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経営学のアナログ化、時代のデジタル化というパラドックを迎えるにさしあたり、これまでの経営学の流れとは違ったものの見方が必要となってきているのではなかろうか、そして、これを音楽業界に適応させるとどのようになるのかを考えてみるという試みを行っております。

 

音楽業界といっても幅は広いのですが、ここで私が取り扱おうとするのは音楽事務所の経営戦略ではなく、各アーティストのことであります。というのも、音楽業界へ入ってゆくまでに各アーティストは、最初はどこにも所属せず、単体で行動するからであります。この時の行動が業界関係者の目に留まり、そこから大きく成長してゆくという流れは今後も変わらないかと思われますので、単体のアーティストがこの時代の波に乗ってゆくための方法を考えてゆこうとするものであります。

 

ここからが少し難しくなるのですが、これはなぜかというと、アーティストはアーティストという言葉からしてお分かりだと思いますが、どの方面であれ芸術の分野に属する活動となります。では芸術とはなにかというと、これは別のブログで議論を展開しておりますが、意識と無意識との相互作用でありまして、つまり、心の全体を使用することによりクリエイティブな活動を行う人々のことを指し、そのような人々をさらに成長させる場所として音楽業界が存在すると仮定すると、音楽業界はとんでもなくアナログな人々が集積する場所で、さらに、とんでもなくクリエイティブな場所と表現することが可能となるかと思われます。

 

前稿において、シンガー&ソングライターの例を使い、経営学的な診断を行ったところ、全てを自分で行うという行動を知っていただいたかと思います。これは、デジタル社会となり全てのことを個人で行いやすくなったからであると解釈することもできますが、ツールは揃っているとしても、実際にそのような行動に出るという「発想」についての問題は解決されておりません。これはつまり、たとえ思いついたとしてもなかなか行動に移すことはないであろうことを上述のアーティストは行うわけでありまして、ここに現代の経営学の限界を知るに至るのであります。

 

今は流通の方法はそれこそデジタルな方向へ向かっておりますが、レコード時代のアマチュア・ミュージシャンを思い出しますと、レコードそのものをプレスすることはさすがに設備の問題があるので不可能ですが、それ以外のことは自分たちで行い、自分たちで販売するということをやっておりました。このような事実からすると、ミュージシャンはその性質として基本的にアナログであり、全てのことを自分たちでやりぬこうとする傾向にあり、なぜそうなるのかを考える時に、作品を作るときの心の働き、つまり、意識と無意識の相互作用、心の全体を使うことにより仕事を成し遂げてゆくことが、事業の方法にも影響しているのではなかろうかと私は考えております。これが結局のところ近代経営学の目を使用すると「規格外」となり、そうなるとミュージシャンを含め、芸術家の方々はかなりハードな仕事を行っていると見ることができます。

 

こうなってくると皆様方もお気づきだと思いますが、経営理論のアナログ化が進む中、芸術家の活動はもともとアナログでありますので、流通面でのデジタル化に対応させるだけで事足りるのではなかろうかという仮説が設定可能となります。かなりの楽観論と感じられるかもしれませんが、逆に、芸術家に見る新しい経営理論の設定が必要となり、これまで規格外であった芸術家の行動を規格内に収めてゆく必要もでてきます。

 

これまでは単体の芸術家に焦点を当てた経営学理論なるものはないわけではありませんが、上述したように、近代経営学の目からすると規格外のことが多く、また、研究者が芸術について興味がないことも多く、それゆえに専門的な研究が行われることは非常に少なかったのですが、時代が変わろうしている現在において、芸術家の行動から見る経営学を理論化することにより、新たな知識を蓄えてゆくことができるのではなかろうかと私は考えております。

 

これを単なる芸術経営論として終わらせるのではなく、近代経営学理論の中へ組み込まれることになれば幸いでありますし、それを目指して今後も研究を続けてゆく所存です。

 

今回はここで筆をおき、次稿へ引き継ぐことにします。ご高覧、ありがとうございました。

それにしても大変な時代に入ってきておりますが、学問としての経営学もやはりこの時代に合わせて変えてゆかなければならないのではなかろうか?というのがこの連載の論旨であります。

 

そうはいうものの、実際には難しく、デジタルであったものをアナログへ戻すとなると相当なエネルギーの消費となり、時間の無駄とも思えてきますが、ここを何とかしてゆかないと日本経済も大変な状況となるでしょうし、私一人が頑張ったところでどうにもならないことは重々に理解しておりますが、話は進めようと思います。

 

とりわけ音楽業界のことを経営学的に考えると、この先はどうなるかを考えてゆかなければならないのですが、経営戦略論的に考えると、やはりアンソフの戦略マトリクスを参考に考えてみるのが基本であるかと思われますが、しかし、あれは音楽事務所としてどのような方向性で進むと考えるには適応可能ですが、各種のアーティストに焦点をあてると、使えないのではないでしょうか?という単純な疑問が浮上します。例えば、シンガー&ソングライターの多くは一人で作詞・作曲、演奏、歌唱、レコーディング、音源の販売まで行います。そうすると、いきなり垂直統合戦略を実践していることになり、学説が見事に崩れるのであります。そしてそれは意思決定の問題であるとなると、問題は相当な規模へと拡大することになります。

 

そこで、バリューチェーンという構造を基礎にしながら差別化戦略を考えたポーターの経営戦略論からの視座では、上述のシンガー&ソングライターを例にすると、この人物自身がすでにバリューチェーンの川上から川下までの全てを表現しておりますので、結果として「捉えきれない」という、とんでもない状況となってしまいます。

 

そう考えると、芸術家はやはりいろんな意味で規格外であることが多いのではなかろうか、そしてその規格外の人を一般の人が見て、その人物を投影することにより、それこそ「元気をもらう」という現象が起こっているのではなかろうかと思うのであります。こうなると、やはり独自の経営学理論が必要となるのではなかろうかとするのが今回の狙いであります。

 

音楽業界のことで話を進めておりますので、音楽をやっているアーティストのことで話をしますと、先ほどの垂直統合戦略について、一般的なメーカーを例にしますと、上場企業で、なおかつ売上高(連結決算を含む)で一兆円以上の企業にてようやく実現するような戦略であります。それが、これから音楽業界にて活動してゆこうとする無名のアーティストが実践しているわけですから、これをどのように見てゆくかという根本的な問題があります。

 

そもそも一兆円企業と無名アーティストとを比較するなという意見もあるでしょうけど、経営戦略論的に評価すると、一兆円企業も無名アーティストもやっている行動は結果として同じであり、事業の規模に非常に大きな差はあるものの、そのひらめきと行動力については一兆円企業の経営者と同じくらいの可能があるのではなかろうかと評価するのが妥当であると思っております。ただし、彼らには経営に対する知識と経験の不足により、その「ひらめき」を十分に活用できていないと考えますと、一貫性が出てくるのではないでしょうか。

 

さて、では一兆円企業の経営者と音楽業界の無名アーティストとはどこに差があるのかを突き止めることができれば、有名アーティストへの第一歩をお手伝いできるかもしれません。私の直感では、無名アーティストの戦略は間違っていなくても、そのプロセスに問題があり、ここに一兆円企業の経営者との差が出てくるのではなかろうかと思っております。但し、その直観力や行動力、非常に若いながらも多くの経験を積んだ一般企業の経営者たちと対等に立ち向かってゆくだけの発想力を見逃すわけにはいかず、これらをミックスさせると若くして一兆円企業(メーカーや商社など)を実現させる方法へのヒントになるかもわかりません。

 

次稿からはこれらに力点を置き、話を進めようと思います。

 

次回は9月5日に更新予定です。ご高覧、ありがとうございました。

歴史といっても様々な分野で個別化される現代において、学問の歴史においては文化と統合を繰り返されており、とりわけ経営学の分野においてもそのような傾向にあり、これからの新しい経営学とは何かとなったとき、異分野の学問の力を借りながら経営学として新しい道を切り開かねばならない時代がやってきているのではなかろうかとするのがこの連載の論旨であります。

 

私の場合は心理学を援用しながら研究を続けて25年が経過し、これがさらにこの新しい時代に通用するのかが試されるという、第2の試験期間がやってきているわけであります。通常ならありえないことが起こっているわけでありまして、学界もこれから徐々に荒れてくるのだろうなあと思うと、少し切ない思いになるのであります。

 

この方法を使って音楽についての新しい見解を示してほしいとの声を多くいただいておりまして、ただし、その前に心理学を援用した経営学とは何かについて知っていただく必要があります。これについては経営戦略をユング心理学的に解釈するとどうなるかについて、例えば、差別化戦略とは心理学では個性化についてのことであると、ずいぶん前の論文にてすでに述べておりますので、私の過去の論文を参照していただき、重複するので本稿では詳細は省略します。

 

しかしながら、その核心部分を少しだけ述べますと、つまり、個別化した学問をつなぎ合わせる作業は、木に竹を接ぐような不自然さを残さず行うところがポイントであります。戦略とは何かという問いに対し、経営学会では「意思決定」と結論付けておりますが、では、その意思はどこから、どのようにして意思として表出するのかについて考えてゆかねばならず、この点についてを解決しようとしたのが私の問題意識であったことを今では懐かしく思うのであります。

 

ここで音楽業界がどのように前進しているかと申しますと、これは既にテレビやインターネットなどで目にするアーティストを見れば一目瞭然でありまりますから、私から申し上げることは少ないかと思いますが、やはり欧米諸国を含め、我が国ではロックがあまり流行しない流れとなってきている現状からすると、心に大きくあいた穴をふさぐための音楽ではなく、心の状態を微調整するための音楽に役割が変わってきているような感じがします。ロックの世界ではまず、心による大洪水を防ぐための大きなふたを大量生産すれば事足りるので、それゆえにあの時代は儲かったということもいえます。

 

これに対し、現在は人間の個別具体的な、それも心のバランスを微調整するためのツールとしての音楽となると、ジャンルは様々、見た目も様々、その他、考えられることは何でもやってみるという、結局はやはりアナログ化してきていると見ることができます。音楽の世界もオールインワンの時代がやってきており、さて、そうなると今後にどのようにして音楽をやっていくのかについて、アーティストとしてはここが一番気になるところであるかと思います。

 

それは簡単なことでありまして、まずは多くのジャンルの音楽を経験し、その中で自分の専門を決め、それが例えばロックであればロックを中心に音楽活動をし、適材適所で過去に経験した音楽を披露してゆくという方法です。例えば、ロックをやりながらも、ブルースを専門とする場所で演奏もできるようにしておけば、ロック、ブルース、さらにはブルースロックという3つのジャンルで対応が可能となります。ただし、専門はあくまでもロックでありますので、ロックミュージシャンとして個性化しておく必要があります。ここがポイントであります。

 

音楽を世間に知らしめるための媒体はこれとは逆にデジタル化しておりまして、徐々にではありますが、聴き手が聴きたい曲しか聞かない流れとなってきております。これもよく考えると、一人当たりの購入金額が減るのかもしれませんが、聴きたい人をたくさん作れば客層を広げることが可能となります。よって媒体のデジタル時代においてはやはりミュージシャンの個性化が非常に重要であるように思われます。聞きたい人は買う時代ですから、聴きたくなる音楽を作ることができるアーティストになればそれでよいのであります。つまり、音楽のジャンルなどこれからの時代には関係なく、それゆえに演奏できる音楽のジャンルを増やし、さらに自分の専門を作ることにより個性化してゆくことが、遠回りに思えますが、実は近道なのかもしれません。

 

結局のところ、アーティストの個性化の話へ行きつくのでありますが、次稿からはこの話を行ってゆこうと思います。

 

次回の更新は9月1日を予定しております。ご高覧、ありがとうございました。

教育のアナログ化と時代のデジタル化というジレンマの中で、私たちは結局のところどのようにして前進すべきかを考える時、経営学では事業ドメインの定義を行ってゆこうという話になってゆきます。これは実際の現場では経営理念という言葉に変化しますが、内容は全く同じではないですが、ほぼ同じことであります。

 

現在の音楽業界のことを考えてみると、音楽は「聴く」ということから「見る」に変化してきているのではないでしょうか。そう考えると、「見える音楽」とは何かを考えようとしますし、そうなると歌いながら踊るであるとか、歌いながらドラムを叩くというようなことになってくると思いまして、実際に、アイドルグループが一時代を築くという事実からすると、聴くと見るとがワンセットとなり、演者の技術力は過去の芸能の技術から比べ、高度化しているように感じております。つまり、デジタルからアナログへ進むとき、より高度な技術が要求されると私は考えております。

 

教育にしても同じことでありまして、経営学を一生懸命に勉強し、博士の学位を取得したとします。しかしながら、それでは即戦力にならないのでもう一つ理系の学位を取得しなさいとなった時、正直なところ愕然とするのではないでしょうか。個々に高度に専門化された学問をもう一度、それも最初からやっていくことは相当な苦労と時間を要しますし、下手をすると、そもそも学位審査をする主査を見つけることができない可能性もあり、そんなことを考え出すと異分野の研究など、通常は手を出すことはできなくなります。

 

ではなぜ学問は個別に高度化していったのかですが、それは一言に、アナログの限界があったからです。前稿おける音楽教育での総合教育の方法は非常に素晴らしいのでありますが、人間は音楽が好きな人もいれば、国語が好きな人もいます。数字だけを扱いたい人もいれば、音そのものの研究、つまり物理に興味を持つようになる人もいます。もちろん、昔の教育は新渡戸博士のような総合教育を行った後に、自分の専門分野へ進んでいくように設定されておりましたが、如何せん音楽が主体となると、音楽に興味を持たない人には地獄なわけであります。ここが難しいところです。

 

そうするとどうなるかですが、音楽の音の部分は音楽となり、歌詞の部分は国語となり、音符は数学や記号を扱う分野の教科へと別れてゆきます。しかし、これもあまりにも高度化されると今度は統合化される動きを見せ、これが近年の我が国を含め、先進諸国での動向であります。つまり、結局のところ細胞分裂のように分化と統合とを繰り返し、世の中は回っていると解釈すると納得しやすいのではないでしょうか。経営学の分野では古くからコンティンジェンシー理論として語られております。とりわけローレンス&ローシュの理論はすべてが環境依存となることが前提であるため批判は多かったのですが、今のこの時代だからこそ、有効な部分についてはもう一度読み返し、知識として吸収してゆくべきではないかと思われます。

 

前稿にて書くことができなかった歌詞の部分の話でありますが、これは上述の流れからして国語の話であることは容易に理解できるかと思います。歌詞を国語的に理解し、それを音楽の長調や短調との組み合わせでどのように表現として成立しているか?ということを考えてゆくとき、小学生の教育ながらすでに大学レベルの教育が行われていることに驚かざるをえません。ところがこのような教育が限界を迎える時、個別化が進み、高度に専門化してゆき、これがさらに進むと、現在のように逆にアナログ時代が来ているのではなかろうかと思われるのであります。

 

このようなに考えてみると、クリステンセンのイノベーションのジレンマ理論もよく理解できるのではないでしょうか。つまり、ある商品等の品質などが一定領域を超えると、次に市場を席巻するのは品質的には劣りながらも、何かを組み合わせる、ないし、単機能化させるという流れができているという理論であります。

 

ところでそうはいっても時代は進み、言葉が時代とともに変化し、過去に戻らない事例があるように、芸能の世界もこれとよく似た現象と同時に考えてゆかねばなりません。音楽におけるビジネスもこの変化する部分と不変の部分、それをデジタルとアナログとの対比において考えてゆくのがよいかと思われます。例えば、アイドルといっても80年代のアイドルと現在のアイドルとでは異なる部分が多くあります。

 

これらのことを加味し、次回からはもう少し深く考えてゆこうと思います。次回は8月28日に更新予定です。

 

ご高覧、ありがとうございました。

イノベーションという言葉を世界で初めて作った経済学者のシュンペーターは、最初、新結合という仮説を作り出し、その結論としてイノベーションという「概念」を学会に発表するようになります。このイノベーション理論が海外の学会で大きく認知され始めたとき、日本でいち早く動いたのは一橋大学であります。経済学や経営学の分野では東の一橋大学、西の神戸大学が学会をリードしておりますが、このころの教授陣はあれほどに通信の状況が悪い中、海外の、しかも日本でも役立つ理論を学会の立場を利用し、それをうまく広めてゆくその技術と気力に感服するのであります。それこそイノベーションであり、このようなことをできるくらいの立派な教授になりたいという思いはあるものの、実際には非常に困難であることを痛感させられるのであります。

 

このように、何か新しいことを、新しい時代にやっていこうとするとき、シュンペーターのいうところのイノベーションが必要ではないかと思うのであります。音楽だから音楽だけをやっていればよいわけではなく、例えば、音楽と数学を結びつけるとどうなるかを考えたとき、それは現在では学際的研究とみなされ、一つ下の研究の方法となってしまいますが、今こそこのような教育が必要なのではなかろうか、教育でなくても、ビジネスの世界でもこのようなことを意識してゆくことが必要ではなかろうかと思うのであります。

 

さて、物は言いようでありまして、このように書くとさも新しいことを主張しているように思われますが、実はこのようなことは昔の日本ではすでに行われておりまして、実例を紹介しだすときりがないので一つだけ実例をあげてみますと、新渡戸稲造博士はその一例とするべきであるかと思っております。もちろん、異論があることは認めます。

 

新渡戸博士は高等教育の普及に努めた人物として一般的に知られており、『武士道』の著者としても有名であります。実のところ新渡戸博士についてあまり語られていないことに、初等教育についても熱心な人物でありまして、子供の頃にしっかりとした基礎学力をつけさせ、そのしっかりとした土台の中で高等教育へと結びつけることを自らの手で行った人物でありまして、この点についてあまり語られないのが残念な点であります。

 

ところで新渡戸博士が具体的にどのような方法で初等教育を進めていたかというと、それは音楽と体育を充実させた教育であったことです。体育といえば、それは札幌の時計台ですね・・・私は体育の専門家ではありませんので、体育の話はここでは割愛し、音楽の話に集中しようと思います。

 

この当時の音楽のことは、私はこの頃に教育を受けたことがなく、その当時に教育者であったわけでもないので、その意味で皆様方に100%をお伝えすることは不可能でありますが、「だいたい、こんな感じであったろうか??」というイマジネーションが頭に浮かんでくれば、それで成功としましょう。

 

当時、新渡戸博士は音楽を教育の中心とすることにより、現在の小学校の4教科を音楽でまとめて行う、画期的な教育法を行っておりました。もちろん、各教科を個別に指導することはあります。むしろ、その集大成としての音楽がありまして、これは古代中国の教育法を新渡戸博士が独自に応用した教育方法でありました。

 

実のところ、歌詞のついた楽曲を分析すると、音符と歌詞に大別することが可能です。音符は記号でありますから、そこに「たましい」を込めてゆくことになります。この記号が五線譜の上に表現され、それを解読する、つまり、解析能力が問われます。紙面の音楽を実際の音へ変換するには、数学の能力も試されます。つまり、ト音記号に4/4という表記があれば、四分音符を一拍と定め、それが一小節に4つ分という解釈を瞬時に理解できなければなりません。音符の種類もいくつかありまして、右の条件で全音符が出てくれば一小節に記号はひとつ、音は4拍分伸ばします。しかし、必ずや伸ばす必要があるかというと、そうでもなく、ここに「個性」が発生します。

 

このように考えると、では、ト音記号における6/8ではどうなるのかなどを考え出すと、様々なことを理論的に考えることができ、しかも、一度定めると、以降、全てを同じ調子で事を進めることになるので、数学的表現を使用すると、「音楽は関数だ!」といえることになるのではなかろうかと思うのであります。実際、私が中学生のころから大学の1年生までの間、クラシックギターの合奏団に所属しておりましたが、このロボット感になじめず、ロックの世界へ逃げ込んだ過去が現在に至ります。

 

今となって思うことは、例えば、工場のライン作業のビス打ちや食品工場での流れ作業に使用する「コンベア」は、まさにこの流れを表現するものであり、このコンベアの前に立つと人間はロボットか!!と叫びたくなる気持ちが、実は音楽の世界にもありまして、そう考えると、例えばチャップリンの映画の代表作でもある『モダン・タイムス』を音楽理論的に考えるなどの応用が可能となりまして、また、関数の基本的な考え方まで知ることができ、音楽を詳しく見ることにより「変化と不変」という、この対立する考え方まで到達することになり、こうなると非常に素晴らしい!!となってしまうのですが、音楽を挫折した人の多くは、これらの複雑な音楽の構造を理解しづらかったというのが主たる原因だと思われます。

 

さらに突っ込みますと、上述のように、音楽は関数の問題を自分自身で解決し、その実験として自分自身が被験者となるわけでありまして、そうすると、当然に被験者の心の問題に到達し、コンプレックスを強く刺激することになります。例えば、演奏中に感じる「ロボット感」などはまさにそれであり、演奏前の調整はいくらでも可能で、この部分は楽しいのであります(コンベアの速度調整)、その変化の後には「不変」の恐怖がやってまいります(コンベアの一定不変の速度)。

 

新渡戸博士の初等教育の方法は、このように、大きな功績を生み出しました。ところが何事にも弱点がありまして、これはむしろアナログ教育の弱点といいましょうか、アナログ化が過度に進むとデジタル化になるという実際問題を考えてみると、アナログとデジタルの融合ということが、次の社会に必要なのではなかろうかと思います。新規事業を考えるとき、アナログとデジタルの融合とは何か?と考える時がきているのではなかろうかと思うのであります。とりわけ、本稿においては音楽における新規事業を考えてみる場合、思考のアナログ化、そしてその思考の発信のデジタル化という方法であります。例えば、音楽は音楽として楽しむ他に、アーティストの思考を楽しむという付加価値をつけることにより、競合他者(社)を引き離し、デジタル技術により鮮度を保ったまま世間様に伝えることができるようになると、様々なことが回ってくるのではなかろうかと思うのであります。

 

このように考えてみますと、現在の新しい時代の経営学は異分野からの力を借りながらも、経営学として自立するだけの個性を身に着けてゆくことになり、ここに経営学の個性化という考え方が、つまり、新し経営学の息吹を基礎としながら仕上がってゆくのではなかろうかと考えております。

 

今回の新渡戸博士の実例では歌詞について触れることができませんでした。よって、次稿では最初にこの問題を扱い、音楽の新規事業におけるアナログとデジタルの融合についての導入を行ってみようと思います。

 

次回の更新は8月24日に更新予定です。ご高覧、ありがとうございました。