静岡でしか見られないけーき様の実像 | 植民所在地3丁目

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でも書いてることは変わらない。

あけましておめでとうございます(遅い!!)

お年賀コメントをくださったかたもいらっしゃるのに、お返事できておらずすみません・・・ぐすん失礼ではございますが、本記事に代えさせていただきますぼけー

 

 

さて、早速ではございますれば、今回は上様(徳川 慶喜公)を取り上げさせていただきます。

 

 

実は、というか知っているかたは多いかもしれませんが、慶喜は鳥羽・伏見の戦いの際に家臣を残して大坂城から江戸に逃げ帰り、新政府に恭順の意を示した後、最終的に身柄を静岡に遷されますが、それが明治元年7月23日のこと、慶喜31歳の頃、以来61歳までの実に30年間にわたって静岡で暮らします。私は知らなかったけどね!(爆)

 

 

 

慶喜の静岡生活は、六畳ほどの薄暗く、汚れのひどい畳の部屋から始まったといいます。ま、宝台院という家康の側室の菩提寺のことなんですけどね!そこで1年2ヶ月あまりの謹慎生活を過ごした後、歴史バラエティーなどでよく言われる「趣味に没頭する日々」に入っていくわけですが、そんな「趣味に没頭する30年」があったからこそ、静岡でしか見られないけいき様の姿と、そこから滲み出るけいき様の人柄というものがあります。人柄というのは、静岡時代の慶喜を通して、幕末期の慶喜の言動のうらやそもそもの気質にも言及してみるものになります。では、ほぼ1年ぶりの歴史さんぽ、Wikipediaの内容を濃くしていきましょう(爆)

 

 

 

 

まず、静岡には慶喜が撮影した写真集があります。い~だろ~。正確には、『写された明治の静岡』という名前で、他の写真家の写真も掲載されている写真集ですが、ボリュームとしては慶喜単体で写真集を出せるほど。慶喜が写真を趣味とし始めるのは、明治26年、57歳の頃で、静岡にいる間は4年間しか集中して写真を撮っていないことになります。しかし、驚くはその行動範囲。自身の住まいであった現在の静岡駅周辺静岡浅間神社周辺、家康ゆかりの久能山東照宮はもちろん、安倍川鉄橋の蒸気機関車、大崩海岸、三保松原、清水港、天竜川、弁天島と西へ東へ奔り回っています。富士など北への移動が見当たらないのは、明治22年に開通した東海道線の移動範囲が影響しているのかな?ちなみに、私の家の近所も撮影されていて、将軍様が100年以上前に撮った近所の写真という響きにシュールな気持ちになりました真顔

あと、家族や村人たちの写真も結構撮っているのですが、私が思わず目を留めたのが二人の側室で、二人とも面長でパーツが若干求心的の似たような顔をしていたので、ああ慶喜ってこういうルックスが好みなのかなと思いました。しらんけど。

 

 

かくいう慶喜のルックスは誰もがご存知、外国人(デンマーク軍人のエドゥアルド・スエンソン)の文章を借りると「ふつうの日本人によくあるように目尻が上がっていたり頬骨が出ていたりせず」「憂愁の影が少しさした知的な茶色の目をして」「深刻な表情をしていることの多い顔が、時折人好きのする微笑で生き生きとほころびた」というそんなに褒めてどうするのかというような感じですが(でも鼻筋は少し曲がっているともいわれているけどね!)、さてそんな少し翳(かげ)のあるもしかしてそれが家臣たちを「上様を守らねば!」という気持ちにさせたのかもしれないけーき様、内面はどうだったのでしょうか。

 

 

富士山驚くほど柔軟で冷徹な文人将軍・慶喜(けいき)ダルマ

慶喜がそもそも政治に参画することに消極的だったのは、ウィキにもあるように「骨が折れるので将軍に成って失敗するより最初から将軍に成らない方が大いに良い」と父・竹中直人斉昭に送った手紙から明らかで、安政の大獄ほぼ巻き込まれ事故みたいな流れで蟄居謹慎の身となります。これまで肥後人の項でさんざん宮部さんを困らしてきた吉田 松陰先生なんて自分から突っ込んでってやられてますから、ものすごく対照的ですね。「え、何やってんの、君・・・」と松陰がクラスメートだったらきっと慶喜はそう思っていたでしょう。

その時点でもう既に頭いいんだろうなこの人、ということがわかるので、恐らく、勝手に持ち上げたり落としたりする周囲の本質をかなり早くから見通してたんでしょうね。鳥羽・伏見の戦いも家臣の暴走からなるものといったらそうでしょうし、「貴人情を知らず」と囁かれたことに対しては、もしかして「情を知らぬはどちらぞ」と返したかったのかもしれません。

 

とにかく「頭が良い」の一点で人生を変えられてしまったけーき様、静岡ではその鬱憤を晴らすかの如く個性を爆発させます。それが慶喜のもともとの個性を引き出すものですが、まず、将軍期と静岡時代でそもそもあまり変わっていないのは、極めてざっくばらんなところだそうです。

それは、庶民的とはまた違った意味合いで、身分を殆ど気にしないということ。慶喜がまだ禁裏御守衛総督だった頃、一緒に食事をした際には普通に自分で酒を注いだり飯をよそったりしていたことを榎本 武揚が、時局に対する意見を求められたときには慶喜が至近距離で聞いていたことを佐久間 象山がそれぞれ記しているそうです。静岡時代も「庶民に育ててもらった方が強く育つ」の判断から、自分の子どもはほぼほぼ庶民の家に里子に出しています。

次に、ざっくばらんとも関係があるかもしれませんが、慣習や迷信を気にしません。写ると魂が抜かれると言われていた時代に写真に興味津々だったのと同様、大晦日や正月三箇日を狩猟や鷹狩に費やすなど、正月に殺生するんかいということを結構平気でやっています。あと、そもそもが子どもの頃から机に齧りつくより野を駆け回るのが好きだったようで、好奇心は旺盛なので本は読みますがいわゆる宗教的な、思想的な本は読んだ形跡があまりないのだそう。ただ、例外は建国記念の日や天皇誕生日など、天皇家が関わる行事の日は猟どころか外出も控え、神聖な時間を過ごしたようです。それは静岡を離れて東京に移っても一貫して変わらなかったみたいです。そこはやはり水戸学の総本山にいたからというか、天皇陛下への忠誠心という視点で考えれば、大政奉還をしたのも、大坂城から江戸に逃げ帰ったのも慶喜の中では一切ぶれのない行動だったのかもしれませんね。

 

 

ここまでを推測してまとめてみるに

ダルマ物事の本質を見通す冷徹さがある

富士山頭の回転の速さゆえ、自分でやってしまうところがある

日本国旗(本質の部分以外に対するこだわりがないため)当時の感覚で考えると、「変わった人」むしろ「はしたない」ところが少しある

右矢印本人としてはぶれがないが、周囲としてはブレッブレに映る

(更にいうと、慶喜は天皇への忠誠心のみ貫ければそれでよかった。対して周囲は、“上様”にはもっと上様らしく自分たちの意見を反映して欲しかった)

 

 

あと、慶喜が必要性を感じていたかは謎ですが、上記の気質が災いしてか、根回しがものすごくへたっぴだったようで、物事には順番があるというのにいきなり本命を叩きにいくので味方はイラつくこともあったよう。むしろ敵の方がそんな彼を評価し、“必要以上に”脅えたように思えます。だからなおさら、錦の御旗を取られてしまったのかな。

 

 

謹慎が解けた後の慶喜は悠々自適に暮らした面ばかりがクローズアップされますが、実はそればかりではなく、知らぬところで知らぬ者に勝手に自身の密使を名乗られ、クーデターの長に担ぎ上げられそうになったり、ジャーナリストに政治的な意見を言わされそうになったりとかもあったようで、いずれも水際で食い止められています。少なくとも西南戦争や維新の三傑が亡くなる明治10年代までは趣味を楽しみながらも油断のならない日々が続いていたのです。そこを全くの尾を掴ませずに生き抜いたのは、やはりけーき様の怜悧だけでない冷徹な頭脳があったからのように思います。

 

 

“上様”としてではなく、天皇に忠誠を誓った“一人の人間”として生きることを望み、家康並みに時機を待ち、多少(どころか国中を巻き込んでいるのでものすごく)荒療治ながらも最終的にはその望みを叶えた、ということでしょうか。慶喜は、そういったことについては堅く口を閉ざし、一言も遺さず逝ったので真相のほどはわかりません。

 

 

調べてみると、意外にアウトロー寄りの将軍で親近感が湧きました乙女のトキメキ

けーき様の歩いた静岡の景色を、今しばらく楽しみたいと思いますおすましスワン

 

 

 

〈参考資料〉

歯『その後の慶喜~大正まで生きた将軍~』家近良樹(講談社選書メチエ)

ふんわりウイング『慶喜邸を訪れた人々――「徳川慶喜家扶日記」より』前田匡一郎(羽衣出版)