土曜雑感 「1メッセージ」――究極にシンプルな伝え方

 

1月31日(土)

 

結果を出す人は、一行にすべてを込める。自分のメッセージを1つに絞って一文で伝える。プレゼンや会議、面接など、あらゆる場面で効果を発揮する「1メッセージ」の極意を伝授しするのが「1メッセージ――究極にシンプルな伝え方」(杉野幹人著、ダイヤモンド社)である。

 

メッセージとは何か?

 

そもそもメッセージとは何か?メッセージとは相手に意味のある意見だ。定義すれば、「メッセージとは、相手の論点に対する自分の答えを言葉にしたもの」である。「1メッセージ」とはメッセージを1つに絞って一文にしたもの。

 

それではなぜ、1メッセージで伝えるのか。それはより伝わりやすいからだ。伝わりやすい理由は、「SN比」が大きいことにある。SN比は主に情報通信の分野で用いられるが概念。

Sはシグナルで、相手にとって意味がある情報。Nはノイズで、相手にとって雑音。SN比とは、SとNの強さの比を意味する。

 

 ・SN比=相手に意味がある情報の強さ(S)/それ以外の情報の強さ(N)

 

SN比が大きいと相手に伝わりやすく、SN比が小さいと相手に伝わりにくくなる。1メッセージはあらゆる伝え方の中で、最もノイズを減らし最もSN比を大きくできる伝え方。

 

だが、1メッセージをつくるのは簡単ではない。メッセージの絞り方、言葉の磨き方を最大限に工夫する必要がある。そのための技術が「焦点化」「先鋭化」「結晶化」の3つである。

 

⚫️「焦点化」――論点を絞り込む

第一の技術は、メッセージを1つに絞る時の「焦点化」だ。

*焦点化のコツーー伝えたければ、ます「傾聴」する

人を動かす1メッセージを伝えたければ、メッセージを一番大事な論点に向けて絞り込む。まずは、相手の立場になって考える。ただし、いくら考えても想像できない場面もある。そんな時には、相手の話を聞くとよい。

 

*焦点化のコツはストレートに「質問」する

傾聴しても相手が論点を明示してくれないこともある。そんな時には、相手にストレートに質問するのが一番」だ。相手が何を一番気にしているかを質問し、一番大事な論点を教えてもらい、それ1つに絞って自分のメッセージを届ける。

 

⚫️「先鋭化」――答えを尖らせる

第2の技術は、メッセージを一文にまとめる「先鋭化」の技術だ。

*先鋭化では、尖った答えにこだわる

「先鋭化」とはメッセージを否定に開かれた尖った答えにまとめること。否定に開かれていること、すなわち否定が可能であることが大事だ。尖った答えだからこそ、興味をもって考えやすくなり、相手にも伝わる。

 

*先鋭化のコツ――「反論可能性」を高める

先鋭化の最初のコツは、自分の答えの「反論可能性」を高めることだ。反論可能性とは、議論によって反論できる余地である。反論可能性がないメッセージを伝えると、当たり前で相手にとって意味のない情報になる。

 

⚫️「結晶化」――生々しい言葉を使う

第3の技術は、メッセージの言葉を磨き固める「結晶化」の技術だ。結晶化では、メッセージを「生々しい言葉」に磨き上げる。生々しい言葉とは、相手が具体性をイメージできる言葉のこと。

 

*結晶化のコツは、迷ったら「小さな言葉」を使う

小さな言葉は具体的である。会社の面接で、応募者が次の1メッセージで答えるとする。

「地方を活性化させたいと思って、日々活動しています」。同じ人が「松山のため、松山城の紹介を毎日インスタに投稿しています」。後者の方が直感的で生々しい言葉として伝わるのではないか。こう言われたら。相手が具体的に何に関心をもって、どんな1日を過ごし、どんな価値観の人か、より伝わってくるだろう。

 

*結晶化のコツーー「数字」でピンポイントに伝える

数字にできるところは数字に置き換えて伝えると、生々しくなり、相手が具体的にイメージしやすくなる。数字で伝えるなら、「約」は抽象的だから、端数にこだわろう。たとえば、「様々の場面でリーダーをしてきました」。もう一つは「6つの集団で計百147人を率いるリーダーをしてきました」の方が生々しい言葉になり、相手が具体的にイメージできる。(「TOPPOINT」から抜粋)  

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月30日(金)

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学としての「全一学」を提唱する書でもあります。本日は第6章「人間出現の意義」の第3節「人間の出現と歴史のあゆみ」の1回目です。本日は「人間」が出現したのはいつ頃であろうかと問いかけています。

 

わたくしは、自分の“いのち”が牛馬犬猫としてはなく、人間として出生せしめられたことに対して、深い謝念と感慨をもって、承受するようになったことを述べると同時に、このような感慨は、実は素朴なわれらの祖先は人生最深の知慧として身につけていたのである。

 

わたくし自身は、なまじい西欧的な分別知のゆえに、このような人生に関する根本知を疎かにしつつ今日に到って、今や余命いくばくもない現在、ここに再び、“いのち”の「開眼」に導かれたことに対して、無量の感慨を禁じ難いのである。

 

このことは、以下わたくしの考察が、しだいに人類の歴史的展開の歩みに向けられるようになれば、それに対して如何なる知見として、その光を投射するようになるかは、実はわたくし自身にも、現在のところまだ充分な予見も見通しも、判然とはしないと言ってよい。

 

かくして真先きに問題となるのは、世界におけるに人間の出現の意義、並びにそれが宇宙及び人類の歩みの上に、どのような意義をもたらしたかということであろう。この点については、そもそも人間の地球上への出現が、一体如何ほど以前かといことが、まず問題となるというべきであろう。

 

かかる問題については、その道の専門家の言を聞かねばなるまい。しかるにこの点については、専門家同士の間でもいろいろ異論があるとのことであるが、ーーかかる原人に近い人間に対して、それを高度に発達して人間と区別するために、近ごろ“ヒト”という名称が多く用いられ出したようなので、わたくしもこの語を用いることにしたいと思うがーー

 

初めてヒトがこの地球上に出現したのは今から大よそ五十万年以前と見る人が多いようであるが、中には百万年前とする人もあり、最近では二百万年前との説をなす学者もあるようである。・・・問題はヒトと呼ばれる原人から、「人間」と呼ばれるような存在が出現したのは、如何ほど以前のことかという問題であろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月29日(木)

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本日は第6章「人間出現の意義」の第2節「人間としての“いのち”の所与」の最終回です。

今回は「いのちの所照」から「いのちの自証」です。かつての「恩の形而上学」が「いのちの所照」=生かされているのに対して、「創造の形而上学」は「いのちの自証」=いのちの根源を知ることで、ただ生かされているだけではなく、この世に生まれてきた意味、使命を知り、それを果たしていくことです。

 

随って今やわたくしには、かかる絶対的能照光はーーこの書においては、それは「絶対全一的生命」と呼ぶ場合が大方であるがーー万有創造の絶対本源として、万物創造の無限なる階序を貫いて、このわが身に照射の焦点が結ぶと恩光感受せられるのである。

 

それゆえにこそ、ここには我が身の現在享けているこの“いのちが、人間としての”いのち“であって、牛馬犬猫のそれではなかったことに対する、無限の謝念を覚えずにはいられないのである。

 

かくしてまた、「恩の形而上学」の立場においては、なるほどわが身一人の身・心には、絶対者の”いのち“からの照射の恩光――この場合「溫」とは、”いのち“の内面光というほどの意――照射照徹は、わが身に自覚はしたが、かかる絶対者の”いのち“の照射が、絶対者の創造せる全被造物の階序階層を通して、このわが一身に”いのち“の照射を享けているとの自覚については、実感としては、未だしきものがあったと言ってよいであろう。

 

甚だ誤解の恐れあることではあるが、「創造の形而上学」と題するこの書は、いわば「恩の形而上学」における、“いのち”の所照の自覚の体認承受に対して、ある程度客観的な投影化を試みたものといえるであろう。

 

随って人によっては、この書の立場よりも、むしろかの書の立場のほうに、より賛意を表せられる向きもあるかと思われるが、少なくともわたくし自身にとっては、かの書が成って以後、四十年に近い人生の歩みの果てに、今一度このような、ある意味では、かなりな程度の立場の転換により、絶対なる“いのち”の今一つの象面に対して、いささかの自証の努力を為し得たことについては、その成果のいかんに拘らず、密かなる謝念の禁じ難いものがあると言ってよい。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月28日(水)

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学としての「全一学」を提唱する書でもあります。本日は第6章「人間出現の意義」の第2節「人間としての“いのち”の所与」の4回目で、「恩の形而上学」(いのちの所照=生かされている)から四十年の今を述べています。

 

それでは何ゆえに我われ人間は、牛馬や犬猫ではなく、人間としての「生」(いのち)を与えられたことに対して、そのように感謝の念を抱かねばならぬのであろうか。もし我われが人間としての「生」を恵まれなかったとしたら、我われは苦悩の意識もない代わりに、そこには喜びの情など絶対にあろうはずはないわけである。

 

そのような悲喜・哀歓の情が、仮に全欠していたとしたら、この世はただ灰色一色の画面を見るようなもので、そこには何らの趣も味わいも無いといってよかろう。即ち、全く無味乾燥な人生であって、そこには人生の深さも味わいも全欠していると言うべく、まるで無限の広表に広がる砂漠の唯中を、ただ己れ一人で歩かなければ」ならないような一生であって、まともに深思深省する時、何人がかかる人生に堪え得るであろうか。

 

しかし、このような事柄は何ら新しい問題ではなく、心深き古え人たちの多くにとっては、常にその心より離れなかった事柄だったといってもよいであろう。

 

では何ゆえこの点について繰り返し述べるかというに、今や余命いくばくもない時点に辿りついて、改めて自らの“いのち”の絶対的淵源に対して、その遡源深省をせざるを得なくなり、この地点まで辿り着くことによって、初めて如是の深省に導かれつつあるが故である。

 

なるほど、わたくしには、今から四十年ほど前に、「恩の形而上学」と称する一書があり、すでにその中において、如是の絶対光の光被による所照の自覚の立場に立ったが、しかしそのとき絶対光は、ただ絶対能照光として、直接わが身にその光が降り注ぐ照射の恩光の自覚であった。

 

今や四十年という永い生涯の有為転変と、それに即してのいささかの思索のゆえにか、今やわたくしには、かかる絶対能照光を、「世界創造」という大用の絶対的根源として、仰ぎ得るに到ったのである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月27日(火)

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本日は第6章「人間出現の意義」の第2節「人間としての“いのち”の所与」の3回目で、人間として生まれたことへの自覚と感謝の念を述べています。

 

現在我われ人間の悩みと苦患の原因は、実はこの根本の一点への認識の根本的欠除、ないしは喪失と言ってよいであろう。けだしそれは、「この身自らが実はそのまま、その一切を神から与えられ、神によって生かされている身だ」ということは、宗教の根本第一義諦と言ってよい。

 

いやしくも宗教の根本眼目としてのこの第一点の説き方が、もし不充分だったとしたら、自余の教説の説き方が如何に巧妙であろうとも、かかる宗教ないし宗派は決して卓れたものとは言い難いであろう。

 

然るにこの点は、これを更に追求し深めてゆくと、我われ自身が人間として生まれないで、牛馬鶏犬などに生まれていたとしても、何ら苦情の言えた義理ではないばかりか、そうはならなかったはずという如何なる理由も根拠も、根本的には皆目無いと言わねばならない。

 

かくしてこの書の冒頭以来わたくしは、全く身のほども弁えず、「世界創造」という最至難の根本問題に対して、その秘密への探究を祈念してきたわけである。今やその歩みの途半ばにして、すでに自己帰還への転回点に立たしめられたと言ってよい。同時にわたくしは、すでに如是の真理に目覚める知見を恵まれていることへの、自覚と感謝が始まったと言ってよい。

 

実際我われ人間が、「この自分は、人間以外の物に生まれるはずは絶対に無かった」とし、そして「今人間として生まれたのは当然だ」と言い得る人間は、ただに一億二千万を越えつつある。

 

なるほど、さかしらな人間の中には、「イヤ、むしろ牛馬か犬猫に生まれていた方が、苦しみも知らずに済んでいたろうにーー」とか、さらには、「自分は何も意識しない貝になりがい」などという人間も無いでもないらしいが、斯くの如きは、皮肉な知性をもつ人間の反語という以外の何物でもない。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月26日(月)

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本日は第6章「人間出現の意義」の第2節「人間としての“いのち”の所与」の2回目で、自らの“いのち”の「自証」の歩みを通して、「わたしの“いのち”が人間の“いのち”の一つとして、与えられ恵まれたという事実に対する無限の感謝の念い」を述べています。

 

人間にとっては、わが身に授かった“いのち”を自証する努力こそが、真に真実の歩みと言い得るのである。同時にかような“いのち”の自証の歩みによって、我われの辿り着くところは、畢竟するに出発点たりし“いのち”の本源だということこそ、実は“いのち”そのものの持つ絶対の真理だからである。

 

かくしてこの書の冒頭以来、辿ってきた歩みは、己が“いのち”の「自証」の歩みのつもりである。ここまで辿り着いたわたくしにとっての、新たなる深い感慨は、わたしの“いのち”が人間の“いのち”の一つとして、与えられ恵まれたという事実に対する無限の感謝の念いだといってよい。

 

わたくしが現在身にしみて感謝に念に耐えないのは、自分が現在ここに人間の一人として、人間としての“いのち”を授かって生かされているということである。さればこそ、わが“いのち”の絶対的淵源ともいうべき、「世界創造」という絶大な問題について、それが如何に至難な問題にせよ、回避するわけにはゆかなかったわけである。

 

東洋の古いコトバの一つとして、「報本反一始」という語があるが、これは自らの“いのち”の本源に遡り、それによって逆に自らの生き方を正そうとする、人生の根本態度といってよいであろう。実際、我われが人間の一員としての「生」を与えられているという事自体に対して、一体我われ自身、如何ほどの努力をしたと言えるであろうか。

 

この点に関しては、全く一毫もそれに対して尽くしたと言い得る者は、一人として無いわけであって、凡てがこれ天から授かった“いのち”という他ないわけである。実際古人が、「人身享け難し、然るにわれすでに之を享く」と言った深省は、近代文明のために、いつしか人間中心的になった現代人の、遠く喪失したものと言わねばなるまい。

 

思うに人生とは一種のデセンガニョ(幻滅)である

 

1月24日(土)

 

幸福な人生などというものは不可能である。19世紀ドイツの哲学者、ショウペンハウエルが最後に考察した人生、そして死に関する論考を紹介したのが「自殺について 他四篇」(斉藤信治訳、岩波書店)です。主著の「意志と表象としての世界」(1819年)は、独創的な意志の哲学を唱え、ニーチェに大きな影響を与えたとされています。

 

幸福な人間は誰もいない

 

現在を享楽すること、そういう享楽な人生を目的とすること、これが最高の知恵である。何故なら、現在だけが実在的なもので、他の一切は虚妄にすぎないのだから。けれど、それを最高の愚鈍と名づけることもできよう。何故なら、その瞬間はすぐになくなってしまう、あたかも夢にように消え去ってしまう。

 

我々の現存在は、かなたへ消えゆく現在以外に何らの基盤ももっていない。それ故に、我々が絶えず希求している安静の可能性はそこにはない。現存在はいわば山道を駆け下りている人間の足どりに似ている。身を支えているためには絶えず駆け続けている他はないのである。というわけで、動揺ということが現存在の原型なので、幸福などということは考えることさえできないのである。

 

たいていの人達は晩年に及んでおのが生涯を振り返り、自分の生涯は全く行き当たりばったりに生きてしまったと言う風に感じるようになる。このように人間の生涯は、希望に欺かれて死のかいなに飛び込むということの他ないのである。

 

人生は「自己目的」である、と言って恥じることを知らない者たちがいる。これほど愚かしい目的は、未だかって打ち立てられたことはなかった。人生は先ず、1つの課題として提示される。おのが生活のために働らなければならない、という課題である。ところがこの課題が解決されるとなると、第2の課題が出現してくる。

 

即ち、一切の安穏な生活の上に襲いかかってくるところの退屈なるものを防がなければならない、という課題である。まさしくこの退屈なるものが、現存在はそれ自身において何らの価値をもっていないことを証明している。

 

要するに、生きんとする意志の一切の努力は本質的には虚無的なものであるということ、これがいなかる時にも真実で率直な告白である。恵み豊かに夢みる小児期、歓喜に溢れた青年期、労苦に満ちた壮年期、肉体は崩れ往々にして悲惨なる老年期、死病の責苦、そして最後に断末魔の苦悩――。思うに人生とは一種のデセンガニョ(幻滅)、即ち幻想の滅却である、というのが人生に関する最適切な解釈であろう。

 

最上のことは自分自身で死の時を選ぶことができる

 

自殺を犯罪と考えているのは、一神教のユダヤ系の宗教の信者だけである。旧約聖書、新約聖書にも、自殺に関する何らかの言葉さえ見いだせないのである。果たして自殺が犯罪であるかどうか、この点に関しては、何よりもまず倫理感情に訴えて判定を下せばいい。知人が自発的な死を遂げたという報道に接した場合、呼び覚まされてくるものは哀愁と同情とである。

 

自発的にこの世から去っていった人たちを、一体だれもが犯罪者に対するような増悪の念をもって回想するようなことはないであろう。否、断じて否!むしろ私は、僧侶どもが一体いかなる機能によって、敬愛する人達がなした行為に対して犯罪の刻印を押したり、名誉ある埋葬を拒んだりするのか、弁明を要求すべきである、という意見を有している。

 

古代の人たちもまた、そのような態度からは遥かに隔っていた。プリニウスは言っている。「生命というものは、どんな犠牲を払ってもこれを延ばしたいというほどまでに、愛着せられるべきものではないと考えている。だから誰もがおのが魂の良薬として何よりもまず次のことを銘記しておくべきであろう。

 

――自然が人間に与えてくれたあらゆる賜物の中で、時宜をえた死ということにまさる何物もないのだということ。その場合にも最上のことは、誰もが自分自身で死の時を選ぶことができるということなのだということ」。

 

幸福な人生などというものは不可能である。人間が到達しうる最高のものは、英雄的な生涯である。そのような英雄的な生涯を送る人というのは、何らかの仕方または事柄において、万人に何らかの仕方または事柄において、何らかの意味で役立つようなことのために、異常な困難と戦い、最後に勝利をおさめはするが、酬いられるところは少ないか、あるいは全然報いられることのないような人である。(「TOPPOINT」から抜粋)

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月23日(金)

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本日は第6章「人間出現の意義」の第1節「『世界創造』と“いのち”の自証」の3回目で、“いのち”の自証“の歩みは厳しくも、恵み多きものであったと述べています。

 

我々造られた者にとっては、その与えられたこの地上の“生”は、“いのち”の本源たる御親の懐に還り行くことにあるようである。この真理については、古来幾多の先人たちがこれを繰り返し、後来の者に対して言い残してこられたのであるが、今やわたくしも、ようやくにしてこの偉大なる真理のもつ真理性の一端が、分かりそめたと言ってよく、否、そうした地点に達しようとしつつあるかのようである。

 

つまり、わたくしに与えられている“いのち”が今や少なくなり、召される日が刻々に近づきつつあるが故であろう。・・・まことに、“いのち”の自証“の歩みは厳しくなかったとは言えないが、それにも幾層倍して恵み多きものであった言わねばなるまい。いまわたしには、安易に「楽しかった」などという気持ちは寸毫も持たない。否、これは現在のわたくしが、未だ道半ばなるが故であろう。

 

“いのち”の自証の営みが、もし楽しいというようであったとしたら、それは“いのち”の本源に近づき、その「真」の一端に触れうる処から来るものであって、世の常のいわゆる「楽しみ」などとは、全く次元のことなるものだということを知らねばなるまい。

 

わたくしが先に、“いのち”の自証の歩みが厳しくなかったとは言えないーーといったのは、まさしく“いのち”の階層における次元的登攀を意味するが故である。ここに“いのち”の階層と言い、その次元的登攀というのは、立場を翻転すれば、いよいよ絶対者の能照光のわが身内に照徹して来る趣について言うことを知らねばなるまい。

 

それにしても、途半ばに達したとの念いから、これまでのわが身の辿り来たった歩みを、回顧し回想してみることにより、この書の冒頭いらい辿ってきた歩みが、結局は自らの“いのち”の「自証」の歩みに他ならなかったということを、改めて知らされる機会に恵まれたのである。もしそうでなかったとしたら、たとえ旅路の果てに辿り着いたとしても、その終着点が本来出発点だったということには、気づかずに終わったかも知れないからである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月22日(木)

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本日は第6章「人間出現の意義」の第1節「『世界創造』と“いのち”の自証」の2回目で、「世界創造」を知るための「“いのち”の自証」の意味を説いています。“いのち”の「自証」と「化他」は「全一学」を理解するための最重要テーマです。

 

この書の冒頭以来、「何を手懸りとしてここまで歩んできたか」と、もし人あって尋ねられたら、「この自分というものに与えられ授けられ、恵まれたこの“いのち”の微光を求めつつ、幽かにそれに導かれつつ歩み続けてここに到った」とでも言う他ないのである。

 

そのような”いのち“の微光は、いわば”いのち“の「自証」よりして発するものだということが、幽かに解りつつあるのである。ここに「“いのち”の自証」というのは、わが身に授かったこの“いのち”の中にこめられているものを承受して、その無限の味わいを心ゆくまでよく噛みしめ味わうことの謂いに他ならぬと考えられるわけである。

 

しかもこのような“いのち”の承受と自証とは、実に我われ有限者が自己に与えられた“いのち”を心して受け止め直し、受け入れ直しつつ、どこまでも確かめゆかんとする謂いだといってよいであろう。

 

このような“いのち”の承受と自証への努力以外に、いかにして「世界創造」という絶対的大業の秘奥について、たとえその極微の一端にせよ、これを伺い得ようはずはないと考えるのである。それは悠遠無窮なる絶対過去の出来事なのである。否、我々のもつ「時間」という尺度を以ってしては、絶対に測りえない悠遠なる過去世の出来事という他ないであろう。

 

それに対して私の取った態度と努力は、結局わが身に授かったこの“いのち”そのものを手懸りとして、―――というのである。・・・そもそもこれ以外に、一体いかなる方途があるというのであろうか。実際、我われに与えられこの“いのち”こそは、絶対者の“いのち”の分身であり、一切の秘奥も実はそこに込められているはずだからである。

 

かくしてこの地点まで辿ってきたわたくしの歩みは、まことに愚かに、しかも甚だ遅々たるあゆみであったが、「“いのちの自証」への試みと、その努力の足跡だったと言う他あるまい。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月21日(水)

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。前回で本書の半分を終えたことになり、本日から後半の第一歩が始まります。本日は第6章「人間出現の意義」の第1節「『世界創造』と“いのち”の自証」の1回目で、この書が求めてきた「世界創造」の秘奥を探りたいとの希求を、改めて強調しています。

 

この書の中心テーマとしてきたものは、「世界創造」の秘奥の一端をどうしたら、被造物の一種に過ぎない人間の分際で伺いうるかという問題だったといってよい。元来この問題は、有限存在たる人間にとっては秘奥であり、神秘という他ないわけである。

 

ではそのように、あらゆる点から不可能というべきこの問題、即ち「世界創造」に秘奥を探りたいとの希求を、何ゆえ持つようになったのであろうか。それはこの根本の一事が、たとえその極微の一端でせよ分かるのでなければ、この地上の「生」は、ついに無意義に了る他ないと考えられるが故である。

 

人間がこの地上の“生”に恵まれたということは、それだけの意義、ないし理由なくしては有り得ないことだからである。では一体、我々は何を手懸りとしてこの絶対の難問と取り組んだらよいのであろうか。それには目的が「知る」こと故、如何に有限だとしても、我われ自身の知性を手懸りとすべきであろう。かつてそのように考えたが、その結果は失敗であった。

 

それというのも、人間に与えられた知性たるや、もともと有限知に過ぎないからである。では何ゆえ人間に与えられている知性は有限知なのであろうか。それは物事を知るには、知るという「能知の作用」と、知られる物としての、いわゆる「所知としての対象」に分裂するが故である。

 

「世界創造」という問題は、悠遠無窮の過去世に属する事柄である。それにも拘らず、その秘奥につては、いかに極微の程度にせよ、とにかく伺い知りたいとのわたくしの希求の念は、どうしても断ち難いものがあるのである。わたくしの地上の一代は余すところ幾何もないこの頃であるのに、今やわが身の資質の庸劣さをも忘れ、この地上最難の問題と取り組もうとしているのである。