『「一人旅」-自分を信じて-』
新幹線の車窓から次々と過ぎ去る景色を、ただぼんやりと目で追いながら、僕の頭の中は初めての景色すら楽しむ余裕などないほど、ある思いで満たされていた。
物心ついた時には既にサッカーボールを蹴り始めていた僕は、三歳の時から地元のサッカークラブに所属し、小学校・中学校でもまさに寝る間を惜しんでボールを蹴り続けてきた、いわゆる『サッカー少年』いや『サッカー狂(と家族は呼ぶ)』なのだ。
その僕が今、大きな壁にぶつかった。
僕が所属していたチームは全国でも屈指のクラブチームで、小学校五年生の時、セレクションに合格し、プロのサッカー選手を目指すため、僕は母と二人だけで家族を東北地方に残したまま上京した。
自分の夢に向かって、大好きなサッカーが思う存分にできる。毎日が本当に幸せだった。
そしてこれからも、順調にこのサッカー生活は続くはずだった。
ところが、一年位前から「何かが違う。」と思い始めるようになった。個人競技と違ってチームワームを何よりも大切にするサッカー。
「本当の敵は相手チームではなく、味方の中にいる。味方が怪我をしても可哀想だなどと思うな。ライバルがいない間にのし上がってやるぞと思え。」
と、監督に教えられた。
「試合中に相手と接触し共に倒れたら、一秒でも先に自分が立ち上がり、その時、敵の腹をスパイクで思いっ切り踏んづけてやれ。」
と、指示された。
審判の見えない所で、如何に汚い手を使うか、そしてチームメイトの足を如何に引っ張り合うかが、プロに近づく一歩で、それができないようなヤツは、サッカーをやる資格がないというのだ。
また、僕はまだ中学生なので、勉強も学校行事もとても大切に考えている。一生懸命勉強し、サッカーの作戦やプレーの中で、それを活かせるように頑張りたいと思っている。
しかし、
「サッカーっていうのは、他に何もできないヤツがやるスポーツだ。」
「頭を使って組織プレーをしたいなどという考えは捨てろ。所詮、文武両道などという考えは成り立たない。」
と言うのだ。
僕は確かにプロのサッカー選手を目指している。だから、監督の言っていることが全く理解できないわけではない。
一理あるとは思う。
でもサッカー選手である前に、スポーツマンとして、どの考えにもどうしても疑問を抱いてしまう。
僕は今まで、チームワークを大切にし、イレブンの心を一つにしてゴールを狙うようなサッカーをいつも理想としてきた。
そうしてつかんだ勝利が最も価値のあるものだと思うから…。
また、勉強を頑張れる人間はスポーツも頑張れるし、あらゆることに力を注げるものだと信じてきた。
だから練習でどんなに疲れていても、どんなに夜遅くなっても、机に向かうことを怠けたことは一度もなかった。
しかし、その考えの全てが否定されてしまった。
いや、考えだけでなくサッカー観までも、チームには不向きな人間として、僕は烙印を押されてしまったのだ。
しかも、一番信頼し、尊敬してきた指導者に…。
僕は自信を失った。
目指すサッカーができなくなり、コートの中でもどのようにプレーをしていけばよいのか迷い、身体がボールに反応しなくなっていった。これから何を信じ、誰の指示に従っていけばよいのか。
一時は、
「サッカーさえしなければ、こんなに悩むことはないんだ。いっそのことサッカーなど辞めてしまおうか。」
とまで考えた。
ところが、ふと気が付くと、僕は校庭で夢中になってボールを蹴っていた。
辺りが暗くなりゴールが見えなくなっても、無心にボールを蹴り続けていた。
頭の中では無理矢理サッカーを忘れようとさえしていたのに、身体はそして足は、決してサッカーを忘れることができなかったのだ。
だって、十二年間、一日も休まずボールを蹴り続けてきたのだから…。
そんな時、僕は偶然興味深いことを耳にした。
北陸のある高校に、サッカーが死ぬ程好きで研究に研究を重ね、その成果を学生に伝授しながら指導に当たっている熱血先生の存在を知った。
僕は、居ても立ってもいられなくなり、インターネットでその先生の所在を調べ、ついにコンタクトを取ることに成功した。
今、自分がサッカーで大きな壁にぶつかっていること、そして、自分の考えを是非聞いてアドバイスをして欲しいことをメールで伝えた。
僕の必死の願いが通じ、数日後、その先生からメールで返事が届いた。
『君の住んでいる千葉県から北陸は遠いので、次の土曜日、静岡に遠征試合に行く予定だから、新富士駅で九時に待っているように。』
と。
自分でも思い切ったことをしたものだと思う。
顔も見たことのない、声も聞いたことのない人に会いに行くのだから…。
それだけ、本当に切羽詰まった心境だったのだ。
自宅から静岡まではほんの四時間あまりだが、初めての土地、初めての新幹線、そして初めての一人旅の僕にとって、それは長くて遠い旅だった。
行く道々、十分おき位に、心の中では不安と期待が交錯する。
玄関で見送ってくれた母の心配そうな顔が目に浮かぶ。
そんな訳で、新幹線からの眺めを楽しむゆとりすら、その時の僕には全くなかったのだ。
ふと僕の視界に、富士山が現れた。二年前登頂を試み、山頂から眺めた美しい御来光に、
「今登ってきた道のようにどんなに険しくても、僕は必ずプロサッカー選手になります。」
と誓ったことを思い出した。
急に元気が出た。
新富士駅に、約束通り到着。
しかし、待てど暮らせど先生は現れない。
また大きな不安が頭をもたげてきた。
約一時間後、ようやく通じたメールに、僕は愕然とした。
午前九時だと思っていた約束の時間が、何と実は午後九時だったのだ。
それまでの僕だったら、見知らぬ土地で知る人もなく、十二時間もどうやって時間を費やしたらよいかわからず、おそらくパニック状態になり、そのまま家に帰ってしまったかもしれない。
しかし、その時の僕には、富士山頂を目指して登る坂はあっても、麓に戻る道はなかった。
不思議なくらい冷静な自分に驚いた。
そうだ、先生はこの静岡出身のはず。
確かお寿司屋の息子だと聞いた。
僕はタクシーに飛び乗り、ついに先生の実家のお寿司屋を探し当てた。
突然の予期せぬ訪問者に、迷惑だとは知りながら、ここしか頼る所がなかったことを店で詫びた。
“大将”と呼ばれているそこの主人(先生のお父さん)は、
「遠い千葉県から、わざわざ中学生が自分の息子を頼って来てくれた。」
と歓迎し、お寿司をお腹一杯ご馳走してもてなしてくれた。
涙が出るほど嬉しかった。
人の親切をこれほどありがたく感じたことが、今までにあっただろうか。
「夜までゆっくりしているといいよ。」
と言ってくれたが、僕は、
「ご馳走になった分、働かせて下さい。」
と頼んでみた。
ちょうど昼どきで店は超満員、大したことはできないが、お茶やお寿司を運んだり、片付けたり、猫の手くらいは役に立てただろうか。
するとそこに、偶然お寿司を食べに来たのが、何とJリーガーを何人も育てたことのある偉大なサッカーの監督だった。
何とその監督が、大将から僕の話を聞き、是非相談に乗りたいと言ってくれたのだ。
緊張のあまりつかえつかえ話す僕の悩みを、じっくりと頷きながら聞いてくれた。
そして、
「せっかく遠くから来たんだし、ちょうど時間もたっぷりあるようだから、私の教えるチームを大至急招集して、君のために今から練習会を開こう。」
と言ってくれた。
夢のようだった。
有名サッカー選手を何人も送り出しているこの静岡の地で、こんな僕一人のために、わざわざ練習会を開いてくれるなんて…。
初めての土地で、初めて出会った人々に、こんなに親切にしてもらい、やはり世の中には温かい優しい人達がたくさんいることを改めて痛感した。
そして、思い切って一人旅を決心して本当に良かったと、つくづく感じた。
高校生の先輩達との練習会は、大変実りのあるものとなった。
今までに学びたかった技の数々、組織的なチームプレー、そして何よりも同じスポーツを志す者同士が、お互いを励まし合い高め合う友情と、僕自身に対する温かい好意に大きな感動を覚えた。
夜、その監督と北陸から到着したばかりの先生の三人で、銭湯の大きな湯船に浸かりながら、のぼせてしまうほど真剣にサッカー談義に花を咲かせた。
僕は今まで心の中につかえていた疑問やわだかまりを全部、無我夢中になって吐き出した。
先生は、
「君のサッカー観は、決して間違っていないよ。自信を持って自分のサッカーを貫いていくといいよ。そして、勉強も今まで通り頑張るんだぞ。」
と優しく微笑んでくれた。
監督も、
「今日の練習会で年上の高校生達に混ざっても、決して引けを取っていなかった。今の時期は、サッカーが楽しくて楽しくて仕方がない、それだけでいいんだよ。自分の技をどんどん磨いて、これからもサッカーが大好きな君でいて欲しいな。」
と励ましてくれた。
そして、
「千葉に帰ったら、君のことを心底理解し、サッカー観の合う尊敬できる指導者を見つけるんだよ。次は大会で会おう。」
と、二人で勇気付けてくれた。僕は湯船に顔を沈め、顔を洗うふりをして、涙を拭った。
「よかった、僕の考えは間違っていなかったんだ。」
次の日、帰りの新幹線から眺めた富士山は、また一段と美しく、一回りも二回りも大きく感じられた。
窓ガラスに映った僕の表情も、往きとは打って変わって、まるで富士山の頂上で深呼吸しているかのように、とてもすがすがしかった。
『自信を持て。』今までに何度この言葉を言われてきただろう。
『自信』とは、何となく自分を傲っているような、高ぶっているような、あまり好きな言葉ではなかった。
しかし、自信は『自らを信じる』と書く。
そうだ、自分を信じ、自分のサッカーを信じて、目標に向かい真っ直ぐに進んでいこう。
もう迷わない、もう悩まない。
感動的で貴重な一人旅を経験し、僕はその後、素晴らしい監督と新チームに巡り会うことができた。そして、今日も楽しくボールを蹴る。希望という名のゴールに向かって!
受賞年月:H16年12月 (千葉県柏市立第二中学校三年)
主催:読売新聞社
コンクール名:第54回全国小中学校作文コンクール・中央審査会
賞:読売新聞社賞
備考:全国2位
* 文中で、当時遊学館高校のサッカー部として静岡遠征に来た中立さん。それから17年後に中立さんが新婚旅行でバルセロナを訪れた際に、奇跡的に僕と再会を果たす。今は金沢駅前で" 串カツ つなぎ " を経営している。僕も年に数回お邪魔させていただいている。
『オーイ、じいちゃん』
山形大学附属小学校 二年 いまむらたくみ
(※1997年に書かれた作文)
うれしいことがあったとき、かなしいことがあったとき、ぼくは、よく空を見上げて、「オーイ、じいちゃん。」と、よびかけます。
じいちゃんは、とおい空の上から、いつもぼくを見ています。
だからぼくがうれしいときは、きっとにこにこして、ぼくがかなしいときは、たぶんいっしょにないてくれているかもしれません。
ぼくが生まれてすぐ、じいちゃんは天国へ行ってしまいました。
じいちゃんはスポーツマンで、はしるのがとくいで、オリンピックせんしゅのこうほにもなったそうです。
だから、まだ五十六さいだったのに、天国へぜんそく力ではしって行ってしまったのかな、とおもいます。
ぼくもはしることが大すきです。
ぼくの学校では今、かい校きねんリレー大会のれんしゅうをしています。
スタートのいちにつくと、ちょっとむねがドキドキします。
だけど、そんなとき、ぼくには力づよいみかたがついています。じいちゃんです。
ぼくは空を見て、小さいこえで、「オーイ、じいちゃん、がんばるよ。」と言います。
そうすると、体じゅうがホカホカになって、ふしぎな力がでてくるのです。
きっと、じいちゃんは、空の上から見ているだけじゃものたりなくて、ぼくの体の中で、いっしょにはしってくれているのかもしれません。
ぼくがじめんをけると、じいちゃんもけります。
ぼくがうでをふると、じいちゃんもふります。
ぼくがあせをかくと、じいちゃんもいっしょにあせをふきます。
ぼくががんばれば、じいちゃんはうんとよろこんでくれるでしょう。
だから、ぼくは、まい日いっしょうけんめいにはしっています。
ぼくのすんでいる山形で、もうすぐ『ねんりんピック』というおとしよりのオリンピックがひらかれるそうです。
もし、ぼくのじいちゃんも生きていたら、きっと出じょうして、ぼくのために金メダルをとってくれたかもしれません。
とてもざんねんです。
でも、ぼくは、空にむかって、「オーイ、じいちゃん、ねんりんピックに、じいちゃんも出じょうしてよ。」とたのんでみたので、もしかしたら、じいちゃん、ほかの人には見えなくても、ぼくだけにはわかるすがたで、大かつやくしてくれるかもしれません。
ぼくは大きくなったら、サッカーせんしゅか、りく上せんしゅか、水えいせんしゅになりたいとおもっています。
でも、れんしゅうはすごくたいへんです。
ぼくは、れんしゅうがつらくて、なん回もなきました。
でも「ぼくには、じいちゃんがついているぞ。」と、はをくいしばってがんばっています。
かおもおぼえていないじいちゃんだけど、いつもぼくの心と体の中には、じいちゃんが生きています。
これからも、ずっとずっと、「オーイ、じいちゃん。」とよびかけながら、ぼくは生きていくつもりです。
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受賞年月:平成9年9月 (山形大学教育学部附属小学校二年)
主催:厚生省
コンクール名:第10回ねんりんピック小学生作文コンクール
賞:厚生大臣賞(小泉純一郎厚生大臣)、山形市長褒賞
備考:全国1位
「大切なもの、大切な人」–『大切な二人の笑顔』–
流経大柏高校 2年 今村匠実
(※平成18年に書かれた物)
祖母の顔から明るい微笑みが消えた。どこか遠い目をし眉間に皺を寄せ、魂が抜けてしまったような顔が、いつもそこにある。
私の幼い頃、仕事を持っていた母に代わり、優しい笑顔で幼稚園バスを見送ってくれた祖母、そっと木陰に隠れ、園庭で遊ぶ私の姿を心配そうに見つめてくれていた祖母。私は祖母が大好きだった。「年寄りっこは三文の損」と言われても、広く温かい胸に顔を埋め、皺くちゃな手で抱きしめられる幸せなひと時は、何物にも代え難い貴重なものだった。祖母の腕の中は、まさに私の安らぎの場所だった。
そんな祖母が三年前、突然壊れた。おもちゃなら、直す手段も買い換える方法もある。しかし、祖母に刻まれた傷は、修復不可能な程、深く激しく…。祖母に下された残酷な診断結果は『認知症(当時は痴呆症)』という中学生の私には、聞きなれない理解しがたい病名だった。そして家族にとっては、これから押し寄せる想像を絶する、苦しみ・怒り・悲しみ・絶望の幕開けとなったのだ。
「ここに置いといたパン知らない?」
「あれっ、今日学校に持っていく体操着が無くなってるぞ。」
我が家の朝は、こうして毎日『宝探し』からスタートする。ものが紛失し皆で必死に探す行為を、私の家族はいつからか『宝探し』と呼ぶようになっていた。もちろん原因は誰しもが暗黙の了解で、唯一宝探しには参加せず、他人事のようにすまして家族の混乱を見つめている〈あの人〉の仕業なのだ。物をどこかに隠した張本人だけが、『物忘れ』という武器を最大限に利用して、朝の慌ただしいパニックとは別世界で、悠々とお茶をすすっている。そんな姿を見ると、怒りを通り越して羨ましくさえ思えてしまう。
「あら〜っ!おばあちゃん、どこ行っちゃったのかしら?」
と、今度は玄関の方から母の悲鳴が…。たった今、そこに居たはずの祖母が、勝手に家を飛び出してしまったようだ。
「宝探しの次は、人捜しかよ。」
私は呆れ返りながらも、文句を言っている時間などはなく、大至急みんなで手分けして、祖母の行きそうな場所を捜し回らなければならないのだ。
祖母の奇行は、日に日に見えてエスカレートしていった。身体は至って丈夫なので体力もあり、食欲も旺盛だ。朝は五時前に起き出し、一人電気も付けずにテーブルでパンをかじる。次に起きた母と一緒に再び朝食をとり、最後に私と共に又朝食、といった具合に、食べたことを記憶できない祖母にとっては、毎回が楽しい朝食の時間なのだ。
「あばあちゃん、さっき食べたでしょ。」
などとたしなめるような言葉は禁句。
「年寄りだと思ってバカにして。」
などと、ひがみ暴言を吐き、ついには泣きわめいてでも自分の主張を通そうとする。
また無類の買い物好きの祖母は、家族の目を盗んでは、近所のスーパーから毎日同じ品物を買い込んでくる。しかも一日数回の脱走を試みるので、我が家の冷蔵庫は、いつも二十個以上ものヨーグルトやら、何パックもの卵やら、何十個ものコロッケで、溢れかえっている。
ある時、風呂場でザーザーと水の流れる音がしたので行ってみると、私が小遣いを貯めてやっと購入したばかりの本革サッカースパイクを、祖母がザブンと水に浸して洗っているのだ。水に浸けてしまった革は、堅くなって使い物にならない。さすがに私の怒りも頂点に達し、
「もう、いい加減にしてくれよ。今後一切俺のことはかまわないでくれ。」
と、思い切り祖母を怒鳴ってしまった。その時の、祖母の哀しそうな目は、今でも忘れることはできない。病気のせいで頭の一部の細胞が壊れてしまっても、祖母はまだまだ豊かな感情を持っている。それを私は踏みにじり、傷つけてしまったのだ。その時の自己嫌悪は、しばらくの間、私を苦しめた。
そんな生活が何年か続いたある日、母の顔からも笑顔が消えた。他に兄弟もなく、たった一人で毎日祖母の世話をし、徘徊が始まってからは二十四時間体勢で祖母の介護にあたっていた母に、最近疲労の色が濃く見え始めた。母の言うことに全く耳を貸さず、自分の感情だけに任せて行動する祖母に、
「我が家にもう一人、反抗期の子供が生まれたって思えば、何て事ないわよね。」
と、自分自身に言い聞かせるように気丈に振る舞う母を見るのも、辛かった。単身赴任の父に代わり、一家の大黒柱となって家族を支え、祖母の娘として介護者として、私の父として母として、全てが母一人の上にのし掛かっていることは、紛れも無い事実だった。私にとっては、祖母と同様、母も最も大切な一人、その母がダウン寸前であることは、今や目に見えて明らかなことだった。
私は自分が高校生であることがじれったかった。勉強と部活で精一杯の私には、母の手助けをする時間が制限されてしまう。
「匠実が勉強もサッカーも一生懸命やってくれることが、私の唯一の支えだよ。」
と私に気遣ってくれる母の言葉を信じ、時間の許す限り、母の愚痴を聞いたり、家事を手伝ったり、せめて精神的な支えとなれるよう心掛けた。
母の精神力が限界に達していることを知ったのは、些細な事からだった。いつものように巧みな技で脱走を試みた祖母が、数回に分けて、ケーキを計二十個余りも買ってきた。
「たった三人の家族で、こんなにケーキを買ってきて、一体どうするつもりなのよ。」
いつもは冷静な母が、珍しく感情を表した。ケーキ云々よりも、毎日溜まったストレスを吐き出すかのように…。
そして、
「ああ、私もおばあちゃんと一緒に、この世からいなくなってしまいたい。」
と呟やいた。私にとっては、かけがえのない二人、その二人が突然私の目の前から消えてしまったら…、それは筆舌に尽くし難い程、恐ろしいことだった。決してあってはならないことだ。母の何気ない一言は、私の胸に深く突き刺さった。
その時だった。祖母がぼそっと囁いた。
「今日はママの誕生日だったよね。」
母と私は一瞬顔を見合わせ、次の瞬間、母の目からは大粒の涙が溢れた。
「おばあちゃん、私の誕生日覚えててくれたの?」
そう、テーブルに所狭しと並べられたケーキは、母のバースデー用ケーキだったのだ。慌ただしい日々の中、母も私もすっかり忘れていた母の誕生日を、祖母だけが覚えていたのだ。母があれほど多く流した涙を、私は今まで見たことがなかった。私も泣いた。祖母は壊れてなんかいなかった。優しさも思いやりも、まだまだたくさん心の箱の中にしまってあったのだ。
「おばあちゃん、ありがとう。」
母が笑った。祖母も照れ臭そうに笑った。その日、久々に、家族みんなに笑顔が戻った。
思えば、大量の買い物も、家族に食べさせたい一心で祖母の思いやりからした事、スパイクの水洗いも、私にきれいな靴でサッカーをさせてやりたいという祖母の優しい孫思いの気持ちからした行為、そんな祖母の溢れんばかりの家族への愛情を、素直に受け止めてあげられなかったことを悔いた。きっと祖母は、薄れゆく記憶の中で、毎日がどれだけ不安で、心細かったことだろう。私達家族から投げ掛けられる温かい言葉だけを頼りに、何とかみんなの役に立ちたいと、暗闇の中でもがき苦しんでいたに違いない。
誰でも好きで老いて行く訳ではない。私のこれからの使命は、この二人の大切な人達へ「いつまでも笑顔の絶えない人生」をプレゼントする事だと、強く心に誓った。
<完>
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受賞年月:平成19年3月(千葉県柏市・私立流通経済大学付属柏高等学校二年)
主催:産経新聞社
コンクール名:第39回産経スカラシップ 「高校生文化大賞」
賞:文部科学省大臣奨励賞 全国高等学校長協会賞
備考:全国1位
金沢駅前にある『串カツつなぎ』で、料理の修行をしてきた。
スペインに日本食レストランオープンを計画しているため、実際のお店にインターンさせてもらった。
子どもたちの指導をしていない時間は、こっちの活動に時間をあてた。
今の情勢、コロナやインフレ、円安の関係でちょっと事業は保留になっていたが、さて、そろそろ注力して進めていくかといった感じ。
僕自身、飲食なんて全くの無縁で、本当にゼロからのスタート。
六本木クラスの竹内涼真みたいに成功を掴めるか、頑張らないと。
『串カツつなぎ』の店主中立知宏さんは、僕が中学2年生の時にサッカーで偶然知り合った。
青山剛先生率いる遊学館高校の静岡遠征に飛び入り参加させてもらった僕は、たまたま同じ部屋だった当時高校2年生の中立さんにお世話になり、その後17年の時を経て、彼が新婚旅行でバルセロナを訪れた際に、奇跡的に再会を果たした。
金沢にはスペイン料理アロスというレストランがあり、日本でバスクの味を最も忠実に再現した店だ。店主の石浦さんは日西合わせても3本の指に入る愛されキャラで、作り出す店内の雰囲気が楽しくて訪れる人が後を絶たない。
乾貴士選手の料理人を務めた知る人ぞ知る世界の前田 哲郎さんのお墨付きでもあり、てつさんともよく金沢の話をする。
サッカーを通じてできたご縁が、生活の至る所に作用し、より豊かな瞬間を過ごせるという。なんと素晴らしく、ありがたいことか。