「全一学」提唱の「創造の形而上学」
4月10日(金)
森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の提唱です。本日は第9章「救済・自証・献身」の第2節「いのちの救済とその自証」の2回目で、「人間は自己認識の知という点で、不充分な知しか与えられていないが、これは何故か」と問いかけています。
人間に対して、現在のように対象の認識を可能とする知性に恵まれているということは、それだけでも実に至大の恩恵慶福というに値するかと思うのである。そこで次に問題となるのは、「それにも拘らず、人間は自己認識の知という点では、甚だ不充分な知しか与えられていないが、これは何故か」という問題になると言えるであろう。
同時にこの問題は、ある意味では哲学上最至難な問題の一つといってよいであろう。そこでこの問題を考えるに当たり、真先に知らねばならぬことは何かというに、神は人間に対して、決して自己認識の知性を恵んでいないわけではないということである。それにも拘らず、人間はこれを行使することを好まず、極力これを回避しようとしつつあるのが実情だといってよい。
だが、ここでも言わねばならぬことは、このように自己認識は、その使用度が比較的少ないともいえようが、それだけに我われ人間は、常にこの点については深く留意して、それを必要とする場合には、怠ることなく充分にこれが行使について心しなければならないということである。
人間的知性の有限性について、考察を試みたが、それはひとえに、人間の苦悩はすべての面において有限であり、しかしそれらのうち、知性の有限性が最も深く人間的苦悩の原因となっているかと思うが故に外ならない。即ちこれを端的には、古来我見ないし邪見と呼ばれているものに他ならぬわけである。
しかるに「我見」に到っては、ただにそれを必要としないのみか、逆にそれは有害であり、時によってはそのために我が身を亡すに到ることも知らねばならない。かの当てつけの自殺というが如きは、実はこの「我見」を捨てかねて命を捨てるに到るものといってもよかろう。