「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

 

1月20日(火)大寒。

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本日は第5章「陰陽論――東方的動的二元論」の第5節「『易』の世界観とその即実性」の3回目で、「玄語」「敢語」「贅語」の三大著述で、自らの思想を体系的に表現した三浦梅園を讃歎しています。

 

かくしてわたくしの想念上に浮かぶ一つの問題は、わが国の若き哲学学徒のうち、心ある人々から、この陰・陽の二大原理の交互循環的な動的円環を、その体系の主軸に置きつつ、しかもその理論的体系性においては、西洋の哲学体系と比べても遜色のない、新たなる哲学体系の意図する人の出現を待望すること切なるものがあるのである。

 

しかもそのような試みは、実にわが国においては、すでに徳川時代に一人の卓越した思想家が出現し、真に驚くべき雄大な哲学体系として、一応完成を見ていることは実に驚嘆すべき偉業と言ってよいであろう。その人の名を三浦梅園という。

 

大分県国東半島に中心に位する双仔山麓に生を受け、生涯を賭けて「玄語」「敢語」「贅語」という三大著述によって、自らの思想を体系的に表現しているのであって、まさに「日本人放れ」した、空前絶後の偉業といってよいであろう。しかも彼の出現した時代は、西洋では大哲人カントとその出生並びに死没は、それぞれ二、三年の相違しかないということは、我われ邦人にとっては、全く看過を許されない重大性をもつ事実というべきであろう。

 

因みに、彼の主著「玄語」においては、生涯に稿を改むること三十回を越えており、自らの学を「条理学」と名づけているが、彼によればこの大宇宙の間には一定不変の理法が存するゆえ、かかる宇宙的条理を学の対象としようと考えたわけで、全く現在の哲学に該当する。当時は儒教一点張りの徳川時代ではあったが、自らの学を儒教という旧い概念の下に置くには忍びないものがあったであろう。

 

最後に今一つ付言すべきは重大な事柄は、陰陽の思想を創生し、その経典化さえ成就したのは漢民族であるが、三浦梅園のように、陰陽の二概念の無限交替と循環を中核にすえ、一切の古典的形態を越え、この宇宙的真理を洞察徹見し、その理論体系を完成した偉業は、いかに讃歎しても尚足りない想いがするのである。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月19日(月)

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本日は第5章「陰陽論――東方的動的二元論」の第5節「『易』の世界観とその即実性」の2回目で、「易」の適用範囲は一国の最上位者、さらに一国の運命についても免れないと説いています。

 

二十世紀の半ばを超えた現在でも、民衆の実情を仔細に考える時、なお吉凶の観念がいかに深く浸透し、支配し続けているかを想察しているのである。けだし吉凶とは善悪とは違って、非合理な観念ではあるが、善悪と比べて民衆の心を支配しているのは、人間存在自体が有限存在だということにその根基があると言えるであろう。

 

だが、「易」の世界観が単にかかる種類のものにすぎないとしたら、この書の中には取り上げないに相違ない。では何故この書の中にその位置を与えるかというに、実は最も深い切実な人間界の具体的真理が示唆されているが故である。

 

試みにその一端を挙げるとすれば、かの「奢る者は久しからず」とは、人々のなかには単に平家の運命について言われるくらいの、浅薄に考える人もあるかと思うが、その淵源は遠く「易」理に基づくものである。同時にこの「易」の適用範囲は一国の最上位者ばかりではなく、一国の運命についても免れえない深刻な現実的真理が提示されているといってよい。かつてはローマ帝国を初めとし、幾多の実例を世界史は提示しつつあるわけである。

 

我々にとってより深刻かつ切実なのは、わが国の民族的危機が予兆されていることを痛感せずにはいられないのである。即ち昭和40年から徐々に上昇線を辿りつつあったわが国の生産力は、昭和45、6年をピークに米国に次ぐところまで来たが、石油ショックを境に公害問題、並びに自然破壊などの諸問題が一挙に噴出し、生産力のみならず民族の衰退の兆しすら、各方面に現出しつつあることは贅言を要しないであろう。

 

今ひとつ「易」には「極陰は陽に転ずる」との真理のあることを知らねばなるまい。これは真理の正逆の一面を示すもので、絶対なる宇宙生命の発展展開の相よりも、無限循環の面を重視することにより、固定的な「永遠」の概念ではなく、転変流転の相に即して、永劫の真理を告知するものといってよいであろう。

 

「心理的に豊かな人生」へ

 

1月17日(土)冬の土用入り。

 

良い人生とは何か?どうすれば、より良い人生を送れるのか?「幸福」を追い求めるのでもなく、「人生の意味」」を問うのでもない、第3の道、「心理的な豊かさ」を目指す人生を提案するのが「Rich Life」―まだ知らない景色が人生を豊かにする(大石繁宏著、シカゴ大学マーシャル・フイールド心理学教授、日経BP刊)である。

 

「良い人生」への道

 

アリストテレスによれば、「幸福」は究極の人生目標だ。だが、幸福を求めることには問題点もある。幸せでなければならないというプレッシャーがあるため、悲しみ、怒り、苦悩を感じることが望ましくないとされがちだ。しかし、ネガティブな感情を避けることはできない。誰かに批判された時、嫌な気分になるのは自然なことだ。

 

次に幸福を求め過ぎなければ、手に入れるものがよりたやすくなる。「ほどほどの満足」を受け入れれば、自分の決断に満足し、幸せでいる可能性はより高くなる。しかし、「ほどほど満足」志向には負の側面もある。例えば、現状に満足することで、必要な挑戦や自己成長をためらうようになるからである。

 

では幸福な人生以外に、どんな良い人生があるのか?米国の小説家のドナ・タートは、「たとえ自分の幸福を犠牲にしても、自分以外の人々を幸せにすること」と述べている。これは多くの学者が「意味のある人生」と呼ぶものだ。言うまでもなく、意味のある人生は無意味な人生よりも、はるかに魅力的に映る。

 

しかし、いくつかの問題点も浮かび上がる。1つ目は、世の中を変える存在になれというプレッシャーは、幸せを強いられるプレッシャー同様に、精神的な負担になることだ。2つ目は意味のある人生を追求することが、かえって視野を狭める可能性がある点だ。例えば、犯罪学者のサイモン・コッティー教授は、人々がテロ組織に加わる主な理由の1つは、人生の究極の意味を求めるためだと主張している。

 

幸福と人生の意味が「良い人生」への道であることは間違いない。しかし、この2つだけに依存すると、良い人生を手にすることが難しくなる。実は、良い人生を実現するためにもう1つの方法がある。この第3の道こそ、私が「心理的に豊かな人生」と呼ぶものである。

 

心理的に豊かな人生とは?

 

心理的に豊かな人には、特有の性格特性があるのがどうか?この疑問に答えるため、米国、韓国、インドで5000人以上の被験者からデータを収集した。その結果、心理的に豊かな人生を送る上で、「経験への開放性」と「外向性」が主な性格特性であることがわかった。開放性の高い人は想像力に富み、好奇心旺盛で、知的・芸術的な追求に興味をもっている。

 

海外留学を経験した学生は、しない学生よりも、時間がたつにつれ経験への姿勢が開放的になるという。経験に対する開放性と心理的豊かさとの間に相互循環的関係があることを示している。経験への開放性を持つ人がアイデアに興味を持つのに対して、外向的な人は他の人々に興味を持ち、いろんな人と交流する。それにより多様な経験を積むことができ、それで人生がより豊かになる。

 

だが、そうした性格や気質を持っていない人は、どうすればよいのか。答えの1つは、「遊び心」を受け入れることだ。スイスの心理学者ルネ・プロイヤー教授は言う。「少しふざけた自分を受け入れることへの開放性であり、能力に過度にとらわれず、尊大にならず、規範を絶対視せず、曖昧性や多面性を知恵と喜びの源と見なす」ことが、遊び心の特性だと。

 

心理的に豊かな人生は、より真剣な活動を重視する幸福や、人生の意味を追求する生き方とは対照的だ。人生の意味を見いだすためには、困難な問題の解決に時間を費やし、他者のために身を捧げなければならない。幸福もまた真剣なものである。

 

心理的に豊かさを生む経験には、次のような共通点がある。

・新鮮さ――同じことの繰り返しではなく、新しい要素がある。

・多様性――幅広い関心と感情が引き出される。

・挑戦――人生が通常より困難で複雑になる。

・記憶に残る――日々が鮮やかに感じられる

 

私は「心理的に豊かな人生」が最高の人生だとか、「幸せな人生」や「意味ある人生」よりも優れていると主張しているのではない。単に、心理的豊かさを優先させることが、より良い人生を送るための1つの方法だと提唱しているのだ、ゴルトムントのように、たとえ幸せではなく、人生に意味を見いだせなくても、興味深く、物事の見方が変わるような経験をたくさん積んでいけば、良い人生を送ることができる。良い人生の形は1つだけではないのだ。(「TOPPOINT」から抜粋)

 

 

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月16日(金)

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本日は第5章「陰陽論――東方的動的二元論」の第5節「『易』の世界観とその即実性」の1回目で、西洋哲学のみではなく、なぜ「易」の世界観体系を取り上げるに到ったか、思想の即実性について詳しく述べています。

 

「易」の発生が人事その他、この天地間に生じる百般の事象に関する、吉凶の判断に発したことは、非常に重大な意義を有するかに思われるのである。西洋哲学が主として純粋な知的関心に発したものと異なり、両者の間には、相違なる長短の両性格というべきものが観ぜられるが故である。

 

西洋哲学と呼ばれるものは、東洋思想には容易には見出し得ないような、思想体系のスケールの雄大性が見られるが、同時に他の一面からは、「ではそれは、現実界に対して如何なる意義を有するか」ということになると、何人も容易にその理解が可能だとは言い難いものがあると言えるであろう。

 

西洋哲学によっては解明し難いのに、「易」の世界観においては、現実に即応して離れぬ切実な真理の展開こそ、実は「易」の世界観にとって、いわば十八番ともいうべき処かと言ってよいであろう。わたくしが西洋哲学的世界観にのみ留まり得ないで、東洋的世界観の一代表ともいうべき、「易」の世界観体系を取り上げるに到ったのも、実にこの故だといってよい。

 

以上を一言でいうとすれば、思想の即実性の重視というべきかと思うのである。即ち「易」の世界観は、その発生起源からして、つねに現実の難問を取り上げつつ、それに対して如何なる態度及び方法を以って対処すべきかを示唆する点に、その出現の淵源があったといってよい。

 

それ故一つの重大な問題は吉凶と善悪との別が十分にはなされていず、両者は分別以前の渾沌において扱われたと考えてよいであろう。しかしその際いずれがより根本的に人々の心を支配していたかといえば、勿論善悪ではなくて吉凶だったに相違ない。何となれば、善悪の観念が発生するのは、かなり後の時代を待たねばならなかったからである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月15日(木)小正月。

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学としての「全一学」を提唱する書でもあります。本日は第5章「陰陽論――東方的動的二元論」の第4節「『易』の世界観における動的二元論」の最終回で、本書を書くに当たり、「易」的世界観を導入した理由を述べています。

 

かくして「易」における二大根本契機としての陰・陽の原理は、その妥当領域を文字通り全世界大と考えてもよいであろう。それを単に「動的二元論」というだけでは、その真を逸するというか、真の趣を表現し得ないであろう。

 

もし強いて命名するなら、「陰陽的二元論」ないし「陰陽的動的二元論」とでもいう他ないであろう。これなら、質的観点からの命名として、世界観体系としての「易」の特質を充分に表現していると言えるであろう。

 

わたしはこの書の論述に当たり、その根底というか基盤としては、かのライプニッツ華厳的なる「重々無尽的」形而上学的な世界観構造を予想していながら、それだけでは満足し難いものがあって、もう一つ、動的展開の契機を包有している世界観体系が必要であり、それにはヘーゲルの弁証法的世界観体系が考えられはするが、いささか形式的に過ぎるキライなしとしないので、ついに東洋の天地に立ち還って、「易」的世界観を導入しようとしたのである。

 

この「易」の世界観は、これまで述べてきたように、その妥当領域が広くて下記の通りである。(1)人間存在にとって、最も深刻切実な「生」の現実的根源としての男女・夫婦の関係に対して、根本的に当てはまるのみならず、(2)さらに全生物界から、さらに物理的世界にすら、その妥当領域をもつ点からしても、優に世界観体系としての定立根拠があると言えるかと思う。

 

さらに(3)これら以外にも、この陰・陽に二大原理は、人間存在にとって、個人の運命はもとより、これを大にしては一国民族の歴史的運命に対しても、実に深刻極まりないほどの妥当性を持つと言ってよい。実際にそうした点から、現実界に対して、これほどまでに深刻切実な妥当性を示す哲学説は、地上に皆無とっても決して過言ではないであろう。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月14日(水)

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本日は第5章「陰陽論――東方的動的二元論」の第4節「『易』の世界観における動的二元論」の3回目で、人間存在における男女・夫婦から出発した陰・陽という「易」が世界観として成立する根拠を提示しています。

 

では、循環的二元論の存在意義はいかなる点にあるかというに、これの該当するのは四季の循環であろう。次にはいうまでもないことながら、男女および夫婦の間柄であろう。何となれば、男女・夫婦は密接かつ切実な人間関係だからである。それというのも、この「易」の世界観ほど適切に、男女・夫婦という切実な人間関係に当てはまるものはないと言えるからである。

 

否、むしろ逆であって、そもそも「易」の世界観において、根本原理を為している陰・陽の二原理は、これを生み出した漢民族が、人間存在における男女・夫婦に着目して抽出したものを天地・陰陽と世界観的に拡大深化させたものと言えるほどである。

 

しかしながら、陰・陽という「易」の二大原理の妥当する領域が、単に人間存在における男女・夫婦の関係のみに留まるとしたら、これを以って一個の世界観体系として定立するわけにはゆくまい。世界観として定立するには、原理の全宇宙大に行われるのでなければならぬが故である。

 

かくして「易」の動的二元論を世界観体系として成立させるには、根本原理としてそこに作用らいている陰・陽に二原理が、ひとり人間の男女・夫婦関係のみではなく、それは動物の全領域にも広く妥当するのみか、さらに植物の全領域も、ほぼその妥当領域として考え得るほどであり、かくしてこの陰・陽に二原理は、ほとんど全生物的世界にその妥当領域を持つとさえ言い得るのである。

 

それのみかこの陰・陽の二原理は、さらにその妥当領域は物理的世界においても、電磁気における正・負の如き、最も典型的というべき妥当するのを見れば、この「易」の思想を世界観体系として定立させようとする必然性への承認が得られると考えるのである。

 

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月13日(火)

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本日は第5章「陰陽論――東方的動的二元論」の第4節「『易』の世界観における動的二元論」の2回目で、なぜ循環的な「易」の世界観に注目するかを述べています。

 

「易」の世界観においては、運動の契機になるのは陰・陽という二契機だけであり、その動きはヘーゲルのように「展開」とはならずに循環的となるわけである。こうした処にも、牧畜を主とした西欧人種の世界観と、農耕を主とした東方的世界観との対照を見るわけである。

 

では、ヘーゲルの弁証法が、歴史の弁証法であるのに比べて、易の循環的世界観はいかなる点にその存在意義があると言えるのであろうか。実はこれこそが問題だと言わねばなるまい。

 

わたしの見るところでは、易の世界観はたしかに動的世界観ではあるが、弁証法のように発展的ではなくて循環的であって、そこに発展的様相は見難いと言わねばなるまい。それにも拘らず、わたくしの考えからすれば、それはそれとして、優にその存在意義があると思うのである。

 

ただ、それは未だ西欧の思想家たちによって、その意義が充分には認められず、それ故にまた、西欧哲学の呪縛から未だ覚めやまぬわが国の哲学学徒にして、これに着目している人は皆無というに近いというのが現状だといってよかろう。

 

このような状況下にありながら、なぜ「易」の世界観を取り上げるかというに、それはこの世界観が単に陰・陽という二大契機に過ぎないにも拘らず、その二契機は決して単なる同種の等質のものでないばかりか、まさに対立的契機であり、積極と消極というまさに正逆な原理と言ってよいのである。

 

随ってこれら二種の根本契機は、それぞれ相対立していながら、逆にまた相補の関係に立つわけである。一応二元論というとしても、その二元が等質的二元ではなくて、異質的な二元であり、しかも両者は互いに相対立しつつ、しかも互いに相補関係にある異質的二元論なのである。

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

1月12日(月)成人の日。

 

昨年から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本日は第5章「陰陽論――東方的動的二元論」の第4節「『易』の世界観における動的二元論」の1回目で、世界観の類型で関心あるものとしてライプニッツの重々無尽的世界構造、「易」の世界観、ヘーゲルの弁証法の3つを挙げています。

 

古来人類の生み出した世界観の類型には、幾多の種類があるが、それらの中で特に関心のあるものが三つある。その一つはこの書の冒頭から展開してきたライプニッツの重々無尽的世界構造で、純粋形而上学としては最高の原型かと考えるのである。

 

第二は前節で概観を試みた「易」的世界観構造だといってよい。今ひとつ心を惹かれるものは、ヘーゲルによって完成された弁証法的世界観である。わたくしが力を入れたいと思うのは「易」的世界観であるが、これら二種の世界観において、共通的なものがあるかというに、それは両者が共に動的世界観だという点であろう。

 

ヘーゲルが弁証法に着眼したのは、青春の一時期にギリシャ史を研究した際、現実の歴史の動く法則として弁証法的真理の作用らくことを発見したといわれるが、如何にも肯かれるのである。何となれば、いかなる事象もすべて弁証法的展開ならぬものはないと言えるからである。

 

それ故、ヘーゲルの功績は弁証法の発見というよりも、これを極大限に展開して、一種の世界観構造にまで練り上げて確立した点にあると言うべきであろう。単に事物が弁証法的に展開しているという程度の認識なら、「三度目が定の目」という卑近が諺一つの上にも見られるといってよい。

 

さて今一つの「易」の世界観であるが、いかなる特色があるといえるであろうか。弁証法と「易」とは共に動的世界観と見てよいが、この二種の世界観は著しい相違があるといってよいであろう。ヘーゲルの弁証法は「正」・「反」という二種の異質的契機が、「合」という第三の契機において合一し、それは次の次元における「正」となるわけである。かくしてヘーゲルの弁証法は、文字通り“展開”をその根本特質としていると言えるであろう。

 

「全一学」提唱の「創造の形而上学」

 

2月11日(水)建国記念日。

 

昨年9月18日(木)から森信三先生の晩年の大作、「全一学」提唱の「創造の形而上学」を紹介しています。本書は心情的な日本人にふさわしい哲学(全一学)の書です。本日は第7章「『善・悪』の問題」の第1節「人間における『善・悪』の問題」の1回目で、宗教・道徳の問題を「善・悪」の観点から考察する理由を説いています。

 

かくして人類の前には、所謂文明ないし文化の問題よりも、さらに一段と深遠かつ深刻な問題の存することが、改めて問題となりつつあるといえよう。ではそれは何かというに、結局は心の問題としての、道徳及び宗教の問題だといってよい。かかる宗教及び道徳の問題を、ここでは「善と悪」の観点から考察してみたいと思うのである。

 

これから取り扱う道徳及び宗教の問題も、「文化の問題として扱われるべきではないか」と考える向きもないではあるまい。だが、この立場は、道徳及び宗教をいわば外部から、文化現象の一つとして考察する立場であり、深き“いのち”の内面的体験として自証する立場とは言い難いと言わねばなるまい。

 

宗教や道徳的体験は各自がそれぞれ自らの“いのち”の内的自証に徹して、初めて真の消息の一端に触れうるものというべきであり、これを文明ないし文化の現象と同一次元において扱うことは、許されないものだということを、まず以って認識する要があるであろう。

 

それと関連して今一つ、この章を「善・悪の問題」として掲げ、道徳および宗教という名称を表面に打ち出すのを避けたが、この点についても、予め自分の立場を明らかにしておく必要があると考えるのである。

 

思うに、宗教・道徳という問題は、我われ自身の“いのち”の最奥底における「自証」の問題ゆえ、それを文化現象でもあるかに考えられやすいコトバの使用は、これを避けたいと念じるわけである。

 

今、この自分にとって絶対不可避な、唯一無二の“いのち”の内的自証の立場に立って、善・悪の問題を考えるとしたら、そこには如何なる心の象面が現出するであろうか。まず痛感せしめられることは、善という事柄が、少なくとも一般的な常識の立場において考えていたほど、容易なものではないことが知らしめられるであろう。

求められる文化的消費と社会的消費

 

1月10日(土)

 

幸福をもたらす消費とは、どのようなものか?消費は量を増やせばいいというものではなく、

どんなものを消費するかを真剣に考えなければ、より幸福な段階へは進んでいかない。レトロブームやミニマリズムなど、近年の消費をめぐる動きを分析し、これからの消費社会が目指すべき方向を探るのが「幸福のための消費学」(間々田孝夫著、立教大学名誉教授、作品社刊)である。

 

「レトロブーム」はノスタルジーではない

 

消費社会は限りなく、新しいものを求める社会。毎年流行が変わり、来年にはたちまち古いものとして扱われる。しかし、一度見捨てられながら復活するものも少なくない。昭和時代の街並みを再現する動き、昭和歌謡など古いものの見直しの動きは数知れない。

 

このような動きを社会学などでは「ノスタルジー」と呼び、過去を懐かしむ感情として広く用いられてきた。「ノスタルジー」は社会が大きく変化するときに現れるとされる。幸福が不安的になった時、精神の安定を保つ働きがノスタルジーと考えられてきた。

 

日本では長く続いた産業発展と経済成長がストップして閉塞感が強まり、その結果として高度成長期やバブル期が懐かしがられているという仮説が立てられている。しかし、昨今の古いもの消費ブームを観察する限り、私にはこの説明が妥当だとは思えない。

 

昭和の街を再現などの「レトロブーム」には次の特徴がある。第一に、担い手(消費者)の多くは若い世代である。第二に求められているのは「昭和レトロ」という言葉が定着したように、その対象は主に戦後の昭和であり、それより古いものはあまりレトロとは呼ばれない。第三に、その動機は目新しさ、面白さ、憧れなどで懐かしさではない。

 

こういった特徴は、それをノスタルジーと結びつけることが困難であることを示している。レトロブームはノスタルジーではなく、若い世代による古いものの掘り起こしと、それを通した「古き良きものの消費」と捉えられる。これまでの時代は、古いものを無造作に捨て過ぎ、多くの価値あるものを失ってきた。これからは古きものを尊重し、その良さを活かしていくべきなのである。

 

「多様性」は質的豊かさを実現する消費文化

 

現代は「多様化の時代」だと言われて久しい。人々は自分の好みに合わせて、多様な消費生活を送るというイメージが1980年代から語られてきた。消費の多様性はなぜ望ましいのか。それは「消費の質的豊かさ」を実現するからだ。かつての貧しい社会では、消費の豊かさとは量的な豊かさのことだった。しかし、モノやサービスがあふれる現在の消費社会では事情が異なる。

 

多くの人々は、今までのモノの消費量を増やすのではなく、何か別のものを求めている。消費を質的に豊かにするとは、内容を変えて消費の満足度や充実感を増大させることなのだ。消費の多様性は消費の質的な変化の可能性を高め、それを通じて消費の質的な豊かさをもたらし、人々のより従実、より幸福な生活を実現する。

 

ではこれからの消費はどんな方向へ進むべきであろう。目指すべき消費ビジョンは2つある。1つは、「文化」の豊かさを求める流れを自覚し、それを追求することだ。ここでの文化とは消費的に苦痛や不快を除去するのではなく、積極的に心地よい、楽しいなどの肯定的な意味をもつ精神状態を実現する様々な活動、また成果を意味している。こういう文化を実現する消費を「文化的消費」と呼びたい。

 

他方で現代の消費は、地球温暖化や大気汚染など多くの社会問題をもたらしている。そこで、これからの消費は、社会に悪影響を及ぼさないようにしなければならない。このような条件を満たす消費を「社会的消費」と呼びたい。これからの消費は、「文化的消費」と「社会的消費」を同時に充実させるべきだ。このような消費のあり方を「第3の消費」と名づけたい。

 

これまで消費者が求めてきたことの1つは、様々な便利なモノやサービスを消費し、モノを大量に所有することだった。これを「第1の消費文化」と呼ぶ。他方、消費社会が全般的な豊かさをもたらすと、人々は富裕層の消費を模倣し始めた。高級ブランドの衣服を身にまとい、外国車に乗るといってことだ。さらに他者にそれを誇らしげに見せつけた。これら世間との関係で意味をもつ消費も求める傾向を「第2の消費文化」と呼ぶ。

 

第1と第2の消費文化は共に、過剰で節操のない消費習慣をもたらし、様々な社会問題を深刻化させた。第3の消費文化は。こうした問題点に対処しようとする、新しく進んだ消費文化だ。単なる物量の多さではなく、自分の姿を他者に示すためでもない豊かな消費を、着実に実現することができるのである。(「TOPPOINT」から抜粋)