第4回:近藤 勇を狙った藩吏・井上 平太 | 植民所在地3丁目

植民所在地3丁目

Alfooでのブログ『誰も知らない植民所在地』の発展系。所在地わかりました。

でも書いてることは変わらない。

『幕末熊本最前線 物見櫓』のHPにて、もやもや堤 松左衛門もやもやの記事をアップ致しました。
   堤 松左衛門(つつみ・まつざえもん、1839~1863)

改めて、宮部さんに劣らず轟さん、永鳥さんも勤皇党におけるキーパーソンなのだなと思う記事になりました。やはり永鳥さんの魅力というのは凄いらしい。一度教えを受けてみたい。
轟さんに関しては、まとめたいけれどもう少し調べます。1つ関連史料は読んだのですが、他の史料もあるということでそちらも読んで少し深めた方が良さそうだ。
轟 武兵衛の出ている資料、ご存知のかたは教えていただけますと嬉しいです。



はてさて、本ブログでは肥後のSMAP4人目。
第1回からの掲載がスムースでないこともあって、若干の飽きがきています←
違うの!いや違わないけど!(爆) この第4回の井上 平太(いのうえ・へいた、1848~1933)については例のSMAP記事であたかも私が人類で初めて井上 平太を取り上げるかのような触れ込みをしておりましたが、な~んWikipediaに項目あるくらいそれなりに有名な人じゃなかですか!!しかも、新選組隊士を斬り捨てた藩吏ということまで書いてある!
私から話せることはな~んなか!リンク貼って終わりですな!

リンク先は、こちら→  
井上平太 ‐ Wikipedia

んじゃ!
・・・ということはさすがに致しません、ご安心を(笑)
犯人を検挙することはせず、違反者は説諭して逮捕することはしない、生涯現場主義だったお巡りさん、ということで明治以降の人生についても興味深いですが、幕末、特に明治への切り替わりにかけてはなかなかおっかない人物でありました。この頃平太さんは二十歳。

{1D0F8D08-BC3F-40AA-9819-2413BCE91C38:01}

平太さんは350石の奉行の家の出身で、佐々さんや尾形さんよりもなんと家格は上。ということは、彼ら以上に藩への依存が強いお家柄ともいえ、王政復古の大号令を受けて藩主よしくにさん(佐幕派)よりも弟の護久さん・護美(もりよし)さん(新政府派)の力の方が強くなる藩中枢最大の混乱期の最中、朝廷との連携を強め戊辰戦争に出兵する護久さんに従って京に上りました。
平太さん自身は第2回で取り上げた松山さんと同い年、生まれた時代もあって尊皇やら開国やらのイデオロギーはなかったようですが、藩校時代の軍学の師匠が宮部 鼎蔵さんでした。彼らの世代の藩吏は宮部さんが藩の軍学武芸師範であった時期と重なり、志士云々はおいておいて師として慕っていた人が多くいたため、池田屋事件で宮部さんが亡くなった報を聞くと派閥を越えて悲しまれたと聞きます。肥後藩と新選組の仲の悪さはそれも影響しているのだとか(上田 久兵衛さんは会津藩とは池田屋後も仲が良かったらしいですが)。

平太さんも宮部さんの仇として新選組を恨んでいた一人で、鳥羽・伏見の戦いに乗じて辻斬りを行なっていたのだそうです。夜、または非番の日にふらりといなくなり、わざと怪しげなそぶりを見せて新選組隊士を引きつけ、斬る。そのたび顔を確認し、近藤 勇でないと知ると夜にまた辻斬りのため姿を消す。確かこの時期近藤さんは、御陵衛士に撃たれた肩の治療のため大坂城にいなかったかしら?

これを目撃した肥後藩士がおりまして、彼を問い質すとただにやりと笑ったのだといいます。恐ろしい。恨みは本当に人を狂わせますな。



この経験が平太さんを上のような警察官にしたのかどうかはわかりませんが、平太さんの同僚の警察官が殺害され、明治26年(1893年)に犯人が逮捕された時、被害者の遺族を犯人に会わせ、被害者の遺児にあたる子どもに


平太「坊や、この男があんたのお父さんを殺したんだよ。あんたはまだ生まれちゃいなくて、お母さんのお腹の中にいた頃のことなんだな。あんたを可愛がってくれるはずのお父さんがいないのは、この男の仕業だよ。
坊や、こいつをよくごらん。辛いだろうが、そうしなくちゃいけない」


と、ありのままを直視させたのだと。坊やは涙を流し、それを見た犯人は反省する・・・という話ですが、美談かどうかは意見が分かれそう。坊やはかつての平太さんのようにならなかったでしょうか。

そして、これまた奇遇なんですけれども、以前本ブログで取り上げた
推しダンディ・小泉 八雲さんの作品・『停車場にて』はこの出来事を題材としており、作中に出てくる「警部」は井上 平太さんのことです。現在、『停車場にて』は青空文庫で誰でも読むことができます。八雲さんの外国人目線で見たこの出来事の感想も描かれていて面白い。
短い話ですし、興味のあるかたは読まれてみてはいかがでしょう?リンクを一応貼っておきますか。
  小泉八雲『停車場にて』 ‐ 青空文庫



肥後のSMAPでは、これまで何気に取り上げてこなかった「青年時代に明治維新を迎えた人」を取り上げる機会を得られました。偶然だけど。
次回取り上げる藤村 紫朗も、明治維新時は23歳です。
30代以上の活躍が多く、国学ベースであったこともあって理解するのに難儀だった肥後勤皇党と比べると、彼らの世代は老獪でないから行動もわかりやすいし、熱さや衝動もイデオロギッシュなものとは違い若さ特有のものだとわかるから共感もしやすい。一時は思想に浮かされながらも、柔軟に思考を変え、明治の世を“生き抜いた”彼らはやはり一つ上の世代とは違うのだなと感じました。考えてもみれば、黒船来航時、彼らは5歳程度。そこからずっと国が生き残ることを第一に考える時代に生きた世代なわけですから、思想に染まっているようで染まっていない冷静な部分があるのは当然かもしれません。


次回が最終回です!
くまモン