歴史エピソード(第3回:天皇家と源氏~「皇を取って民とし民を皇となさん」は2度起きている!) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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<本記事を引用された場合、その旨を御連絡頂けると有り難いです。>

本日2度目の更新です。


歴史談義の合間に1話完結で書く「歴史エピソード」。8/5「先例主義」http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10610878211.html 以来になります。

※ここでの『エピソード』の語の使い方についてはhttp://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10592719964.html も宜しければ御参照下さい。


(1)崇徳天皇の「徳」の字は生前の「無念」をなだめるため。「崇」の字も同様の意味を持つという説もある。

今回のタイトルは崇徳天皇の呪いのお言葉から。「徳」の字を贈られた皇族は悲運の方だったという事ですが、例えば源平の争乱に巻き込まれて入水自殺をされたのは安「徳」天皇でしたね。

なぜ徳の字なのか・・・これは怨霊信仰と関係しており、その方の無念が「怨霊」となって現世に災厄をもたらさない様にしているという事です。「徳」の字を贈る事によって「徳」を称えるという事で!


さらに逆説の日本史(井沢元彦著)によれば、崇徳の「崇」も同様の意味を持つのではないかと提唱されていました。

確かに桓武天皇が邪魔になった弟を抹殺した後で皇子(後の平城天皇)が発病し、祟りを恐れてその弟(早良親王,さわらしんのう)に贈ったのが「道天皇」でした。

しかしながら、贈られた時代は違うものの実質上の朝廷始祖を反映している「崇神天皇」の例もあり、この方が無念だったとは考えにくいことから多くの支持を得ているとは言えません。ただ、「崇」が少なくともその時点でそういった意味合いで贈られたのならば「崇」と「徳」の重複使用。それだけ怨霊ぶりが凄まじかった事の証左になります。


(2)崇徳天皇の呪いの言葉がその通りになり、長く続いた。それが最大級の怨霊と言われる所以。

崇徳天皇の怨霊に関して特筆するべきなのは、その影響だと思わせる様な事態が後世に至るまで続いている事です。

「皇を取って民とし民を皇となさん」これは崇徳上皇の死後僅か1世代程度で鎌倉幕府が成立し、朝廷から「家来筋であるはずの」幕府へと政権が移行した事を示すと言われます。

そして、明治天皇が崇徳の御霊を京に戻すまでこの事態が続く訳なのです。


(3)「皇を取って民とし民を皇となさん」は2度起こっている。皇室と清和源氏との因縁が作用か。

幕府の主人公が源氏、特に「清和源氏」であった事は説明するまでも無いでしょう。

本ブログの『歴史用語の基礎(第9回:令外官「征夷大将軍」と資格・後編)』http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10608956612.html にもう少し詳しい説明が。

実は幕府政権の樹立は崇徳の呪いの言葉の「2度目」と考えているのです。


その昔、清和天皇の皇子・陽成天皇は不適格だとして元慶8年(884年)に退位させられ、その大叔父が即位しました。これが光孝天皇なのですが、そのために息子に皇位継承権が生じ、紆余曲折があるのですが次は定省親王が即位して宇多天皇になります。

この宇多天皇、一時臣籍降下して「定省(みなもとのさだみ)」、即ち源氏になっていた方なのです!


その一方で清和源氏は「陽成天皇の弟」貞純親王の子孫ですから、陽成退位の件が無ければこちらの方(清和源氏側)が本来の本家筋。※「本当は陽成源氏」説もありますが、ここでの結論は同じです。

即ち、「天皇(家の本家筋)が(清和)源氏になり、源氏(であった定省親王)が天皇となった」という構図です。

源氏は皇室の血を引いているとはいえ「臣下」すなわち「民」と取れますので、これが1度目の「皇を取って民とし民を皇となさん」となるでしょう。


源氏政権が長く支持された事も、足利家が「天皇を裏切ってまでも」政権獲得に執念を燃やした事も、「本来はこちらが主役」という思いがどこかに残っていたからなのかもしれません。