については勝 海舟も自身の日記に細かく記録をしていたようです(『海舟日記』)。

 

4月11日:「関口殿怪我致しに付きお使いとして新村猛雄相勤」

 

4月16日:「関口殿怪我の儀に付き急御用あり新村猛雄出頭」

「静岡伊志田友方、関口怪我大患ト成リ候ニテ医師頼ミ方とシテ出府」(『海舟日記』)

 

4月17日:「関口殿病気見舞として午後四時御前(慶喜)被為入、目録百円送与相成候事、供新村猛雄」

 

4月18日以降は、連日の如く新村 猛雄と小栗 尚三が交替で病院に見舞い、菓子、かしわ鳥、鶏卵などを持参していたそうです。

 

4月19日:慶喜から隆吉の容体のお尋ねがあり、蜂屋定憲が出頭し、詳しく申し上げた。

 

4月22日:伊志田書記官出頭、玄関にて、関口知事からの伝言で「内務大臣の命により高木軍医総監が診断したところ命に別条なしとの事」御前(慶喜)によろしく申し伝えてくれるよう依頼。

 

4月23日:伊志田書記官、佐藤進、同行し出頭、慶喜に病状説明。

 

4月25日:関口潜(隆吉の末弟)、出頭。容体を詳しく伝える。

「関口潜、兄病気宜敷ノ旨伝報。四月十九日」(『海舟日記』)
 

5月15日:三位家達からの要請で池田大医(謙斉)、明日来診。

 

5月17日:午後八時三十分過ぎ、隆吉死去。徳川宗家家令へ出状。

 

5月21日:午後一時より臨済寺にて送葬。一位(慶喜)、三位(家達)、殿(厚)の代理として小栗尚三勤める。葬儀補助として慶喜、家達より五百円。

 

5月22日:臨済寺にて初七日法事。小栗尚三代拝。一位(慶喜)、三位(家達)、各香典十円、厚五円御供え。

 

6月17日:宗家より十九日に、松月院(故・隆吉)三十五日に当たり、餅料千疋ずつ、関口潜、壮吉餅(長男・浜松高等工業学校初代校長)へ届けるよう取り計らって欲しいとの申し出あり。

 

12月24日:材木献上のお礼として、故関口知事へ二百円、白縮緬一反を周智郡奥領家村奥山瀬作へ贈る。

 

 

本ブログでは、隆吉の死(および大久保 一翁、山岡 鉄舟)にしか触れませんでしたが、この時期以降、慶喜は様々な人に先立たれており、勝 海舟・・・はまだまだ生きますが、母・登美宮、長女・鏡子(達孝の妻でもあった)、妻・美賀子といった肉親から、松平 春嶽、松平 容保ら維新の苦汁をともに味わった知己たちもこの世を去ります。家扶日記は単なる日常の記録なのでそこから慶喜の正確な心情を読み取ることは難しいですが、この頃に慶喜が詠んだといわれる歌は、なかなかに印象的です。

 

 

楽しみは おのが心にあるものを

 月よ花よと 何求むらん

 

 

楽しみはすべて己の心に在るものであって、形に求めるものではない―――・・・なんとも慶喜らしくもあり、激動の時代を乗り越えたから言える“悟り尽くした”ような歌でもありますね。

慶喜の存在感はこの頃から超然としたものになってゆき、特にアメリカ人から「歴史上の神秘的な人物」として関心を寄せられるようになったそうです。

 

 

関口 隆吉に関する記述は明治22年以後もあります。しかしその中の隆吉は、過去の人物に過ぎません。

また、記述の行動主体も、隆吉の子どもたちへと移ってゆきます。

これが時代なのでしょう。逆に、この日記の著者である家扶たちの方が驚くべき存在なのではないでしょうか。

最後に、隆吉の子どもたちの行動を見届けて、この記事を終了したいと思います。

 

 

明治23年

5月17日:故関口隆吉一周忌、臨済寺にて法事。徳川家代拝として小栗尚三出席。

12月3日:「故関口知事返上の馬具綱町様へ本日相廻し置候事」。

 

明治25年

3月9日:十二時、汽車にて常宮(竹田宮妃)、周宮(北白川宮妃)両殿下、浅間神社にて幼稚園生徒一同に拝謁。誠(慶喜九男)は側に召され親しく拝謁、菓子頂戴す。英子(慶喜十一女)欠席に付き教員関口マス(隆吉の娘)、菓子持参す。

4月24日:関口隆正(隆吉の養子)来邸。著書『聖論訓義』と故関口隆吉の遺稿『備忘録』および『国文渕源』『山田長政傳(伝)』を一位様(慶喜)と三位様(家達)へ献上。

 

明治26年

9月30日:原充実、木原六蔵、曲淵景明、中根正隆、関口隆正、中林仲、永塚起正、柴田勝右衛門、司馬賢吉、御機嫌伺いに来邸。

 

明治28年

5月18日:昨十七日の故関口隆吉七回忌法事の供え物(慶喜、家達は千疋、厚は三百疋)のお礼に、壮吉(隆吉の長男)、来邸。

 

~以上~