今、日本では
格差社会が大きな社会問題として議論されている。
次回の選挙においても、
格差社会は間違いなく最大の論点のひとつになるだろう。
私自身、格差社会に対する意見を考える機会がどんどん増えてきている。
そこで今回は
“格差”というものに対して私の意見をまとめてみたいと思う。
まず、格差は悪なのか?
あってはいけないものなのだろうか?
私は、格差は永遠になくならないし、
人間にとって必要なものだと考えている。
たとえば、
人間には生まれながらにして格差がある。
頭がいい人と悪い人。
走るのが速い人と遅い人。
背が高い人と低い人。
裕福な家庭に生まれた人と貧乏な人。
素敵な両親に恵まれた人とそうでない人。
数え上げればきりがない。
私は、これら生まれつきの格差が、
すべて正しく必要なものだとは思っていない。
だが、“人間同士の差”は私たちには必要なのだ。
たとえば
私は劣等感の塊のような人間で、
子供の頃は自分以外の人間がすべて優秀に見えた。
だが、自分よりも優秀な人や恵まれた人がいるということは、
頑張ろうというエネルギーの源泉になる。
“ちきしょー”とか“うらやましい”という気持ちをエネルギーに変えて、
私は、これまで生きてきた。
反対に自分よりもできない人、自分よりも恵まれない人を見て、
満足や幸福を感じるのも事実である。
考えてみれば、
頭が良いだの、
走るのが速いだの、
年収が多いだのというのは
比べる対象があって、
はじめて成り立つ論理である。
悲しいかな人間は、格差なしには生きられないのだ。
しかし、だからといって私は、
すべての格差を肯定しているわけではない。
肯定できない格差は、二つある。
“不当な格差”と“行き過ぎた格差”である。
まず、
不当な格差については誰も異論はないと思うが、
問題は、何をもって不当とするのかということだ。
たとえば
生まれながらの貧富の差はどうか?
自分の子供に財産を残すために懸命に働いたのだから、
親の側から見たら不当とはいえない。
だが、貧乏な子供に何の責任もないのも事実だ。
ある一定以上の財産に対しては、
もっと相続税を高くし、
生まれつき貧乏な子供に再分配してもいいんじゃないかと、私は思う。
企業の相続にしても、
社長の息子であるという理由だけでの相続や、
専務であるというだけで、他の社員よりも給料が高いのは、明らかに不当である。
一方、行き過ぎた格差についてはどうか?
これは恐らく日本特有の感覚だと思うが、
私も行き過ぎた格差には違和感がある。
ヒルズ族に代表される億万長者が、
いつまでも支持されるとは考えられない。
社長と社員の給料の差、
創業者と従業員との株式公開に伴う利益の差。
これはひどすぎる。
特に、社員数が多く、
社員の人数に売上げが比例する企業。
その中でも
社長がオーナーで権限を一手に握っている会社。
このような会社の大半は、
社長の収入が社員平均の百倍以上、
個人資産にいたっては、数百倍、数千倍というのも珍しくない。
様々なリスクを背負ってゼロから会社を立ち上げた創業者は、
尊敬に値する。
だが、
最初に会社を始めたということがすべてではない。
創業者利益は、いくらあればいいのだろうか?













